いいとこ取り大失敗映画『ビニールハウス』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ビニールハウスというのは主人公の家政婦さんが暮らしている仮住まいなのだがどうしてそんなところに暮らしているのか最後まで観てもよくわからず、韓国社会の経済格差や住宅事情なんかが背景にあったりなかったりするのかもしれないとしても、なんぼなんでもビニールハウスには住まないんじゃないだろうか寒いし暑いし虫入ってくるし、そのくせ家具は一式揃っているし風呂まであるし。これが邦題とはいえタイトルになっているのは言い得て妙な感じである。というのも『ビニールハウス』は全編がまさにそんな映画だったから。つまり、そういう設定とかそういう舞台なら面白いじゃろという発想が先にあって、そこに違和感を持たせない程度のリアリティを与えることができていない。

中谷美紀にちょっと似ている主人公の家政婦さんには高校生ぐらいの息子がいてこのキッズあんまり非行に走りそうのない顔をしているが少年院に入っている。具体的な罪状は語られないので不明だが察するに主人公の夫は暴力マンでこの息子は主人公を助けるために夫を刺し殺したとかそんなんだろう。キッズが少年院から出てきたらまた一緒に暮らすためにとビニールハウスで半ホームレス生活を送りながら家政婦の仕事でお金を貯めている主人公。その勤務先は中の上流ぐらいの老夫婦の家で、この老夫婦は目の見えない夫の方は優しく礼儀正しい人なのだが妻の方は認知症でわけわからんくなっており事ある毎に主人公に当たり散らす。そんな環境にもすっかり慣れたものだったのだが、ある日の入浴介護中、錯乱したこの認知症妻が足を滑らせて死んでしまったことから主人公とその周囲の人々の運命はビッグ転機を迎えるのであった。

偶然に偶然が重なって物事がどんどん悪い方向に転がりそれが周囲にも広がっていくという物語の構造はロベール・ブレッソンの『たぶん悪魔が』『ラルジャン』といった超低温サスペンスを思わせるし、シニカルで乾いた演出はクロード・シャブロルの殺人ものみたいだから、たぶんこの映画を作った人はそういう方向を目指したんだろう。しかしやりたいことは観ててなんとなくわかるがブレッソンの映画の寓話みたいに単純化されているのにその底に横たわるリアリズムとか、シャブロルの映画の乾いていながらの生々しさのようなものはこの映画にはないので、早い話が滑っているように見えてしまう。

こんなことを言ってしまうと身も蓋もないのだが、いくら二人暮らしの老夫婦の生きてる方が目が見えないとはいえ、死んだ方を別人にすり替えたら気付かないわけがないだろう。この死んだ認知症の妻はほとんど言語コミュニケーションが取れなくなっているとはいえ別に言葉を発さないわけではない。主人公はめちゃくちゃ都合よく認知症が進行して何も喋らなくなったという設定の自分の母親を施設から出して死んだ妻の身代わりにするのだが、まずあーとかうーとかの声すら日常生活の中で一切発することがないというのが不自然きわまり、とにかくめちゃくちゃく運良くガチで一切声を発さなかったとしても(劇中ではそういうことになっていた)、これまで毎日妄言をわめいていた妻が一切声を出さなくなるのだから、目の見えない夫の方はどう考えても別人を疑うかどうかはともかく異変に気付くぐらいはするだろう。

まぁでもそれぐらいね、ほら、映画って現実とは別の映画世界のリアリティがあるからさ…とこれを読みながら思っている人もいるだろうが、この状態が一週間かそれ以上続くのである。主人公は住み込みではないので朝早く出勤して夕方には例のビニールハウスに帰ってしまう。ということは身代わりと目の見えない夫は主人公が見ていないところでそれだけ長い時間を共に過ごしているわけで、いくらなんでもそんなわけがあるめぇよ。百歩譲ってマジにガチでびっくりするほどかなりウルトラ超めちゃくちゃ運良く目の見えない夫が妻のすり替わりに気付かなかったとしても、認知症の妻と盲目の夫のそこそこ金のある二人暮らし世帯に他の介護者であるとか近所の人であるとか新聞配達の人であるとか等々が一切入ってこないという状況は考えられないんじゃないだろうか。

この映画は全編こんな調子なんである。他にも停めるところなんかいくらでもあるのにわざわざビニールハウスの入り口前に車を停めてカーセックスをしている全然知らんどっかの若者カップルとか主人公の不遇を演出するためだけに出してることがあまりにも見え透いた不自然さだし、主人公がグループセラピーで知り合った軽度の知的障害があるらしい若い女の(主人公の影響を受けての)言動の変化も突飛という他なく不幸の連鎖を見せたいだけ、きわめつけはラストシーンだ、このラストシーンときたら…詳細は書きませんから未見の人には安心していただきたいが、まず第一に壁らしい壁が存在しないビニールハウスで中に人がいるかいないかが外の人間にわからないはずは絶対ない、第二に壁らしい壁の存在しないビニールハウスであんなことがあんなことになったとしても普通あっさり逃げられる、第三にそもそもあの人はあの人を見てるんだからその時点でなんか言え。クライマックスを面白くしたいのはわかるがもう何重にも無理があって呆れてしまう。

これだけ無茶をしているのならいっそ『マグノリア』みたいに運命のイタズラで普段なら決して交わることのない人々の人生が不幸にも交わってみたいなシナリオにしてしまえばいいのにそういうわけでもなく、それぞれのキャラクターの行動が他のキャラクターの行動の動機付けになっていないか、一応そういう形になっていてもその動機付けにリアリティが全然ないので、不幸の連鎖ものとしても上手く出来ているとは言いがたい。目の見えない夫が終盤に取る行動なんかびっくりしてしまった。いや、なんていうか、え、いやそれだったら主人公が妻をすり替えてもすり替えなくても変わらなくない…? みたいな。じゃあこれまでの話はなんだったんだよという物語の根幹を揺さぶる悪い意味で予想外の展開であった。

良いところがまるでない映画のような書き方だが決してそんなことはなく、視界をキュッと絞って主人公だけを見ていればネガティブな人間ドラマとしてわりあい面白く観られるし、だいたい役者の顔がイイ、チープでしょぼくれた味のある顔の役者ばかり出ている。グループセラピーのシーンにちょっとだけ出てくる兄を殺してやりたいと語るフットボールアワー岩尾に似ていなくもない若ハゲ男とかそこにしか出てこないが存在感は圧倒的であった。じゃあ何がいかんかったかというと作ってる方がどうも映画の方向性をシナリオ面でも演出面でも決めかねていて、あれもこれもといいとこ取りをしようとしているうちに、映画の核に何を置くべきか、それを見せるために必要なことは何かがわからなくなってしまい、こんな迷走作となったように俺には思える。

たとえまったく同じシナリオを使ったとしてもこれをブラックコメディとして演出していれば懐かしの韓国映画『クワイエット・ファミリー』のような佳作になったんじゃないだろうか。アホみたいなプロットなのでコメディと思う人もいるかもしれないがこれはあくまでもドシリアスな、それはもう劇判もほぼゼロというぐらいにドシリアスな、省略多用の編集からすればやはりブレッソン映画を目指したのだろうというユーモアゼロの映画であった。逆にこのドシリアス演出をそのまま使ったとしても、シナリオをブラッシュアップしてもう少し展開を無理のないものにしたり、キャラクター(とくに知的障害持ちの人)をもう少しだけ生きたものにするための台詞やシーンを追加すれば、それはそれでこれまた懐かしの韓国映画『復讐者に憐れみを』のようになったかもしれない。

なんか最近の韓国映画観てるとホントこういうことをよく思うよ。あれもこれものいいとこ取りをしようとしすぎ。そのせいで全部のいいところが台無しになりがちすぎ。もっと自分が本当に作りたいものはなんなのかよく考えて映画を作ってくださいよせっかくみんな才能も技術もあるんだからさ…!

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匿名さん
匿名さん
2024年3月29日 3:47 PM

自分はすごく面白い”救いのない話”映画だと楽しんだので、残念映画と評されたことに少ししょんぼりしました。
ただ、”救いのない話”だけど、ショッキングすぎない、胸糞過ぎない、苛立たせない、といった優しいラインを狙っているな、と思ったので、
そういうところが振り切れてない迷走作と評される一因かもしれませんね。

ただ、盲人夫のあの行動は「主人公が妻をすり替えてもすり替えなくても変わらない」というやるせなさが”救いのない話”を構成する旨味だと思います。
確かに一事が万事強引ではありますが、一応すり替えたからこそ、病気の進度を誤解して・あの行動をとる最後の一押しになってるので、納得もできますし。