《推定睡眠時間:25分》
この映画の監督ブランドン・クローネンバーグといえばデヴィッド・クローネンバーグの息子で、父クローネンバーグといえば最近やたらよく使われるボディホラーというホラーのサブジャンルにおける巨匠として知られ、かつまたJ・G・バラード原作の『クラッシュ』を映画化してカルト映画に仕上げたことからバラード的な映画監督としても知られているような気配を感じたり感じなかったりしているわけだが、俺の感覚ではどうもそのへんしっくりこなくて、それというのもバラードのSFは環境の変化がどのように人間の精神を変形させるか、というテーマがほとんど一貫してあるが、父クローネンバーグの作風はむしろ逆であって、この人の描くSFとかボディホラーというのは『スキャナーズ』とか『ザ・ブルード/怒りのメタファー』なんかそのまんまなのだが、精神の変化が物質的な変化として表れる、というテーマを持ってるんである。
そうした意味でブランドンは父クローネンバーグよりもバラードの感性や問題意識に近い、それもとても近い映画監督であり、っていうかブランドンたぶんめっちゃバラード好きで、だからこの映画も異教の信仰の残るクローン・テクノロジーの暴走した南半球のどこか島国らしいリゾート地とかいうきわめてバラードSFっぽい舞台設定になっていると俺は思うのだが、とにかくこれはバラード原作ではないにもかかわらずバラード原作としか思えないほどバラードな映画であり、これまでも『アンチヴァイラル』『ポゼッサー』とテクノロジーの過剰進化が人間の精神と行動にどのような影響を与えるかというテーマで冷徹に乾燥したバラード的SF映画を撮ってきたブランドンが、やはり今回もテクノロジーの過剰進化により精神が壊れていく人間を描いたわけであった。
だからこの映画の特異な設定、俺はちょうどそのへん寝ていたのでまぁよくわかっていないが、なんか金持ちの旅行客が犯罪とかやったら現地警察に捕まって急に死刑を宣告されるが高額賄賂渡して自分のクローンを作ってそいつに代わりに死んでもらえば許してもらえるみたいな、そういう設定からアッと驚く面白い展開が出てくると期待するのは筋違いだ。これはあくまでも人間がそうした異常な状況・環境に置かれたときに、いかにこれまで保っていた自己というものを見失って、なにか別のものに抗いがたく変化してしまうか、それを描いたSF映画、この場合のSFはサイエンス・フィクションではなくスペキュレイティブ・フィクション、なのだ。
ああもう大好き。こんなふうに人間が壊れていく映画なんか大好きである。血も結構出る。肉体崩壊も結構出る。しかしそこはブランドン・クローネンバーグで、出血も肉体崩壊も父クローネンバーグのような露悪性や悪趣味さは感じさせずファッショナブルでうつくしい。どちらかといえばそっちの方がタチが悪いと思うのだが、だからこそ俺はブランドンの映画が好きなわけで、父クローネンバーグのグロをそのままグロとして提示する医学的というか近代合理主義的というかな作風は、その題材の過激さに反して保守的とさえ言えるものだし、それは人の神経を逆なでしているようでいながらそのじつ「やはり醜悪なものは醜悪だなぁ」と安心させているのである。「醜悪なものはうつくしい」と感じさせてしまうブランドンの映画にそんな安心はない。そのかわり、身に余るテクノロジーに晒された人々が精神を変容させながら現実世界によこたわる様々なモラルや規範から解き放たれていく荒廃の風景がもたらす癒やしのようなものが、そこにはあるのだ。
映画のラストに映し出される雨に打たれるシーズンオフの廃墟のようなプールやレストランはバラード『終着の浜辺』が映像化されるのならばこんな風だろなと思わせる安らかな終末感に満ちている。あの雨にいつまでも浸って朽ちていきたいとそれを観ながら俺は思う。ブランドンはバラードがそうしたように自己の崩壊を咎めない。自己の崩壊に抵抗させない。人間をただ環境に流され壊れていくどこまでも無力な肉の塊としか捉えない。スバラシイ…スバラシイではないか!!! たかだか霊長類の系統図の末端に位置する動物に過ぎないヒト生物を過度に持ち上げ人間は自由意志に基づいてあれこれ好きなことができる尊い存在なのですと説教をかますハリウッド映画およびその影響を無駄に受けてしまった世界各国の人間アゲ映画に毎日怒りの咆哮を上げながらウンコを投げているゴリラなのでこんな風にしょせんヒトはヒトだろと冷静にツッコミを入れてくれる映画は超うれしい!
この荒廃、この虚無、この倦怠。血と暴力と精液と哄笑にまみれた世界。それでいてスタイリッシュでファッショナブル。ひたすらネガティブな初期インダストリアル的なサウンドトラック、ミニマルアートのようなタイトルバックもバッチリ決まってカッコよし。ふふふ…こんな風に書いてとても面白そうな映画だと思っただろう…べつに面白くないよ! ミア・ゴスのエキセントリック芝居は楽しいとはいえ基本はただ人間がダラダラと壊れていくだけなんだもん! だがしかし! 面白い映画とは得てして浸れないものだ。浸れる映画、何度も観れる映画というのは、まぁ俺の場合『ブレードランナー』とか『ゾンビ』だが、必ずどこか退屈さがある。バラードの小説だって同じであんなもんは全然面白くないからその世界に耽溺できるのだ。いや~『インフィニティ・プール』、イイ具合にこころが浸れるよきSF映画でしたね~。
>ふふふ…こんな風に書いてとても面白そうな映画だと思っただろう…べつに面白くないよ!
その通りすぎて思わずニッコリしてしまいました。
つまらなくはないけど、面白くはない、どこか心地よい映画ですよね。
“犬”にはちょっと性癖の扉を無理矢理こじ開けられそうになりましたが。
ブランドンの映画は心地よいんですよね。いつもそうで、だからポゼッサーも珍しく2回映画館で観ましたし、これも何回映画館で観ても好さそうな気がします。ワンちゃんのシーンもよかったですね!頭蓋も粉々になっちゃって!犬は死にます!
観に行きました。変な映画でしたねえ。
観てる間はミア・ゴスのエロさにワクワクドキドキ(罵倒までしてもらえるなんて!)するのですが、見終わってからの後味の悪さが、、、
何と言うか、すごく特殊なオナニーで盛り上がった後の後片付けの時の虚しい感じのようなものを覚えました。
「失敗する演技」が得意とのことでしたが、彼女はどの時点から、誰に対して何に’失敗する’演技をしていたのでしょうか?
色々考えてしまいます。
ミア・ゴスの失敗する演技の話はこの人が島の外の世界では自分で何もできない「無力な女」であったことを示しているんじゃないでしょうか?父クローネンバーグは男と女の身体的な性(セックス)に固執する人なんですが、ブランドンの方はこころの性(ジェンダー)に着目していて、前作『ポゼッサー』などそうですがテクノロジーの進歩によってセックスが無効化される、少なくともセックスの面では男と女の区別が不要になる未来を描いているわけです。
で、『インフィニティ・プール』ではこの島だけクローン技術が非合法的に発達してしまっているようなので、この島にいる間はミア・ゴスはセックスから解放されて外の世界で強いられる「無力な女」ではなくなる。この人はそれを自分で経験しているから主人公が本当は才能のない「無力な男」であることが見抜けたのだと思います。セックスの攪拌はこの映画の至る所で見られるモチーフであり、サブテーマですね。
>この人が島の外の世界では自分で何もできない「無力な女」であったことを示しているんじゃないでしょうか?
なるほど、世間に対しての演技ということでしたか!
腑に落ちました。幻覚の中でアレがアソコからニョキッと生えてくるのもそういうことなんですね。
>主人公が本当は才能のない「無力な男」であることが見抜けた
ということは、ラストの赤ちゃんプレイはやはり彼女の言葉通り「男として一皮むけたね! おめでとう!」という事ではなくて、
「無力なオマエに相応しくすっかり退行しきっちゃたねえ、ご愁傷さま!」という事なのでしょうね(そこが一番モヤモヤしておりました)。
あの赤ちゃんプレイは素晴らしかったですね、、、何だかTV版エヴァのラストを彷彿とさせる嫌なオメデトウ感満載で。
ヤラれてますねぇ、ミア・ゴスに笑