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一昨日『鬼平犯科帳 血闘』観てきてそれでこの『碁盤斬り』の方は昨日観てきたんで俺の中でなんとなく新作時代劇対決みたいな感じだったんですけど、これはね、ちょっと意外。テレビ時代劇の2時間スペシャル版にしか見えない『鬼平』だったので俺は白石和彌という監督はそんなに評価してないんですけどでも『鬼平』と比べたら白石和彌の『碁盤斬り』はなんていうかもうちょい映画っぽい感じになってるだろうし映画として完成度高いだろよってこの勝負『碁盤斬り』の勝ち! …と観る前は思っていたわけですが、『碁盤斬り』観ましたら返す刀で『鬼平』の貫禄勝ちだった。
当然ながらテレビ時代劇(的な)と映画時代劇ということで目指すところがそもそも違うこの2本、相違点は多々あるわけですが、一番大きかったのはなんだかんだ主演の芝居だったんじゃないかと思う。片や松本幸四郎、片や草彅剛。こう名前を並べればみなまで言うまい感が出てしまうが、役者としての技量がどうのというよりも、やはり松本幸四郎は草彅剛に比べて踏んできた場数が圧倒的に違うよな。もうただそこにいるだけで江戸時代の人。いやもちろんただそこにいるだけということもないだろうが、あぁこれは頑張ってお芝居しているな、というのをまったく客(俺)に感じさせない。
それを考えれば比べるのも酷だとは思うが『碁盤斬り』の主演であるところの長屋暮らしの浪人・草彅剛はやはりどうしてもそうは見えなかった。あぁ頑張って江戸時代の人になろうとしているな、ここでは迫力を出そうとしているな、凄腕の浪人っぽさを日常の中の何気ない所作を通して漂わせようとしているな…というのが隠しようもなく見えてしまう。しょうがないよだって演技経験は長いとはいえ基本的に現代劇でやってきた人だし歌舞伎役者の松本幸四郎と違って客前で徹底的に型に入るという経験は(ないこともないのかもしれないが)してきてないわけじゃないですか、草彅剛は。そういうのは付け焼き刃でできるもんじゃないよな。いくら芝居に熱を入れようが経験の問題だから自分の意志でどうなるものでもない。
そういう違いが作品の格に直結してるなと思いましたよ『鬼平』と『碁盤斬り』は。『鬼平』はストーリー的にも演出的にもテレビ時代劇の粋はまったく出ないが、それでも松本幸四郎の存在ひとつで何段も格が上がって、観た後にいや~時代劇って感じだな~みたいなある種の満足感があった。『碁盤斬り』はそうではなかったよ俺にとっては。別につまんなかったって意味じゃないし力作だとも思うけれども…でも、映画館で時代劇を観たという満足感がない。役者なんかどうだっていいんだよ台詞だっていらねぇよ風景だけ映してりゃいいんだよ映画なんてもんは! といつもは暴論を吐いている俺ではあるが、こう如実に役者の経験の差を見せつけられて、しかもそれが作品全体に影響を及ぼしているとなると、やはり役者というのは映画の大事な要素だなと思わざるを得ない。だからすごく今更なのだがやっぱり漫画原作映画で山﨑賢人くんばかり主演に起用するのはいい加減にやめろと全然関係ないのですが書いておきます。
それで映画の内容ですがなんかこれはちょっと変わった作りっぽく前半1時間は江戸の人情噺で後半1時間は殺陣とか出てくる浪人の復讐劇。一人娘と共に長屋暮らしの主人公・草彅剛は過去を語らぬ訳あり浪人だが、真面目な人柄で囲碁も強いので町の人々からはかなり好感を持たれている。彼がある日碁会所で知り合ったのがケチンボ商人として悪名高い國村隼。二人は囲碁を通じて交流するようになり、ケチンボ國村隼もだんだんと草彅剛の真面目さにほだされて日頃の行いを改めるようになる。
しかし、そんなおり國村隼の店(質屋みたいなとこ)で五十両紛失事件が発生。あの~もしかしてなんですけど草彅さんパクったりなんかしてないですよねははは…と店子がわりと軽い気持ちで訊ねてみると無礼者! 草彅剛、普段の穏やかな物腰がウソのような激怒っぷり。時を同じくして草彅剛の耳に妻を死に追いやった仇敵の居所判明の報が届く。パクってなどいないが疑われたままでは武士の面目が立たぬということで娘を遊郭に預けてとりあえず五十両を作った草彅剛は妻の仇を討つために江戸を発つ。果たして草彅剛は無事武士の本懐を遂げつつ五十両パクリの汚名をそそぎつつ遊郭に預けた娘を取り返すことができるのだろうか?
こうやって書いてみると前半と後半がなかなかの繋がっていなさでそれもそのはずこれはもともと落語の演目でそれに肉付けした小説をもとにした映画らしい。知らんが落語の部分というのはたぶん復讐どうののあたりではなく前半の人情噺のところだろう。そこだけでサクッとまとめていればよくできた小品になっていたような気がするのだが、後半の殺陣あり復讐劇がだいぶ物語の完成度を落としつつ「草彅剛が凄腕の浪人って言われても説得力ないよな~」とかつい思っちゃって、前半の人情噺の面白さもなんとなく冷めてしまうのがもったいない映画であった。『碁盤斬り』というだけあって終盤には碁盤を斬る場面があるのだがプラスチックのペラいオセロ盤じゃあるまいし日本刀で碁盤は斬れないだろ、碁盤の厚さと重さナメてんのかとか、まぁそういうことも思ってしまうわけである。
そういう映画ばかり監督しているわりにはなのだが白石和彌という人は本当は斬った斬られたみたいな殺伐とした世界を描くのが苦手なんじゃないだろうか。だからこれはそういうものを題材とした白石和彌の他の監督作、『孤狼の血』とか『死刑にいたる病』でも感じたことだが、どうも雰囲気ばかりで内実が伴っておらず、ヤクザとか殺人鬼とかコワいものが出ているはずなのに作りものっぽくてコワさが感じられない、『碁盤斬り』の後半の復讐劇もおんなじようにやっぱり真に迫ったところがないのだ。その反面、『凪待ち』みたいな人間ドラマはウソっぽさが比較的薄いし、『碁盤斬り』もまた前半の人情噺の部分はストレートに面白い。あとイイ話である。
この監督のそういう指向性は秀逸な囲碁ディテールに表れているのかもしれない。日本棋院が監修でクレジットされているだけあってこれまで数々…はなかったかもしれない囲碁映画の中でも盤面リアリティは屈指だったんじゃないだろうか。こちらは囲碁ではなく将棋だが監督の豊田利晃が中学ぐらいまで棋士を目指していた人なのでそこらへんはかなり拘っていた(ように素人目には見えた)『泣き虫しょったんの奇跡』などと囲碁将棋映画として俺の中で肩を並べる。いや、しかし、だからこそ! 後半の復讐劇パートで浮き彫りになる迫真性の無さが悔やまれる。囲碁だけやってりゃ草彅剛も浪人に見えるかもしれないが復讐に燃える凄腕のサムライ…にしては暴力の匂いが無さ過ぎるからなぁ。
『鬼平』の松本幸四郎はそこらへん鬼とまでは見えないがコイツはきっと強いんだろうと思わせる存在感があったわけで、時代劇というジャンルは結局ハッタリがすべての和製ファンタジー的なところもあるわけだから、そういうのって大事だなと思った次第。それにしても、2本続けて時代劇を観たら江戸の町には音楽がないことにふと気が付いた。祝いの席とか祭祀の時には音楽を鳴らすが日常生活の中で音楽を楽しむという習慣がどうも江戸時代にはなかったらしい。なんということだ…じゃあ『ジャズ大名』はウソだったのか! いや、舶来人が音楽の楽しさ=ジャズを江戸時代に持ち込んで音楽革命を起こすという意味ではむしろ史実に近いのか…?
人を斬るならともかく碁盤を斬るとなると若山富三郎か勝新太郎くらいの剣技は見せてくれないと納得いかないし説得力皆無だよなあ…まあもうそんな次元の人は現代日本の芸能界の少なくともメジャーどころにはいないんだけど…
若富は本職が殺陣師ですもんね…今はそういう人がそれだけで食っていくのは難しいから少ないし、それを撮れる監督というのも少なくなったと思います。