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俺は職に貴賎はあると思っているのでこの映画の原作がアイドルと知りアイドルごときにマトモな小説が書けるわけねぇじゃねぇかと差別心剥き出しで観に行ったのだったがなんかちゃんと形になってたのでアイドルだからとバカにしてすいませんでした。俺は10年以上映画とかドラマの脚本賞に応募し続けて未だ受賞なしという無能人なので若くして文芸誌に小説の連載持ってて映画化までこうしてされてる髙山さんは立派だと思います。
とドルオタのネット火炎瓶投擲を避けるための露骨なテキスト防災頭巾を被ったところでなのだがうーんこれはなかなか興味深い映画だ。主人公は風采の上がらないそこらへんの女子高生なのだがアイドルになりたいという夢を持っていてそのために同地域の美貌女子を集めてアイドルグループの結成を目論む。その作戦は成功するのだが学業と並行して行うアイドル活動の中で他のメンバーとの関係は悪化していき…というまぁそのへんはよくあるアニメ映画、青春バンド系のアニメ映画とかあと女子高生同士の繊細な関係性を描くアニメ映画とかのあの感じ。『リズと青い鳥』とか。
この映画の面白いところは主人公の人物造型だった。こいつがどんなやつかというと自分がアイドルになりたいがために美少女をかき集めてその威光のおこぼれに預かろうとするというあらすじからも分かるようにそこらへんの女子高生らしい浅薄にして身勝手な人物、アイドルとして成り上がるためには手段を選ばないところがあり、あくまでもイメージ戦略としてのみ身体障害を持つ児童のボランティア活動に参加し、当然ながら児童に関心を持つことなど一切なくそれが宣伝の役に立ちそうにないと見るやものすげー嫌な顔をして帰りたそうにし以降は行かなくなる(でもアイドルになった後は「はい、私たちはアイドルになる前はボランティアをやってたんです」としっかりセールスポイントにする)ような基本的にはカスである。
まぁそんなものだろう。アイドルとかいう賤業に憧れる女子高生なんぞ女にモテたいというだけの理由でロックミュージシャンになろうとする男子高生と同じくらい空虚な生き物である。この空虚のリアリティがイイ。ビジネス自己啓発書に学んで行動計画を立て役に立たないと判断した人間はさっさと切り捨て障害児ボランティアは自分のキャリアに箔を付けるための道具と割り切る。アイドルになっても客の顔を見ることなんか一度もない。その代わり四六時中見ているのはツイッターとインスタグラムのフォロワー数といいね数だ。その数字こそが主人公にとってのお客さんであり、成功の尺度なんである。
自分以外のすべては自分を飾り立てるためのものでしかないというドライさはカナダに留学していたという設定に由来する。外国人観光客の案内ボランティアの活動について聞かれた主人公が語る台詞は象徴的だ。「英語は喋れるけど歴史はわかんないから、他のメンバーに考えてもらった台詞を英訳して言ってるだけなんです」。つまりそれは外面はいいが中身のない言葉なのだ。こうしたセルフプロデュースの文化やビジネス的な世界観は競争の激しい英米の学生においては一般的なものだろう。子供の頃にアイドルを見て憧れたと語る主人公はしかし、具体的にどんなアイドルのどこに憧れたか語ることはなく、自分がどんなアイドルになって何を表現したいかを語ることもない。なぜならこの人は早い話がテレビに出てチヤホヤされたいというだけで、アイドルを通して表現すべき自分など持ってはいないからだ。なんだか英米セレブ文化の権化のような主人公である。
頭にあるのは成功してチヤホヤされるイメージだけ。どう成功するのかなんてことはどうでもいいし、誰と成功するのかだってどうでもいい。俺がこの主人公から連想したのは元々兄弟経営の小さなハンバーガー屋だったマクドナルドを買収してチェーン店にした人を描いた伝記映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』やマーティン・スコセッシがこちらも実在の虚業家を描いた『ウルフ・オブ・ウォールストリート』だった。この二つの映画の主人公はともに中身をまったく持たない人である。自分では何を創造するスキルもなく何に対する関心もなく個性なるものも全然ない。この人たちにあるのはただただ話術と詐欺師の手管、ビジネスで成功を掴むための話術だけを毎日自己啓発アイテムなんか使いながらひたすら磨いて隙あらばバカを騙そうと日々獲物を狙ってる。
いったい何がこの人たちをそうさせるのだろうかといえば、それは彼らが自分には何もないことを知っているからだった。自分には何を創造するスキルもなく、何に対する関心もなく、何の財産もなく、なにより誰からも必要とされていない。そんな持たざる人間であることの痛みが、彼らを成功の二文字に突っ走らせるのだ。その点でこれまた実在のオリンピック選手を描いた『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』の主人公トーニャ・ハーディングも『トラペジウム』の主人公と似ている。トーニャの場合は『ファウンダー』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の口先三寸人間と違ってフィギュアスケートの確かなスキルがあるのだが、それ以外のすべてが無かったので結局は転落の道を辿ることになる。
これらの作品はいずれもビジネス大国アメリカのなんでもかんでも大成功か大失敗かに二極化してしまう格差社会の病理を実在の人物に仮託したものだったが、だとすればそれと同じような『トラペジウム』の主人公が背負っているものはなんだろうか。もしかするとそれはアメリカ型の二極化社会を仮想的に極限まで推し進めたツイッターのようなSNSが、アメリカほど極端な格差・競争社会とはなっていない日本においても、同様の心理状態にヤングたちを置いているという状況なのかもしれない。そうと思えばこの『トラペジウム』、作り手がどの程度意識していたかはともかくも、なかなかに現代批判的な骨太映画と言えなくもないんじゃないだろうか。
ただそれはあったとしても脚本とかのレベルの話で原作者の髙山さんはアイドルになりたくてアイドルになった人なのでアイドルに対する批評的な眼差しは基本的に持たないだろうし演出の面でも主人公が『ウルフ・オブ・ウォールストリート』みたいなことをやってんのをキラキラ青春風の音楽流してイイ話っぽく見せているので監督にもシニカルな目線はなしというわけでなんか倫理観がヤバイ映画に見えてしまうというのが『トラペジウム』であった。
メンバーの一人に恋人がいることが発覚してツイッターでカスが騒いだために(おそらく)契約破棄をチラつかせて恋人と別れさせる事務所社長とか「助けて! 助けて!」と泣き叫びながら事務所から逃げ出そうとする別のメンバーを数人で羽交い締めにして部屋に軟禁するスタッフとか少なくとも民事で訴えれば勝てると思われるし場合によっては刑法に抵触する事案だと思うのだがそれもよくある青春の1ページみたいなトーンで演出され、その出来事の異常さと演出のギャップはなんだかシネマヴェーラ渋谷とかラピュタ阿佐ヶ谷でよくやってる昭和のカルト邦画みたいである。おめーら少しはそれをヤバイと思えよ! そんなだからアイドルなんかろくでもない仕事なんである。
でも俺はぶっちゃけちょっとグッときた。それは主人公が何も持たない人間だったから。何の才能もなく何の個性もなく何の人間的魅力もなく、そしてそれはなんだかんだ最後まで変わらない。自分から変わろうともしないし、変わろうとしてもできない。その哀しさに同じなんもなし人間として俺は共鳴してしまう。これは愚か者の映画だ。ただそれが、『ファウンダー』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『アイ,トーニャ』みたいに作家の知性でもって突き放して描かれてはいないので、うわぁアイドルの目には世界がこんな風に見えてるんだやっぱアイドルもアイドルオタクもアイドル業界の大人どもも全員ろくなもんじゃねぇなと思わざるを得ないのだが。まだ理性や常識が脳内に多少なりとも生息している観客にその思わせようとしているのだとしたらめちゃくちゃ成功している映画が『トラペジウム』である。令和のカルト映画かもしれない。