《推定睡眠時間:20分》
ドライブ・アウェイというのはアメリカの車社会アメリカ特有のアルバイトかなんからしく今はあるのか知らんがA地点からB地点に車を運びたい時に長時間運転するのは大変なので誰か代わりの人に運転してもらうというものらしい(帰る時はどうするんだろう?)。あれは仕事だったのかそれとも親戚とかの頼みだったのかは知らないがそういえば『ヒッチャー』の主人公もそんなことをやってたな。それで主人公はレズビアンのインド系の人でこの人がレズビアンの恋人に愛想を尽かされた蓮っ葉なレズビアンの友達と一緒にドライブ・アウェイを使って小旅行と洒落込もうじゃねぇかということで誰かの車に乗り込んだところその車にはギャング的な人が大事にしてるブツが入っていたので2人はギャング的な人に追われる羽目になり…というのがざっくりしたあらすじ。
なんだか懐かしいのだが懐かしさを感じるのは何も時代設定が1990年代だからというだけではなく面白く無さの質が一昔前の映画っぽいっていうかなんか我らがB級二番館・新橋文化でこういうのよく観てた気がする。『ガンパウダー・ミルクシェイク』とかいやむしろ世代的には『ベティ・サイズモア』か? みたいなクライム・コメディの線を狙ったらしいが85分の短尺なのにテンポは悪いしジョークは古いし大して笑えないのはもちろんのこと犯罪ものとしても迫力を欠いてスリルなしで面白くない、スタイリッシュかつエスプリ香る脚本で名を馳せたコーエン兄弟の弟が脚本やって監督しているくせにプロットが凡庸で台詞も気が利いたところがないと良いところがまるで無いような映画なのだが、妙に肩の力が抜けて楽しそうに撮ってる感じなのでなんとなく憎めない。しょせん映画さと言わんばかりのこのゆるさは、たとえそのせいでつまんない映画になっているとしてもそれなりにこちらを幸せな気分にさせてくれるものだ。最近のつまらない映画はこれが無いがちだからダメだと私としてはおもいます。
面白くはないが腐ってもコーエン兄弟の片割れの監督・脚本作なので変なところが結構あって印象には残る。まず登場する女の人が最後に出てくる婆を除いて全員レズビアンというのがすごい。行く先々でレズビアンの主人公のレズビアンの友達がレズビアン・クラブに入るのでそこでレズビアンが出てくるのはわかるがハンバーガー屋で列に並んでたら大学かなんかの女子サッカークラブのメンバーが来ててそのサッカークラブは全員乱交どんとこいの性豪レズビアンという無茶さ。折々でインサートされるトリッピーなCGや風変わりなワイプも印象的だ。なぜ印象的かといえばこれが全然面白くなくありきたりでしかもドラッグ体験の演出とかでもないのでわざわざそれを入れる意味がまったく無い。ギャングが追っていたブツの正体もそんなものを!? という意外さで脱力必至。取って付けたような多様性キャストもイイ感じに空虚である。
1990年代を舞台にしているのはおそらくこの時代がアメリカの同性愛者にとって開かれた時代だったからじゃないだろうか。といってそれを示す具体的な根拠は持ち合わせていないので印象論になるが、レズビアン・フェミニズムをその内に含むポストモダン・フェミニズムがアメリカで影響力を持っていた1990年代において、同性愛の実践は世紀末の閉塞感を打ち破る越境的なものとして文壇や言論界など知的な人々の間で肯定的に捉えられていたのであった。日本では大木裕之のゲイ・ポルノ映画や橋口亮輔の瑞々しい同性愛青春映画が注目されたり、現在はトランス姉妹となったウォシャウスキーの1996年のデビュー作はレズビアン・カップルものの『バウンド』、フェミニズム思想を牽引するのはレズビアンを公言するジュディス・バトラーといった具合。その後ゼロ年代に入って日本ではオネェタレントブームなどが来るわけだが、それもこうした現象の延長線上にあるものかもしれない。
同性愛に越境や解放のイメージを見るスタンスはしかし、現代のアメリカではほとんど否定されているといってもいいんじゃないだろうか。当たり前だが同性愛者は単に性欲とか恋愛の対象が同性に向いているというだけの人なので、絶対数が異性愛者よりも少ないので積極的になりがちとはいえ、セックス大好きという人ばかりではないわけである。同性愛者に関するそうした当たり前の理解が進んだこともあり、SNSから興ったインターネット・フェミニズムには女性回帰・異性愛主義の傾向が強い(要出典)こともあり、日本や韓国も含めたアメリカ文化圏で顕著らしいが若者の性愛離れもありということで、そうした諸々が合わさって今や同性愛者は1990年代のようなポジティブなイメージで見られることなく、ようするにあくまでもかつてに比べてということだがプラスでもマイナスでもない普通の人として見られるようになったのであった(この記述には独自研究が含まれます)。
こうした時代の空気にさらせば、すべてのレズビアンがあっちでこっちでえっちらおっちらヤリまくり、物語の上ではカタブツ主人公がセックスの気持ちよさに目覚めてめでたしめでたしという上方落語の艶笑譚のようなソフトコア・ポルノのようなこの『ドライブアウェイ・ドールズ』の同性愛観はかなり古くさく見えてしまう。それもこの映画が懐かしさを帯びている一つの理由なんだろうな。どうなんでしょね、コーエン弟はどんなつもりでこの映画を作ったんだろう。単に感覚が古くて時代の空気が読めていないのにぼくたち同性愛者に理解ありますみたいなことをやろうとしてスベってるんだろうか。それともセックスの暴力性が強調される一方でその快楽は語られにくくなった一周回ったアメリカ社会の保守化に異議申し立てをするためにこういうことをやってるんだろうか。
たぶんだが俺はあんまり深く考えて作ってないと思う。深く考えてないので色々とスベっているしズレているし面白くないのだが、でも、深く考えてないからこそこっちも気楽に観られるってなもんで、85分と短いし、笑えるとしても苦笑いだが、なかなか愛嬌のある映画が『ドライブアウェイ・ドールズ』であったと、まぁそういうことにしておこう。おねーちゃんたちのエロい姿もたくさん観られますし…。
イーサン・コーエンは名目上の監督で、実質は妻のトリシア・クック監督作みたいです。
トリシア・クックはレズビアン&クィアを公言していますし、本作はあえてレズビアンB級映画を狙ったようなので、
>あんまり深く考えて作ってないと思う
というか、むしろ狙ってこのできなんだと思います。たぶん。
https://www.indiewire.com/features/interviews/ethan-coen-tricia-cooke-drive-away-dolls-interview-1234955858/
機械翻訳でリンク記事をざっくり読みましたが、「今のレズビアンがレズビアン・バー巡りなんかしない」みたいな一文があったので、ネタ元の『キッスで殺せ』(トランクを開けると…というあれ)とか『ボブ&キャロル&テッド&アリス』とかっていうチョイスも含めて、要するにトリシア・クックさんの昔はこんなだったんだよ的な個人的な思い出映画みたいな感じなんすかねぇ