珍しく万人向け映画『蛇の道』(2024) 感想文

《推定睡眠時間:20分》

基本的に単独制作の小説や絵画と違って集団制作が基本の映画の世界には押井守と伊藤和典とかジャン=ピエール・ジュネとマルク・キャロとかジョエル&イーサンのコーエン兄弟とか実際に身体を使って現場を回す人としての監督とそれに脚本やコンセプトや世界観を提供するブレイン役の人の名コンビというのが数々あって1998年に公開されたこの映画のオリジナル版も監督・黒沢清×脚本・高橋洋のコンビ作、黒沢清の名を一躍世界に知らしめた『CURE』も完成した映画には脚本が黒沢清しかクレジットされていないが、基本的なアイデアやイメージ(昔の実験映像とか)は高橋洋との共同作業の中で生まれたもので、クロキヨ×タカヒロというのは実に名コンビなのであった。

しかし、上に挙げた映画界の名コンビは現在ほとんどがコンビを解消(ジャン=ピエール・ジュネとマルク・キャロの久々のコンビ作は近々公開予定ぽい)してしまっており、黒沢清と高橋洋もまた例外ではない。バンドとかで音楽性の違いによる解散というのはよくあるが、映画のコンビにも映画性の違いによるすれ違いとかがあるのだろうか。そのへんは脚本を高橋洋、監督を黒沢清が務めたオリジナル版の『蛇の道』『復讐 運命の訪問者』、そして監督と脚本を両方とも黒沢清が担当したそれぞれの姉妹編である『蜘蛛の瞳』『復讐 消えない傷痕』という同時期に撮影された準OV的な企画ものの4本の映画を見比べればわりとわかる。高橋洋脚本の『蛇の道』と『運命の訪問者』が殺伐としたグラン・ギニョル的世界を背景にプロットや設定の面白さで見せる物語の映画だったのに対して、黒沢清単独の『蜘蛛の瞳』と『消えない傷痕』はあまり明確なストーリーはなく、即興的で遊戯的な映像の面白さで見せるイメージの映画だったわけである。

近年は高橋洋の監督・脚本作もどんどん抽象度を増してちょっと黒沢清の世界に寄っているが、基本的に高橋洋は物語を書く人であるからして、物語よりもイメージを重視する黒沢清としては、高橋洋の脚本を映像化する中で、その枠組みから脱したいという思いはあったのかもしれない。だが面白いのは今回のリメイク版『蛇の道』、舞台がフランスということでフランスの脚本家と黒沢清が脚本を共同執筆したためか、黒沢清の映画でありながらイメージよりもシナリオの面白さを重視した映画になっていたことだった。基本的なプロットはオリジナル版と同じで、娘をどこかの組織に拷問惨殺された男が謎の協力者(オリジナル版では哀川翔、リメイク版では柴咲コウ)の手助けを得て、娘の殺害に関与したヤツらに復讐を遂げていく、というものだが、主にオチの部分に目立った改変があり、そのどんでん返し的な結末によって、なにやら終末的なムードを漂わせてふわっと終わっていたオリジナル版よりもミステリーとして引き締まり、同時に救いの無い物語が余計救いの無い物語となった(でもオリジナル版も脚本段階では最後に哀川翔が車に轢かれて死ぬという非情な結末だったという。それを黒沢清がいくらなんでもと変えさせたのだとか)。

なんとか勲章みたいなのを受勲したとかしないとか世間的な名声の高まりに反して近年の黒沢清はその映画を観る限り迷走ともいえる様相を呈していたが、そんな中で今一度きちんと物語として映画を撮っていた頃の精神に立ち返ろうとでもしたのだろうか。ともかくこのリメイク版『蛇の道』は近年の黒沢清の映画にしてはずいぶんと見やすく分かりやすくベタな感じである。題材はダークだが強烈な描写などもないので珍しく万人向けっぽい。言い方を変えれば、ぶっちゃけ薄味であった。

どうしてオリジナルよりも救いが無い結末になっているのにオリジナルより薄味になっているのかと思うが、たぶんその一番大きな要因はVシネに毛が生えたようなオリジナル版に比べて予算が潤沢にあったからだろう。オリジナル版は思うに予算とか日程的な都合で街頭ロケなどほとんどなかったが、こちらリメイク版は昼のパリだかどこだかの街路で堂々とロケ撮影を行ったりしている。そのことで物語にリアルな外郭が生まれ作品世界に奥行きが感じられるようになったが、オリジナル版の『蛇の道』の怖さはむしろそうしたところの無さというか、どっかのなんもない倉庫みたいなところで風采の上がらないオッサン二人が見た目の汚いヤクザたちを淡々と拷問しているだけのシーンが大半という身も蓋もなさ、貧乏くささ、虚構感や虚無感にあったんじゃないだろうか。

もうひとつ大きなところではオリジナル版の終盤に結構唐突に出てくる「魔女」がこちらには出てこないというのもある。この魔女というのは高橋洋が自身の監督作で好んで取り上げるモチーフなので、高橋洋の発案によるものと思われるが、リメイク版にはそういうフェチ的な飛躍がないし、主人公がクールな魅力の柴咲コウというぐらいなので、ミソジニーと結びつく魔女のモチーフは否定される。ここに出てくるのは徹頭徹尾(やってることは悪いが)普通の人たちであり、異常なものや腑に落ちないものは出てこない。これは人間の理解を超えるものを主題とする高橋洋と、『回路』がそうであったように幽霊さえも人間にしてしまう常に人間目線のヒューマニスト黒沢清の指向性の違いかもしれない。

オリジナル版の『蛇の道』はそんな異なる方向を向いた二人の作家の世界観が激突したところに生まれた映画だったと思えば、黒沢清の単独作に近いリメイク版の『蛇の道』が、大筋ではオリジナル版と同じことをやっていたとしても、それほどのインパクトを持ち得なかったのは当然のことかもしれない。まぁ時代の違いもあるしな。オリジナルはスナッフビデオのために子供が殺されたという設定だったが、インターネットに虐殺画像の溢れる現代で今更スナッフビデオなんかやっても仕方がないという判断か、こちらでは臓器アート(?)のための殺人と微妙に設定が変えられている。これは些細な点かもしれないが、スナッフビデオがどこかには存在するかもしれないという不安がリアルに漂っていたレンタルビデオ時代の1990年代にスナッフビデオを題材にすることは、同じくらい猟奇的だとしても臓器アートよりずっと重い意味を持っていただろう。

今回の結論としては、やっぱクロキヨ、タカヒロとコンビ再結成したほうがいいって。もうみんなね、歳なんだから変な拘りとか捨てて一緒に映画作ったらいいじゃない。これは押井守にも言ってるから。押井守と伊藤和典がタッグを組めばまたあの頃みたいな傑作が生まれるはずなんだよ…!

※オリジナル版の主人公・哀川翔は心の死んだ空っぽな人で復讐相方の香川照之はなんかキモイ人だったのだが、リメイク版では主人公の柴咲コウは心が生きているからこそ復讐をする人として演出され、その復讐相方も香川照之のように単にキモイ人ではなく同情を誘う人間味のある人として描写されている。これもまたオリジナル版の「嫌なものを見ちゃったなぁ…」感を薄めているひとつの要因だろう。

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