豊かなホラーを取り戻せ映画『新・三茶のポルターガイスト』感想文

《推定睡眠時間:0分》

所属劇団員が風呂に入らず臭くなる、劇団関係者が別の階の入居者に睨まれる、深夜にも関わらず下の階のカラオケ店から歌が聞こえてくるなど、三軒茶屋の雑居ビルに居を構える芸能事務所ヨコザワ・プロダクションを襲う数々の怪奇現象を捉えた戦慄のドキュメンタリー映画『三茶のポルターガイスト』。日本列島を絶叫させ本作プロデューサーの故・叶井俊太郎曰く「ホンモノの霊が映ってるからテレビからは放送を断られた!」というあの問題作の続編が公開されたと聞けば観に行かないわけにはいかないだろう。

なにせ東出昌大のナレーションによれば前作舞台のヨコザワ・プロダクションは今やロンドン塔やウィンチェスター邸など世界的に有名な心霊スポットと並び称される超危険地帯。ポルターガイスト現象、鏡から吹き出す水、床からにょきにょき生えてくる手、こっくりさんを用いた心霊対話で幽霊に「かわいい」と褒められるオカルト・ジャーナリスト角由紀子などにわかにはホンモノと信じられない現象が多発する明らかに引っ越した方がいい物件であるが、そこに再びカメラが潜入とくれば今度は死も免れ得ないかもしれない。ヨコザワ・プロダクション代表の横澤氏も映画の冒頭でそう語っていたが、とにかくこれは観るしかない映画なのだ。

前作はドキュメンタリーでありつつ再現ドラマも交えてヨコザワ・プロダクションに潜む怪異の正体が徐々に明らかになっていくミステリードラマ的な構成を取っており、そのためヨコザワ・プロダクションで撮影された心霊現象よりもその背後に潜む時に哀しく時に悍ましい物語が主軸になっていたが、やはりいつの世も心霊現象に対する風当たりは強いもの、前作公開後には「ヤラセに決まってる!」などの心ないSNS投稿が相次いだそうで、その影響もあってか今作は物語性よりもドキュメンタリー性を重視し、ヨコザワ・プロダクションの練習スタジオ内で起こる数々の怪奇現象や呼べば出没するUBERみたいな幽霊をひたすら観客に見せていく太っ腹な構成となっていた。

撮影終了後に取材を受けた横澤代表は語る。「やはりヤラセと言われると反骨心も芽生えますね。じゃあ今度はもっと見せてやろうと。その気持ちが幽霊にも伝わったんじゃないかな」あんたさっき死者が出るかもしれないと心配してたやろと思わなくもないが、人間の心とは矛盾に満ちた複雑なものだということであろう。

物語性はあまりなくいろんなオバケと怪奇現象を見るある種アトラクション的な映画なので感想をと言われても(言われてないが)とくに書くこともないのだが、もしかするとこれは昨今流行りのフェイク・ドキュメンタリーに対するオカルト界隈からのアンサーなのかなという気はした。現代日本でもっともすぐれたフェイク・ドキュメンタリー・ホラーの作り手たちが結集したテレビドラマ『イシナガキクエを探しています』は放送直後から大きな話題を集めたが、これらフェイク・ドキュメンタリー・ホラーの勘所は怖いものを「見せない」ところにある。『イシナガキクエ』もその要領を得ない不気味さが話題を呼び様々な考察が行われたが、見せないものほど人は想像力を働かせ、その想像の中で勝手に怖くなってしまうものである。

しかし、それでよいのか。たしかに『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』以降の「見せない」フェイク・ドキュメンタリー・ホラーは怖い。だがあえて言えばそれはホラー映画の作り手としての逃げであって、怖さの源泉を自分たちの作り出した映像や物語ではなく、鑑賞者の想像力に投げつけているとも言える。それに、いまどきのフェイク・ドキュメンタリー・ホラーは最初から作り物と明言してしまっている。それもまたあえて言うとすればだがホラー映画の作り手として逃げている、最初から勝負を投げていると言えないだろうか。

『新・三茶のポルターガイスト』はこうしたスタンスとは真逆の方法論を取る映画であった。まず、この映画はひたすら「見せる」。ヨコザワ・プロダクションではこっくりさんでお願いすれば舞踏のような動きをする人の手や頭が床や天井から生えてきて幽霊の調子が悪いときでも最悪ポルターガイスト現象ぐらいは起こってくれるのでカメラはそれを撮りまくり編集で繋ぎまくるのである。そして、この映画はあくまでもドキュメンタリー・ホラーである。このことは現場を訪れた月刊ムー編集長・三上丈晴も認めざるを得ないだろう。

怖いか怖くないかは問題ではない。たしかにオバケは怖い方がいいが、それ以上にオバケは「見たい」ものである。この映画は俺のように昨今のフェイク・ドキュメンタリー・ホラーのブームに今一つ乗れないでいるオバケ好きの、そんな邪なる欲望を存分に叶えてくれることだろう。5分に1回はなんかが出てくる。そうポンポンと出されると怖さなどまったくないが、とはいえオバケは怖いものであるべきというのも人間の傲慢、更に言えば差別心の表れだろう。世界は多様である。お菓子を食べてるだけのオバケとかSwitchで友達とスマブラをやっているだけのオバケとかウンコをしている最中のオバケだっているかもしれないのだ。それがなぜまったく目撃されないのかは不明だが、とにかくオバケ映画だから怖い、これは間違ったものの見方である。

どちらかと言えば『新・三茶のポルターガイスト』は笑える映画であった。とくに心霊現象の真贋判定のために招聘されたとされるかつての大槻教授のようなポジションの超心理学者先生まわりのシーンが笑える。先程までなかったはずの謎の草をヨコザワ・プロダクション内に発見したスタッフが先生に「先生これは!」と訊ねるも「いや、私は植物の専門家じゃないから…」とスルーされるところとか破壊力が高い。心霊肯定派の角由紀子と口論をしているうちに論点がどんどんズレていって先生都度反論しながら「いやだからそれは…え?」とフリーズしたところで次のシーンへ行くなど、編集も明らかに笑わせを狙っている。

このように書けば「笑わせようとしてるってことはヤラセでしょ?」と思われる人も少なくはないだろうが、それはまったく非論理的である。なぜなら本物のドキュメンタリー映画であることと観客を笑わせようとしていることは矛盾することではなく同居しうるものだからだ。もちろんニセモノのドキュメンタリーでありかつ観客を笑わせようとしているという想定も可能だろう。だが、想定を事実と仮定するのは陰謀論的な推論の罠である。『新・三茶のポルターガイスト』が本物のドキュメンタリーかフェイク・ドキュメンタリーか観客に判断する術はない。

今の時代、なんでもかんでもYESかNOか、アリかナシか、右か左かといった二項対立で人々は思考しがちだが、フランスの哲学者ジャック・デリダが示すが如く現実は常に多義的で判断不能性に溢れているもの、その現実の複雑さを捨象することは、同時に現実の豊かさを捨てることも意味するだろう。その意味で『新・三茶のポルターガイスト』は今の時代に珍しい豊かなホラー映画と言える。そして、これだけは確かであろうと思われるのは、この映画は笑えて楽しいということである。エンドロールに流れるのは心霊写真とかそういうやつではなく横澤代表が自作曲をレコーディングする姿。どこまでもふざけた映画である。

※でもそこまでふざけるならこっくりさんで叶井俊太郎の霊を呼び出せばよかったのに。叶井俊太郎、生前「俺が死んだらこっくりさんで呼び出してよ。そしたら幽霊が本当にいることの証明になるじゃん!」って言ってたぞ。

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