エデンの園シンドローム映画『ルックバック』感想文

《推定見逃し時間:20分》

これの原作漫画が当時のツイッターで話題になったときに京アニ放火事件に材を取ったと考えられるこの漫画のメッセージはDon’t Look Back in Angerだというツイートが頻繁に見られて、これはオアシスの楽曲だが、英国労働者階級を題材にした1956年の戯曲『Look Back in Anger』もしくは『怒りをこめてふり返れ』の邦題で知られるデヴィッド・ボウイ1979年の同名楽曲の本歌取り曲名であり、『ルックバック』作者の藤本タツキがはたしてそれを知っていたかどうかはわからないし、知らずに(Don’t)Look Back in Angerのメッセージを込めてこのタイトルを選んだ可能性もあるが、なんにしても『ルックバック』というタイトルから多くの読者が『Look Back in Anger』ではなくもっと発表年の新しいオアシスの『Don’t Look Back in Anger』を連想したらしいということは、なんだかこの漫画のなんたるかを如実に物語っているようであった。

要するにこの漫画は作者も読者も若いのである。漫画好きの中学同級生コンビがひたすら漫画を描いてやがて二人の名前を合わせたペンネームでプロデビューするこの物語が藤子不二雄Aの傑作『まんが道』を元ネタにしていることは間違いないが、そのことにSNSで言及している『ルックバック』の読者や観客は俺からすればあまりにも少ない。たぶんそれは読者や観客が若く単純に『まんが道』を読んだことがないからじゃないだろうか。俺は原作漫画を読んだときに『バタフライ・エフェクト』風味の『まんが道』じゃんと普通に思ったのでわりあい冷めた目で見ていたが、藤本タツキの多くの熱狂的なファンはきっとそうではなかったんだろう。そしてそれが、この漫画および映画に対するいささかヒステリックなほどに過大な評価を生んでいるように俺には感じられる。

ところでこの映画の予告編を映画館で見たときに「あの原作のボリュームとネタで2時間もやんの?」と不思議に思ったが、完成品の上映時間は中編映画に属する58分ということで合点がいった。原作にオリジナルな要素をほとんど足さずに映像化すればまぁそれぐらいだろう。それはまた別のことも意味する。もしもこの原作を90分ぐらいの長編映画用にアレンジしようとすればできないことは全然ない。主要キャラクターは漫画家コンビの二人だが登場人物が過度に少ないわけではないので、二人の周囲の人間模様を掘り下げるとか、二人の生活のディテールを作り込むとかすればいいわけである。

ところがこの映画はその道は選ばなかった。原作に何も足さず原作の何も掘り下げず原作の何も新しい視点から見ることがない。むかし、『ドラゴンボール』の映画のカットをそのまま使って漫画にしたフィルムコミックというのが出ていたが、これはその逆って感じ。原作をそのまま動かしただけでそれ以上でも以下でもない。そもそも原作自体を『まんが道』の亜流の一つ程度にしか思っていなかった俺なので、この映画版を観ながらこんな出来ならわざわざ映画として作る意味はあったのかなとかちょっと考えていた。これなら漫画の絵を全編カラーにして台詞だけ声優さんにつけてもらう紙芝居方式でも別に良かったのでは…と俺は思うが、ところがこれが大好評の大人気、中編映画なのに学生料金や障害者料金を含むすべての割引適用外の1700円とかいう強気の料金設定にもかかわらずどの上映館も満員御礼なのであった。

知っている漫画が知っている風に映像になってるのを観て何が面白いのだろう。知らない映画よりも知っている映画を観に行きたいという心情は俺にはほとんど理解不能だが、分析しようと思えばそこからは既知の世界から抜け出ることに対する、言い換えれば成長というものに対する若い世代の半ば拒絶反応のようなものも浮かび上がってくるかもしれない。もしも『ルックバック』に超感激した人がその後に今までは存在すら知らなかった『まんが道』を全巻読んだとすれば、その感動の記憶が薄れることはないだろうとしても、『ルックバック』という漫画の評価は多少下がるんじゃないだろうか。

そしてそうしたことを、どうもこの漫画および映画のファンは、あるいは同じアニメ映画を100回ぐらい観て毎回泣くような精神状態のよくない推し活の人とかにまで広げてもいいかもしれないが、純粋な感動体験を汚す余計な知識獲得として嫌う。こういうのはなんというのだろうか、エデンの園シンドロームとでも呼ぶのだろうか。無知によって得られる感動の方が知識獲得による世界の拡張よりも素晴らしいとする保守的かつ幼児的な心情。それはあえて言えば読者や観客だけではなく作者である藤本タツキの抱えているものでもあるように思える。『まんが道』と『ルックバック』の最大の違いは何かと考えれば、その物語やコマから(世界を拡張した先にある)社会が見えてくるかこないか、というのは一つの回答だろう。

なにせ『まんが道』の方は戦中から始まる物語である。戦中にもかかわらず漫画が大好きでひたすら漫画を描きまくっていた疎開転校生・才野茂(藤子・F・不二雄)の才能に満賀道雄(藤子不二雄A)が惚れ込んで一緒に漫画を描くようになる…というわけで藤子不二雄Aのジャーナリスティックな作風もあって、二人のまんが道からは戦中戦後の日本社会のありようや歩みが見えてくる。翻って『ルックバック』はどうかというと社会どころか主人公の漫画描き二人の友情以外には何も見えてこない。これをどう捉えるか。見方によっては薄っぺらさとも捉えられるだろうし、別の視座に立てば濃密さとも捉えられるかもしれない。俺はよく知らないがおそらく藤本タツキは意識的にか無意識的にかはともかく、後者の視点から物語を作る漫画家に思える。だからこそその作品は知識の獲得と成長を忌避する人々を惹きつけるんじゃないだろうか。

個人的にいえば、別に二人だけの世界を描いた作品が悪いとは全然思わないし、たとえばSM密室劇の金字塔『胎児が密猟する時』や変態密室劇の傑作『盲獣』は二人の男女の関係性のみを極端なほどに掘り下げることで超時代的な神話性を獲得した作品である。『ルックバック』と対比するのにその作品チョイスはどうなんだと思わなくもないが、まぁそれはともかくとして、じゃあ二人の世界だけが描かれる『ルックバック』にこういう種類の凄みがあったかというと、とくにそういうこともなく、むしろこの二人のキャラは結構類型的でオリジナリティを欠くキャラである。たとえば主人公の漫画描きの一人は不登校児だが、俺が全不登校児の代表面はできないにしても、元不登校児の目から見ればこれはいかにも記号的な不登校キャラで面白くない。そこからこの人の不登校生活がどんなものかということがどうも見えてこないし、それはもう一人の漫画描きの方も同じ。

そのようなわけで俺にとって『ルックバック』は単なる『バタフライ・エフェクト』風味の『まんが道』の亜流でしかないのだが、ファンは決してそうは考えないし、考えたくもないんだろう。無知であることを求める客と無知であることを美化する作者が意識せずに共謀して『ルックバック』を超絶大傑作ということにしているのだが、こんなもんはオウム信者が尊師を救世主と崇めるのと大差ないんじゃないだろか。まぁ本人たちが楽しいんならそれでいいんじゃないとは思うが、幼稚な世の中になったもんであると愚痴のひとつぐらいはこぼしたくなるってなもんである。割引ないから高かったし、鑑賞料金!

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