アメリカ人は不倫を夢見る映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』感想文

《推定睡眠時間:10分》

36歳の女教師が13歳の男子生徒とヤっちゃった上に捕まって獄中出産、更には出所後に再び彼と関係を持って結婚というアメリカ人は極端だな~って感じの実際のゴシップをネタにした実録映画だが単なる実録ものではなく、その事件を基にした映画で女教師役を演じる女優が役作りのために当該夫婦の家にやってくるというメタ構成、なので映画のラストシーンは劇中劇の撮影なのだが、それが面白い。カット! もう1回! カット! もう1回! カット! もう1回…同じシーンを何度も繰り返すが、同じシーンなので何度繰り返しても同じ台詞と同じ展開を女優は演じることになるのである。

このへん人によって違うだろうが俺にとって『メイ・ディセンバー』の監督トッド・ヘインズといえばダグラス・サーク映画のパロディのようなメロドラマ『エデンより彼方に』でお馴染みの不倫映画の名匠である。たしか『キャロル』も不倫じゃなかったかあれは。まともかくヘインズといえば不倫てわけで今回もまた不倫が描かれるのだが、アメリカ人にとっての不倫とはどうも人生のやり直しをイメージさせるものらしかった。こんなはずじゃなかった、もっと別の人生もあった、本当の自分は…。

アメリカの不倫願望作中に出過ぎ作家といえばフィリップ・K・ディックだが、中年ニートが近所の若妻と不倫したがる『時は乱れて』にしても、中年骨董品屋が日本人夫婦の妻と不倫したがる『高い城の男』にしても、自閉症の子を持つ主婦がセールスマンと不倫したがる『火星のタイムスリップ』にしても、そのショボい願望がどんどんとパラレルワールドないし「この世界の下に隠れた本当の世界」の壮大なテーマにスライドしていくのが面白いところだが、これなんかはあまりにもわかりやすくかつ妄想的にアメリカ人の不倫願望の正体を曝け出したものだろう。不倫、それは文化なんかではなく、今の自分ではない自分に成る手段なのだ。アメリカ人にとっては。

だからこの映画のラストシーンが同じシーンのテイクを何度も重ねる映画撮影の場であることにはこんな含意があるんだろう。結婚生活の中で誰しもかどうかは知らないがまぁ大抵のアメリカ人は結婚しなかった、または別の人と結婚した自分を想像してしまう。こうではなかったもう一つの自分を想像してしまう。けれどもそんなものは所詮たらればの虚しい願望に過ぎない。何度テイクを重ねても映画の台詞や展開が変わらないように、「よりよかった選択肢」なんて本当は存在しないのだ。どんなに不満があろうと人生は今ある形になるしかなかった。けれどもアメリカ人はどうしたことかもう一つの人生を夢見ることをやめることができない。そしてテイクを重ねる内に女優は…「もう一度やらせて!」自らよりよいもう一つの自分を求めてテイクを重ねるのだ。でもきっと、その行為は実らないだろう。

センセーショナルな題材だからそれに引きずられてこれを13歳と36歳の年の差恋愛の行く末と解釈する人はいるでしょうが、満ち足りているはずの生活の中で不倫ともう一つの人生を求める夫婦は『エデンより彼方に』でも描かれていたので、一見して幸せそうに見えるこの年の差夫婦の双方が実はひそかに不倫を求めていたこと(13歳男子と関係を持った時にこの36歳女教師には夫と子供があったのだった)は、なにも特別なことではないんだろう。これが平凡なアメリカ人の当たり前、という皮肉。それは『エデンより彼方に』ではダグラス・サーク風の擬古調で描かれ虚構性が強調されることで、『メイ・ディセンバー』ではこの出来事自体が映画化されるというメタ構造で表現されているわけだ。

けれども『エデンより彼方に』と比べると『メイ・ディセンバー』はもう一歩アメリカ人の不倫というテーマに踏み込んでいるように思える。この夫婦の幸せ生活に疑問を投げかけ、かつての13歳男子にして現在は2児の父である夫に「もう一人の自分、本当の自分」のイメージを植えつけるのは、夫自身や妻の行為などではなく、二人に同行して役作りを行っている女優だからだ。女優と映画という虚構が生活に侵入することで夫は不倫願望を強くしていく。こんなはずじゃなかった、こんな生活を求めていたわけじゃなかった、本当の自分は…そんな真実なんか本当はどこにもないのに、そう思い込んでいくのだ。

アメリカ映画がアメリカ人に不倫願望を植えつけ、そうして生まれた現実の不倫は実録ドラマとしてアメリカ映画化され、そしてそのアメリカ映画はアメリカ人に不倫願望を…の循環運動。ディックのSF小説が不倫からもう一つの世界にスライドしていくように、『メイ・ディセンバー』は不倫がアメリカ映画批判にスライドしていく。その意味でアメリカ映画がアメリカの現実を変え、アメリカの現実がアメリカの映画を変えるポストモダン的な幻惑図式を通してハリウッド批判を展開したデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』と、実はひっそりとよく似たところが、この映画にはあるかもしれない。

年の差夫婦の妻がジュリアン・ムーア、夫婦を取材する女優がナタリー・ポートマンということで大物女優共演がやはり耳目を集めるだろうが、MVPは二人の「女優」に翻弄されて自分を見失っていく憐れな夫を演じたチャールズ・メルトン。鈍重さと繊細さを不安定に行き来する芝居は実に見物だった。もしかすると二人の大物女優に挟まれた映画界では無名に近い若手役者(がいちばん良い芝居をしている)という配役自体、メタ的にこの映画の言わんとするものを表現しているのかもしれない。

※邦題には『ゆれる真実』とあるが、映画と現実が相互に影響を与えて循環するこの映画、あるいはアメリカにあって、真実なんかどこにもない。ある人物がハリウッド入りするために夫婦に関する「真実」を女優に売りつけるのは、その端的な表れなんである。アメリカはまったくおかしな国だ!

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