『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』の読み解き方

《推定睡眠時間:0分》

もう二十年くらい前のことなのでどの本だったか記憶があやふやだが、たしか『映画の構造分析』だったんじゃないかと思うのだが、その頃は売れっ子だった思想家の内田樹がアメリカの西部劇映画におけるミソジニーの発生因を分析していて、実際にアメリカの西部劇が同時代の他のアメリカ映画と比べてミソジニー傾向が強いかどうかという実証の話はともかくとして(俺は西部劇がミソジニー傾向を強めたのはマカロニ以降のことではないかと思ってる)、その分析は面白いなと思ったことを覚えてる。どのような分析かというのは詳しく覚えていないが、西部の男女人口比は極端に男が多かったので、少ない女を巡って男同士が揉めるのを防ぐために男同士の同性間結束=ホモソーシャルな社会が生まれ、それがミソジニーの形を取るようになった…とかそんな感じじゃなかっただろうか。まぁ気になる人は本を買うなり借りるなりして読んでみてください。

それでこの『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』、ペドロ・アルモドバルによる男性同性愛を題材にした30分の短編西部劇だが、ネットを見渡せば概ね好評で、それも保守的な層ではなくある程度意識の高い層の観客から好評のようだった。しかし俺からすればこれは西部の男性ホモソーシャルそのもののような映画だったので、そうしたものに批判的であることが一般的な(俺の目からすれば!)先進的な映画ファンが手放しでこの映画を賞賛していることに、少なからず違和感がある。映画についてはたった30分しかないので感想らしい感想もとくにないが、短いがために逆に映画分析のテクストとしては使える感じだったので、ちょっとだけそういうことをやってみよう。

といっても複雑なことは何もない。ただ見たままを記述すれば自然とこの映画が男性ホモソーシャルの映画であることはわかるので、べつに前提知識も小難しい理屈もなにもいらないのである。物語の概要を書いてみよう。ある西部の街に保安官の男がいて、彼は最近町で起きた女の殺人事件を追っている。保安官は目撃証言などから普段から彼女に暴力を振るっていたというその夫を犯人と見るが、そこに現れたのがかつて保安官と一時の肉体関係を持ったというカウボーイの男。二人はしばしかつての関係に戻るが、実はカウボーイは例の女殺人事件の被疑者の父親であり、保安官に犯人疑惑濃厚な息子を逮捕することなく逃がしてくれるよう懇願しにその地を訪れたのであった。

その後の会話からどうやらやはり女殺しの犯人はその夫であるらしいことがわかるが、カウボーイはそれでも彼をさして咎めることなく、また罪の償いをさせることもなく、別の町へ逃がそうとする。そこに保安官が現れ、カウボーイは息子を逃がすために保安官を撃つ。しかし急所は外しており、カウボーイは怪我を負った保安官の介抱をして、また以前の親密な関係に戻ることを少しだけ予感させて、映画は終わる。これが『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』の物語の概要である。

まず第一に指摘しておくべきなのは、この映画には物語の影の主役であるはずの被害者の女は1秒たりとも画面に登場しないことだろう。その演出上の意図はともかくとして、そのために結果として観客はこう感じるんじゃないだろうか。これは大したことのない問題だ、と。そのためカウボーイが犯人である息子を哀しい目で逃がそうとするモラルに反する展開になっても、観客はあまり心理的な抵抗を感じない。むしろ親近感を抱かせるカウボーイ役の演技によって、彼に感情移入する観客も出てくるんじゃないだろうか。

第二に指摘しておきたいのは、再会した保安官とカウボーイはその日の夜に昔を思い出してセックスをするが、翌朝、カウボーイの目的が殺人犯である息子を逃がすことだと判明するや、当然ながら保安官は裏切られたように感じて憤慨、二人は意に反して対立することとなり西部劇的なガンファイトへと繋がっていくわけだが、この対立を結果的に生んだのは画面の外に追いやられた被害者の女だということである。なぜならば、後半の展開でカウボーイが息子にある種の「赦し」を与えることで息子は物語上免罪されるのであり、そのことで対立の責任は画面に映らない女に集約されてしまうからだ。カウボーイは父親の権限で妻殺しの息子を赦す。彼と対立する保安官はその身勝手な振る舞いを咎めるのではなく、あくまでも保安官の職務として殺人犯を捕らえようとする。つまり「父による妻殺しの息子の免罪」という出来事自体はこの映画の中で否定されないために、これが対立の原因とならず、「女が殺されたこと」が対立の原因となるのである。

これだけでもう充分なのではないかと思うが、回想シーンに登場する被害者とは無関係の女たちの描写も興味深いので書いておこう。このシーンでは若い頃の保安官とカウボーイが3人の女と酒蔵で戯れていて、保安官とカウボーイは野蛮男しぐさでワインの入った樽を銃で撃つ。するとそこからワインが溢れ出し、その場の5人は酒樽の穴から噴き出すワインを犬みたいな感じで仰ぎ見ながら口に入れるのだが、そうしているうちに保安官とカウボーイはお互いの唇を貪るようになり、同性愛の関係に入る。一方女たちは相変わらず樽から吹き出すワインを飲み続け、その姿はあたかも小便か精液を口で受け取るポルノ女優のようである。

以上3点を突き合わせて考えれば、この映画がミソジニーや男性ホモソーシャルの描かれたものであること、更に言えば家父長制の羨望を含んでいるように見えなくもない、反動的な映画であることが読み取れるんじゃないだろうか。一言でいえば、これは「女さえいなければ!」という願望の発露した映画である。配給の惹句なのか本人が言ったことなのかは知らないが、この映画が『ブロークバック・マウンテン』への返歌として制作されたということが事実ならば、それもまた「女さえいなければ!」を補強するものとなるだろう。なぜならば、要するに『ブロークバック・マウンテン』は同性と不倫した男たちが、妻の存在によって引き離されるという物語だからである。

個人的に「女さえいなければ!」の願望にはまるで賛同できないとしても(おっぱい大好きなので)、そういう願望を持った人がそういう映画を作るのは自由だし、さまざまな思想を持っている人がさまざまな立場から作るから映画は面白いというところもあるので、仮にこの映画が「女さえいなければ!」の映画だとしても、非難しようとは微塵たりとも思わない。この記事の超イージーな映画分析の基本的な意図は単に映画は分析的に観るともっと面白いよと示すことにあり、今一つの意図としては、なんも考えずにただ同性愛者が出てるなら良い映画だし先進的な映画だとか思ってる頭が悪いくせに無駄に意識の高い観客は少しは考えて映画を観ろバカ、とSNSに生息する薄っぺら~い自称先進的で政治的に正しい映画ファンどもにツバを吐くことにあるのであって、真に中立的な映画分析などほとんどあり得ないとしても、政治的にこの映画を良いとか悪いとか判断するつもりはサラサラない。

30分しかない映画だし内容も別に面白くないので面白い映画として人に勧めようとは別に思わないが、しかし分析テクストとしてはわかりやすく頭の体操になって良いので、その点ではむしろ『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』はぜひとも映画館で観てもらいたい映画でさえある。映画を分析して楽しみたい、という人にはお勧めである。それを映画批評と呼んだのですがね昔は。今の映画批評はほら、映画を体よく褒めることだから…。

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匿名さん
匿名さん
2024年8月10日 12:20 PM

殺された女の夫は保安官の弟でそれは今回のペドロパスカルの息子とは別。