噛めば噛むほど映画『墓泥棒と失われた女神』感想文

《推定睡眠時間:70分》

なかなかクセの強い変な映画であることはイタリアのトスカーナ地方を舞台に地中に埋もれた墳墓をなにかしらの直感で発掘するイギリス人に村人たちが群がって副葬品をカネにしていくというイタリアらしく泥臭い話(『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』によるとイタリア映画の特色の一つは「地方色」だという)なのに盗掘のダイジェストシーンにクラフトワークの「スペース・ラボ」が原曲のまま挿入される意表を突くサントラ構成ひとつとっても明らかである。こんなにシーンと一致しない選曲もそうそうない。対置法で悲しいシーンに楽しい曲を付けるとかその逆とかなら珍しくないがなんでトスカーナの田舎者が盗掘してるところで「スペース・ラボ」なの? 宇宙と地中をシニカルに対比させているような気もするのだが、二日前に観てから考え続けていても、未だ納得のいく答えにはたどり着けていない。

この映画の監督アリーチェ・ロルヴァケルといえば俺の中では『幸福なラザロ』の人であり、これは実に豊かな寓話/風刺劇であると同時にイタリア農村の自然風景を見事に切り取った撮影が強烈に目に焼き付く傑作だったので、その人の新作ならばとわくわくしながら映画館に入ったわけだが、いやはやこっちの方はわかりやすく面白かった『ラザロ』と違って手強い、実にこうなんというか掴み所のない映画である。おそらく図式としては、墳墓を見つけるイギリス人(こいつはもう盗掘やりたくないと思ってる)に貧しい地方イタリア人たちが群がって、自分たちの文化をカネに変えていく…というこれも『ラザロ』同様にイタリア社会を風刺するものなのだろうが、そこにイギリス人の失踪した(?)恋人の話や過去の幻影、イギリス人の恋人のでけぇ実家でビッグマザーに搾取されているイタリアという名前の小間使いとイギリス人の恋愛模様まで重なってくるので一筋縄ではいかない。

イギリス人の墳墓発掘とは何なのか? おそらくそれは恋人探しのメタファーなんだろう。じゃあ恋人はもう死んでるんだろうか? 少なくともイギリス人にとっては死んだように感じられているのかもしれない。だから彼は自暴自棄になっているのかもしれないし、『人魚伝説』みたいにマジカルなラストシーンの意味するものは…なのかもしれない。墳墓発掘がイコール恋人探しなら墳墓を見つければ見つけるほどイギリス人は輝かしいあの頃に遡ってしまって恋人不在の今に希望を持てなくなる。しかもその副葬品をイタリア村人たちがカネに替えていくわけだから幻滅は募るばかりである。

掘れば掘るほどイギリス人は現在から遠ざかって過去に向かっていく…というこの寓話性は板尾創路が監督した俺の偏愛映画のひとつ『月光ノ仮面』を思わせるが、連日の満月によってこれが幻想と現実の入り混じる不条理世界であることを明示する『月光ノ仮面』と違って、『墓泥棒』の方はイタリア映画らしくリアリズムのタッチを基調としているので、現実であった過去と現実である現在の対比が不明瞭で、思うに原題が『LA CHIMERA』(キメラ=合成獣)であることからすれば、そのへんの曖昧さはあえて狙ったものではないかと思われるが、虚実皮膜のあわいの面白味はあまり俺には感じられなかった。

またシナリオの面でも、『ラザロ』には物語を牽引する大きな出来事がいくつかあったが、こちら『墓泥棒』の方にはこれといった出来事がないので、グッと引き込まれるところがない。それもまた狙いなのかもしれないし、寝ながら観ていた俺などは余計に何がなんだかわからず今が過去なんだか現代なんだか、イギリス人が何がしたくてどこに向かっているのかさっぱりだったのだが、そうした混乱状態や宙に浮いた状態こそを観客に体験させたい映画だったのかもしれない。それはそれでまぁ頭では理解できるとしても、面白いか面白くないかでいえば、シュルレアリスムであるとかマジックリアリズムというほど幻惑を徹底しているものでもないので、やはりあまり面白くはないのであった。

ただこの感想を書くために上映時間131分から睡眠時間の70分を引いた61分の断片を思い返しているうちに、なんかちょっと面白くなってきたような気はしないでもない。たとえば冒頭の列車のシーン、これはなんのシーンなのだろうと観ている間はよくわからんかったが、今こうして振り返れば、これはその場でのマジョリティであるイタリア人たちが旅行者(と見える)イギリス人をからかってカネをむしり取ろうとするシーンなので、その後トスカーナの村で貧乏イタリア村人たちから救世主の如く扱われる展開と呼応しているわけである。つまり、おめーら都合の良いときはイギリス人に意地悪して都合が悪くなるとイギリス人さん助けてくださいと媚びへつらうのな! みたいなイタリア人の百姓根性を皮肉る意図がこの冒頭シーンには込められていたんじゃないだろうか。

そのような一見しただけでは意図がわかりづらい重層的な作劇や庶民を題材としているところは今村昌平の映画エミール・クストリッツァの映画を思わせないでもない。『ラザロ』が様々な要素や出来事を垂直に重ねていくシンフォニックな寓話であったとすれば、『墓泥棒』は水平に重ねて同時進行させるポリフォニックな寓話といえる。『ラザロ』のようなキャッチーさはないのでまだ今一つ掴みきれていないが、ポリフォニー劇の常として噛めば噛むほど味が出るというスルメ映画が『墓泥棒と失われた女神』なのかもしれないってなわけで、やはりこれも『ラザロ』に劣らずの力作なんじゃないすかねぇ。

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