和歌山毒カレー映画『マミー』感想文(付・林眞須美を信じないでも再審を支持する方法)

悪い意味でいろいろと考えさせられてしまう映画で、こんなんやってたら再審を支持する人のイメージが悪くなるだけだろアホかと思ったので、感想とは別に俺が和歌山毒カレー事件の再審を支持する理由とその理屈をオマケにつけた。興味あればそちらもどうぞ。なければいいです。

映画『マミー』の感想文

《推定睡眠時間:0分》

公開前から映画マニアの間ではわりあい話題になっていた作品とはいえ公開直前になって出演者の一人が公開中止を申し入れという穏やかではない報もネットを駆け抜けた影響か(さいわい配給との話し合いによって申し入れは取り下げられた)東京の上映館イメージフォーラムでは公開されるや連日全回満席というまさかの事態、政治系とか事件系のドキュメンタリー映画は最近の都内ミニシアターでは案外売れ線で『なぜ君は総理大臣になれないのか』の大ヒットも記憶に新しいとはいえ、いまさら和歌山毒カレー事件のドキュメンタリー映画でここまで入るか…と驚いた。

同じイメージフォーラムで数年前に上映された地下鉄サリン被害者と元オウム広報部長・荒木浩が旅をする俺的には大必見作なドキュメンタリー『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』は思ったよりお客が入ってなかったのになぜ和歌山毒カレーの方はこうまでも。理由はいろいろ考えられるが、とく根拠らしい根拠もなくなんとなくの想像でいえば、まぁポスターもなんかそんな感じだったし、そういう映画として紹介した著名な映画ライターもいたしで、「和歌山毒カレー事件の知られざる真実」がこの中に描かれていると思って作品に興味を持った人が多かったのかもしれない。

逮捕まで数ヶ月を要したこともあり警察・検察が裁判にこれが決め手という強い物証を提示することができず、状況証拠を積み重ねた上で消去法的に浮かび上がったのが毒カレー事件以前よりヒ素を用いた複数回の保険金詐欺を働いていた林眞須美であった。がしかし保険金詐欺については夫婦ともに認めているものの(夫の健治もそれにより実刑を受けている)毒カレーについては林眞須美は否認し黙秘を貫く。こうして確たる証拠がなく動機も不明なまま死刑判決が下されたということで、事件の全容は一部のオウム事件と同じく未解明なまま。林眞須美冤罪説も根強い。その真実がついに明かされるのだとすれば、やはり事件当時大々的に報道されたこともあって事件を知る世代の人なら興味をそそられるんじゃないだろうか。

結論から言えばそんなものはこの映画の中にはない。あるのは林眞須美の冤罪を100%信じているように思われる監督の作る「物語」だけであり、取材によって新たに判明した(事件と関係する)事実もない。事件の論点整理というには主観的に過ぎ、また個々の論点の検証も足りない。それはひとえに監督が林眞須美の冤罪をハナっから信じ込んでいるからと思われ、もしも「本当に犯人なのかなぁ? でも、もしかしたら本当に犯人かもしれないしなぁ」と監督および製作陣に迷いがあったなら、個々の論点について否定と肯定の両方の観点を取り入れて多角的かつ奥深く掘り下げることができただろう。が、そうは残念ながらなっていない。

たとえば林眞須美がカレー鍋を覗き込んで何かをしていたという目撃証言。これは単独で林眞須美の犯行を支持する証拠に足るものではまったくないが、だからといって真剣に事件を掘り下げるつもりがあるなら無視することのできないものではないかと俺は思う。ところがこの映画ときたら登場するジャーナリストの言を借りて要は見間違いだったんじゃないか、とこれで終わりである。そりゃ2時間程度の映画で些細な目撃証言ひとつに何分も時間をかけてはいられないかもしれないが、見間違いなら見間違いでせめて見間違いであると考えられる強い証拠を提示すべきじゃないだろうか。

あるいは夫・健治の証言。和歌山毒カレー事件では林夫妻がかねてよりヒ素を用いた保険金詐欺を働いていたことが裁判官の心証に相当影響していると思われるが、検察が眞須美の犯行によるものと断定している健治がヒ素を食らった保険金詐欺について、健治は眞須美とケンカになったため眞須美の機嫌を直そうと自らヒ素を飲んで中毒になり、保険金をせしめたのだと裁判の中で、またこの映画の中でも語っている。ある映画ライターはこの場面を「真実」と書いているのだが、いったい何をもって「真実」と判断したんだろうか? 殺人犯でも「やってません」と言うことはできるが、それを聞いたらその映画ライターは「本人がそう言ってるならやってないな!」とか思うのだろうか? かの麻原彰晃でさえ数々の事件は弟子たちが勝手にやったとほざいてそのまま死刑になってしまったが…。

ましてや健治の場合はトータル数億円の保険金詐欺を働いたウソをつくことにためらいのない人物である。健治証言が真実だとこの映画、この監督が訴えるのは大いに結構だと思うのだが、それならそれで健治証言が事実であるという裏付けをちゃんとやるべきなのである。ところが、思うにこの監督ときたら林眞須美は冤罪という結論が先にあって、その結論を補強するための「物語」を撮ることにしか関心がない。そのため目撃証言については見間違いの可能性があると疑いをかける一方、健治証言については一切の疑いもかけようとせず、あまつさえ当時林家に出入りしており、眞須美による保険金詐欺を目的とした殺人未遂の犠牲者であると検察が主張した人物について、実名を出した上で「〇〇は警察と取り引きしてウソの証言をした」という健治の主張を垂れ流すほどである。

これは単に面白くないだけでなく、はっきりとドキュメンタリーとして倫理的な問題があるところじゃないだろうか。なぜならこの殺人未遂でも眞須美は有罪とされているため、少なくとも現在の状況では健治に「取り引きしてウソの証言をした」と非難されるこの人物は殺人未遂の被害者なのである。しかしそれに対して、その被害を明確に否定する証拠も提示しないまま、劇中のジャーナリストの言葉だったと思うが「あなたこんなに何度も眞須美に毒飲まされてたのになんで林家から離れなかったの?」とまで言うのである。少なくとも現在は殺人未遂の被害者とされている人物に対して何を言うのかと思う。この映画の監督は同じことを、じゃあたとえば何度もDVを受けている人にもその加害者とされる側が犯行を否定していた場合には言うのだろうか。ホントに殴られてたのならアンタなんで家出なかったの? いつでも出られたじゃん、ホントは警察にウソ言ってるんでしょ、とか。殺人未遂に関しては有罪とされているだけに、このたとえ話よりも更に悪質と言えるだろう。

とにかく全てがそんな調子で、林眞須美は冤罪だという「物語」を観客に印象づけられるなら倫理も論理も知ったこっちゃないというのがこの映画である。そしてもう一つ、世間が認めない林眞須美の冤罪を自分は信じて必死に戦っているのだ、という「物語」もまた、この映画の監督が映画を通して観客に見せようとするもののようであった。事件現場周辺の家に片っ端からピンポンして回り取材を拒否されたり嫌な顔をされたりする監督。そのうちの一人が「事件の話はここらへんではタブーみたいなもんで…」とうっかり口を滑らせてしまうのはカメラは決定的瞬間ででもあるかのように捉えるが、十数人が死傷しその家族がもしかしたら今も同じ場所に住んでるかもしない中で、安易に毒カレー事件の話なんかできるわけがないのは当たり前である。そのことは池田小連続児童殺傷事件の周辺住民が事件の話を日常的にするかどうか考えてみたらいい。

当時の担当刑事や事件関係者への取材も実らない。大抵の人は「昔の話なんで」ってな具合で門前払いである。当たり前だ。警察であるとか検察であるとか、またはその協力者にとってみれば、林眞須美は有罪であり、事件はとっくの昔に終わっているのである。そして刑事なんかにしてみれば、決め手が無い中でどうにか林眞須美を検挙しようとそれはもう血の滲む思いで捜査を行ったはずである。普通そんな人が、細かい検証もなく心情的な林眞須美冤罪論を主張する人に懇切丁寧に話をしてくれることはないだろう。

だから、もしもそんな人からどうにかして話を聞こうと思ったら、地道な関係構築と腰の低い取材が必要になる。ところがインターホン越しに「手紙を送った〇〇ですけれども~」なんて言ってることからすれば、この監督はそうした丁寧な取材を怠っているのである。要するに取材者として自分が無能なだけなのに、呆れたことにそれでもって口を閉ざす関係者と戦う俺を演出するのである。アホじゃないかと思う。映画の終盤は主人公がすっかり監督自身になっちゃって取材の突破口を開くために(?)取材対象者の車にGPS追跡装置を設置して警察に逮捕されて示談にして不起訴にしてもらった監督が『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三が殺人未遂を犯した時みたいな感じで映し出される。頭に入れておくべきは、これを誰か第三者が強い権限を持って編集したわけではなく、監督自身が編集権を握って編集しているという点である。つまり犯罪者となった自分を、この監督は映画の中で誇示しているように見えるのだ。

もう閉口。そのほかにも林眞須美からの手紙を本人の声質とはだいぶ違う声のやさしい感じの役者さんに読んでもらって林眞須美の印象を良くしようとするとか稚拙な印象操作が多く、犯罪ドキュメンタリー映画として質はかなり低い。こんなんでも騙される人は騙されるんだからそりゃ林眞須美が冤罪かどうかはともかくとして冤罪も生まれるよなとか思う。たいていの人は事件の事実よりも物語を見たがるものだし、物語を事実と混同してしまうものだ。この監督も含めてである。

ただし、それが幸いしてか林眞須美を冤罪だと考える林健治と林家長男(殺人未遂被害者は実名を出して中傷するようなことさえ言っているのに長男は実名と顔をモザイクで隠すという点にも監督、および配給・東風のモラルを疑わずにはいられない)とは近い距離で取材ができており、この点は『マミー』という映画のおそらく唯一の価値あるところではないかと思う。

※動機がないから冤罪なんじゃないかと考える人が世の中には一定数いるようなのだが、身も蓋もなく言えば動機なんかなくても人は人を殺したりするし、池田小の宅間のように本人の語る動機と事件の大きさに断絶があるケースは少なくない。その意味ではむしろ、幾度もヒ素を使った保険金詐欺を行って法の一線を越えることに罪の意識がなかった(と考えられている)林眞須美なら、大した動機はなくても、たとえばなんとなく近所の連中がムカついてたとか、それぐらいの軽い動機で事件を起こしたとしても、別段不思議ではない。保険金詐欺で順風満帆だったのに大量殺人なんかやるわけない、ではないのだ。ヒ素を使った保険金詐欺があまりにも上手くいってしまったがために、マガイモノの全能感を得て、現実とズレが生じてしまった可能性だってあるのである。

オウム真理教だって選挙に負けたとはいえ教団自体はうまく回っていたのに、そこから奇妙にもテロ路線に転じて崩壊の道を辿る。そしてその背景には、坂本弁護士一家殺人事件ほか数件の殺人・過失致死事件が罪に問われずうまく隱蔽できてしまった、麻原と教団幹部の成功体験があるように、俺には思えるんである。

林眞須美を信じないでも再審を支持する方法

つくづく思うのだが他国との比較は知らないから出来ないとしても日本の世間一般の人は有罪無罪というものについて誤解をしているところがあるんじゃないだろうか。和歌山毒カレー事件については俺は再審すべきと思っているが(ていうか再審請求通ったのでするらしい)だからといって「林眞須美はやってない!」と考えているわけでもなく、また「林眞須美はやった!」とも明確には考えてない。林眞須美を有罪とする和歌山毒カレー事件を再審すべき理由はそんなこととは全然別のところにあるわけで、論理的に考えればたぶん誰でもそこに辿り着くんじゃないかと俺としては思う。

ただ論理的に考えるにはまずそのための材料を用意する必要がある。カレーを作りたいと思ったらまず必要なのはカレーの材料を知ることなわけで、カレーの材料がわからなければたとえ目の前に世界中のすべての食材があったとしても、その人はカレーを作ることはできないだろう(超絶運が良くて作れちゃう可能性もあるが)。そして和歌山毒カレー事件の再審の根拠を考える場合の材料こそが有罪無罪の概念なのだ。実は和歌山毒カレー事件の詳細に立ち入る必要はまったくないのだが、『マミー』の監督はそれがわかっていなかったんだろう。

というわけでなぜ再審が必要かの話をする前に有罪無罪という概念について明確にし、その上で「疑わしきは被告人の利益に」(疑わしきは罰さず)が必要か説明して、これこれの材料を整えれば必然的かつ論理的に再審が必要と判断されるであろう、ということをここでは書いてみよう。なお俺は最終学歴が中卒なので法律の難しい話とかの知識はゼロである。法律の話なのだからそういうのは素人ではなく法律家の人がするべきだろう、というのも一理あるのだが、たとえば「疑わしきは被告人の利益に」の理由が専門家の人に聞かないとわからないとすれば、これを多くの人が納得するのはたぶん難しい。しかし、俺のようなズブの素人でも自分で脳みそをクイクイっと捻ればナルホドねと納得できるのなら、多くの人も同じように納得できるだろう。そのためにあえて素人の俺がこういうことを書くわけである。

有罪・無罪とは何か

裁判には有罪か無罪しかない。だから有罪じゃなければ無罪だし、無罪でなければ有罪ということになる。そのため被告人を有罪と考える人たち(おもに検察)は有罪を訴えるし、無罪と考える人(おもに弁護士など)は無罪を訴えることになるわけだが、こうした有罪・無罪の二項対立のわかりやすい図式はかえって有罪・無罪とは何か見えにくくしてしまい、結果的に有罪・無罪という概念の混乱を招く結果となっているんじゃないか、というのは俺の持論である。

では有罪・無罪とは何か。実はわれわれが普段ある物事について有罪とか無罪とか言う時にはそこに知らず知らずのうちに複数の意味を含んでしまっている。それを具体化すると、個人の見解としての有罪・無罪、事実としての有罪・無罪、そして法律上の有罪・無罪ということになる。話をわかりやすくするために、個人の見解を「主観」、事実を「客観」、法律を「共同主観」と呼び換えよう…と書いたら「共同主観」なる謎用語が出てきてしまい逆にわかりにくくなった気がしたので要説明。

「主観」は単純、自分の目から見てどう見えるか、ということだ。たとえばリンゴを見てそれを美味しそうとか不味そうとか思うのが主観である。それに比べれば「客観」は単純と見えてやや複雑、これは誰が見ても(考えても)その事実は動かないもののことを言う。と書けば「そこにリンゴがある」は客観と思われるかもしれないが、実はこれは容易に客観と判断できないもので、俺にはそこにリンゴと99999億万円あると見えていても、実はそれは俺の願望が生み出した幻覚という可能性だってあるのだ。というか99999億万円はかなり100%幻覚だろう。おかしいな、俺の目にはちゃんと見えるのだが…。

「客観」の例として適切なのは、どちらかといえば物体とかよりも科学的な法則とかの方だろう。たとえば「水は温めるとお湯になる」。これは世界中の誰が試しても必ずそうなる(はず)なので、人間の主観ではなく客観である。「1+1=2」というのもそうだろう。もちろん算数を知らない人はこのように記号として表現することはできないだろうが、リンゴが一個あり、そこにもう一個リンゴが加われば、それは1+1=2の実例であり、リンゴが2つ集まってもそれを1つのリンゴだと判断することはできない。ただしこのリンゴを見る人がとても細かい性格で、リンゴAとリンゴBを完全な別物として認識している場合は「リンゴAが1コとリンゴBが1コ」と判断して1+1=2の図式にはならないかもしれないので、この例はあまり適切な例ではないのだが。

そして最後に「共同主観」。これは何かと言えば、本当は主観でしかないことなのだが、それをみんなで共有することで、あたかも「客観」であるかのように見えるもののことを言う。一番わかりやすい例はお金。今アナタの目の前にピカピカの1000円札があるとしよう。この1000円札をコンビニに持っていけば1000円分のお菓子とかパンとかが買えるので、1000円札にはあたかも1000円分の客観的な価値があるように見える。しかし、実はこれは客観的事実ではなく共同主観によるウソなのだ!

どういうことか説明しよう。1000円札に1000円分の価値があるのは日本という国が「この1000円と書いてあるお札には1000円分の価値があります」と世界中のみなさんに約束して、おおむね世界中のみなさんもそれを信じているからでしかない。この約束を知らない、たとえばなんか知らんが密林の奥深くで文明から切り離されて生活をしている人の村に行って今おれは1000円持ってるから1000円分のなんかくれとお願いしても、その人たちは「1000円札には1000円分の価値がある」と知らないので、きっと1000円分の何かをくれることはないだろう。最悪ヤリとかで刺されるかもしれない(差別的発想)

つまり、1000円札に1000円分の価値があるのは、「うーんこの1000円札には1000円分の価値があるように見えるなぁ!」という「主観」を、みんなで共有しているからに過ぎないのだ。みんなで共有する主観だから「共同主観」。一方、「客観」ならさっきの密林部族の村でもちゃんと通用するので、この部族の村でも水を暖めればそれはちゃんとお湯になるのだ。ある物事についてそれが共同主観か客観かを区別するには、それを知らない人が試しても(考えても)そうなるかどうか、ということを考えてみるといいだろう。

さて、こうして一通り説明したところで有罪・無罪の話に戻ろう。忘れた人は少し上にスクロールして読み返してほしいが、さきほどの俺定義では個人の見解としての有罪・無罪が「主観」、事実としての有罪・無罪が「客観」、法律上の有罪・無罪が「共同主観」であった。そして、人々がある人物について有罪・無罪と言う時には、この3種類が混ざり合っている。だから更にわかりやすくするために、「主観」の有罪・無罪「やった・やってない」、「客観の有罪・無罪」を「事実・無実」、「共同主観」の有罪・無罪はそのまま「有罪・無罪」と言い換えよう。その上で、それぞれの対応関係を整理すると、↓の図のようになる。

この図を見たら面白いことに気付いたんじゃないだろうか。いや、気付いてください。気付いてほしい! 「客観」には事実・無実の二つしかなく、「主観」にはやったとやってないの間にわからないがあり、そして「共同主観」では、「疑わしき派被告人の利益に」の原則により、「主観」における「わからない」が「無罪」となっているのだ。どういうことかというと、つまり「客観」の水準では、ある人物が犯罪を行ったか行ってないかはそのどちらかしかない(ある科学法則が事実か虚偽かの二択しかないのと一緒)。けれども人間の洞察には限界があるので、「主観」の水準では「やった・やってない」の他に「わからない」が入る。

たとえば、そこに客観的事実としてリンゴがあるとする。このリンゴを黒い箱に入れるか入れないかして、そこらへんから呼んできたなんも知らない人に「この箱の中にリンゴはあるでしょうか?」と聞いた場合、なんも知らない人の主観的な答えの選択肢は「ある・ない・わからない」の三つになるけれども、客観的には箱の中にはリンゴがあるか、もしくは無いかの二択しかないのだ。

このように有罪・無罪という概念の中身を整理してみることで、たとえば裁判で共同主観として無罪とされた人も、もしかしたら客観的には犯罪を行ったことは事実かもしれないし、逆に裁判で有罪とされた人が、客観的には犯罪を行ったという事実のない無実かもしれないということがわかる。つまり有罪=(犯人であることが)事実ではないし、無罪=無実でもなく、人々が裁判にかけられた人を有罪とか無罪とか言うのは、客観的に事実・無実が確認されたからではなく、みんなの共同主観としてその人を有罪とか無罪とか決めた、ということでしかないのだ。

そして、共同主観によって有罪か無罪か決める裁判の場合、主観の「わからない」は、例の「疑わしきは被告人の利益に」の原則により、「無罪」ということになるのである。

なぜ「疑わしきは被告人の利益に」が必要なのか?

「疑わしきは被告人の利益に」の原則を人権と絡めて論じる人もいるが、俺はそれにはあんまり賛同できない方である。理由はなんかムカつくからである。人権を尊重しますと言うとなんだか立派な人のように世間から認知されるので、人から良い人に見られたいがために人権人権と言っているように感じられてしまうのだ。我ながら性根が腐っているなと思う。

「疑わしきは被告人の利益に」の正当化に人権など不要である。ではその理由をご説明しよう。まず、この原則がなかった場合を考えてみよう。裁判には有罪か無罪かの二択しかない。仮に被告が本当に事件の犯人かどうかわからなくても裁判官は「すいませんよくわかんないです」と言うことはできないのだ(できるがたぶん即日でクビ)。裁判官は仮に真相のよくわかんない事件でも有罪か無罪か決めないといけない。したがって「疑わしきは被告人の利益に」の原則がない場合、真相のよくわかんない事件の場合は担当裁判官のなんとなくの気分とかで有罪か無罪かが決まってしまうことになり、「そんなもんおめーの感じ方だろ!」としか言いようが無い困った事態が発生してしまうのだ。例:「なんか顔が気持ち悪くて犯罪してそうだから有罪」「めっちゃ好みの人だから完全無罪!!!!」。「疑わしきは被告人の利益に」の原則がある場合、なんか顔が気持ち悪いだけで本当は心優しく無実の人はちゃんと無罪になって救われるのだ。

逆に、「疑わしきは原告人の利益に」を採用したらどうなるかも考えてみる。この原則を採用するメリットはなんといっても犯罪者をバシバシ刑務所に送り込めることだろう。「疑わしきは被告人の利益に」の場合、真相のよくわかんない事件では、本当は犯罪をやってる人も無罪放免になってしまう可能性がある。しかし「疑わしきは原告人の利益に」の場合はその可能性はゼロ、すべての犯罪者が必ず臭い飯を食ってくれるので日々犯罪に怯える世の弱者の人たちにはとてもありがたい感じである。

しかしデメリットもある。それは犯罪の疑いをかけられれば無実の人でもガンガン刑務所に入れられてしまう、ということだ。ある会社で冷蔵庫に入れておいた午後の紅茶が何者かに盗難される事件が発生したとしよう。その被害者の人が警察に訴えると、警察の人は会社にいた顔の気持ち悪い人をなんとなく犯人っぽい気がしたので証拠はないがしょっ引いて、この人はその後に裁判を経由して刑務所に行く。しかし顔の気持ち悪い人は顔が気持ち悪いだけで実は無実であった。当然本人はそう強く訴えるのだが、「疑わしきは原告人の利益に」なので、証拠はないし本当はやってなくてもこの人はブタ箱なのである。

さてそれから数年後、無実の罪の契機を終えて無事出所した顔の気持ち悪い人だったが、心中はふざけんなの気持ちでいっぱいである。この人はちくしょうあいつのせいでと恨みながら警察に駆け込んでこう言った。「たいへんです殺人事件です! 犯人は前に会社で午後の紅茶の盗まれた〇〇さんです!」これはたいへんということで警察は会社に急行、今度は午後ティー盗難事件の被害者であった〇〇さんを裁判にかけ、「疑わしきは原告人の利益に」の原則により刑務所に送り込むのであった。

以上の茶番たとえ話からわかる「疑わしきは原告人の利益に」原則の重要なポイントは3点ある。一つは、疑いさえかけられれば証拠がなくても有罪になるので、極論、証拠どころか事件そのものが誰かの悪意や思い込みによるウソでも、無実の人が刑務所にぶち込まれてしまう点。そしてもう一つは、気に食わないやつがいたら「事件です!」と雑にウソをつくだけで気に食わないやつを社会的に抹殺できてしまうので、人々は疑心暗鬼に陥り、もし周りに気に食わないやつがいなくても、「この人を放置しといたらそのうち自分が犯罪者扱いされて刑務所に入れられそうだな…」とか不安に駆られたりして、先回りして「事件です! 犯人はアイツ!」と言うような、なんかデスゲームもののマンガみたいな展開になってしまったりする点である。

そして三つ目は、証拠がなくてもとりあえず犯人っぽいやつを刑務所にぶち込めば事件解決なので、証拠を固めて真犯人を特定するメリットが司法の側になく、本当の犯人は逆に野放しになってしまうかもしれないという点。さっき「すべての犯罪者が必ず臭い飯を食ってくれる」と書いたばかりなのに矛盾するようだが、それは「疑わしきは原告人の利益に」原則の下では、その国の全員を原理的に逮捕できてしまうので、全員を逮捕すればその中に潜んでいる「すべての犯罪者が必ず臭い飯を食ってくれる」ということなのだ。つまり「疑わしきは原告人の利益に」原則とは、その法律の適用される全国民が犯罪者として扱われる、ということなのである。

以上二つのパターンを考えてみた。「疑わしきは被告人の利益に」の原則がないパターン、そして「疑わしきは原告人の利益に」のパターン。前者は裁判官の気分次第で真相のよくわかんない事件の有罪・無罪が決まってしまうので「お前の感じ方だろ!」ケースが多発するだけでなく、被告人を無罪もしくは有罪にしたい人から賄賂が入ったりして、裁判がお金持ちとかヤクザみたいな悪い人に有利になってしまって困る。後者はお金持ちとかヤクザみたいな悪い人が有利にならずむしろ全員刑務所に送られるかもしれないが、同時に、原理的には全国民が刑務所に入れられてしまうので、シャバの自由を謳歌できる人が一人もいなくなってしまう。

こうして考えると、「疑わしきは被告人の利益に」原則の必要性がよくわかるんじゃないだろうか。たしかにこの原則だと本当は犯罪をやってるけど証拠をうまく隠した悪人が無罪になってしまう危険性もあるのだが、こうした原則があるがために逆に警察や検察は必死になって証拠を探すので、ちゃんと犯罪者だけが有罪になり、犯罪者ではない人は無罪になる確率が他の場合と比べて高くなる。「疑わしきは被告人の利益に」の原則は一見すると温情のようだが、実はそうではなく、この原則があるからこそ、犯罪者を適切に刑務所にぶち込めるのである。

以上を表にまとめれば↓のようになるので要チェック。

【まとめ】結局どうして和歌山毒カレーの再審は必要なわけ?

単純に物証がなく「疑わしきは被告人の利益に」の原則に反しているから。そして「疑わしきは被告人の利益に」の原則が蔑ろにされるということは、この原則がもっとも犯罪者だけに正しく刑務所人生を送ってもらえると考えられる以上、犯罪者が適切に処分されなくなるということを意味する。林眞須美が和歌山毒カレーの犯人かどうかは俺の主観ではよくわからないが、仮に犯人ではなかった場合、カレーにヒ素を混ぜて4人とか殺して十数人を死にそうにさせた極悪人がシャバでのうのうと余生を送っている(死んでなければ)ということである。これはかなりコワイことではないだろうか。

そんなわけで和歌山毒カレーの再審と捜査のやり直しをやってくれないと、なのである。こう言うのもあれだが林眞須美はぶっちゃけ知らない人なのでどうなってもわりとよく、しかしそれとは別に、これといった物証がないまま有罪、しかも死刑判決という最大の刑罰が下されるということは、明確に「疑わしきは被告人の利益に」原則に反しているといえる。それで最終的に困るのは日本に住んでる俺も含めた全員でしょうが、ということなのである。

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