ツイッターやめろ大絵巻映画『箱男』感想文

《推定睡眠時間:0分》

何はなくとも書かなくては感想文は始まらない、一度書き出しさえしてみれば案外するすると書けてしまうのが感想文に限らず文章というものである。安部公房の原作『箱男』は箱男と思われる何者かの手記という形を取っているし、この石井岳龍による映画版『箱男』でも手記がキーアイテムとなっている。箱男を観察しているうちに箱男になりたくなってしまった偽医者の浅野忠信は箱の中でこんな感じのことを叫ぶ。「これで分かったよ…箱だけではダメなんだ、手記こそが人を箱男にする!」。だからとりあえず、いったい何を書いていいか今でもかなり迷っているが、感想を書き出してみよう。

迷っているといっても書くことが頭の中にないというわけではない。むしろ逆にありすぎて何を書いていいかわからないのだ。この映画は込められたものが多すぎる。近年の石井岳龍の映画は『パンク侍、斬られて候』や『自分革命映画闘争』などすべてそうだが、何重にもコンテクストが重なっていて、石井岳龍の来歴とか、原作者の思想とか、それぞれのこれまでの作品との関係性とか、映画の作られた時代状況というのももちろんそうだし、加えて作品自体も多層のメタ構造になっていてフィクションとドキュメンタリーを自在に行ったり来たりするものだから、そのどこに着目するかでほとんど無数の切り口が生まれてしまう。どこからでも語ることができるが、そのためにどこから語っても抜け落ちるものが出てきてしまう。他の人はどうか知らないが、俺はある作品について思ったことは全部言いたい派である。だから『箱男』のような映画になるともう…いったい何を書けばいいのやら!

ただ総体として、これが何を大きなテーマとする映画だったかということについては近年の石井岳龍映画の中では比較的わかりやすく、また語りやすくもあるように思う。なのでそれを書いてしまうか。つまりこれは、まぁテーマやモチーフの解釈は劇中で刻々と変化していくのだが、最終的には「箱男」とはスマホでツイッターとかインスタグラムばっかやってるみなさんなんですよという映画であった。終わり良ければそれで良しというがこの映画はエンドロールに作品のメッセージがあったように思う。そのエンドロールはスタッフ・キャストのクレジットがすべて手書きのサイン(なんと安部公房まで!)になっていて、観ているとスマホの着信音があちこちから響き出すので「あれ、誰かマナーモードにし忘れたのかな」とか錯覚するちょっとしたギミックがあるのだが、おそらくこれなのである。自分の手で自分の名前を書くということ。すなわち、インターネットの匿名の殻に隠れるな、という案外シンプルなメッセージ。匿名に身を隠して一方的に「見る」という行為は、SNSに代表的なインターネットの最大の魅力といっても過言ではない。

そこから浅野忠信が「手記がなければ箱男じゃない!」と断言する理由も察せられるというもの。自分を匿名にする「箱」に隠れて外の世界を一方的に見るだけでは足りない。自分は見られることなく一方的に見ながらそこで起こったことや思ったことを手記に脈絡も終わりもなく延々と書き続けるのが箱男なのだ。そして自分一人で延々と手記を書いているうちに現実と虚構の見分けはつかなくなっていって、現実を書いていたはずがいつしか書いていることが現実へと反転し、そして現実が書かれたことなら、自分の存在もまた書かれたものなのではないか…? と思考の安部公房というよりも夢野久作的な(石井岳龍がかつて夢野久作原作の『ユメノ銀河』を撮っていたことは決して偶然ではない!)迷宮に陥ってしまうのだ。

これは…ツイ廃だな! ツイッターに齧り付いているうちにツイートの方が現実や事実よりも「真実」らしく見えてきてしまい認識がぶっ壊れてしまうツイ廃だ! いや、冗談で言っているのではない。おそらく本当にそういうつもりで石井岳龍は作っているし、そうした現代の閉じたコミュニケーションの在り方に一石(どころではない)を投じるつもりで、実は1990年頃に撮影直前まで行ったものの資金繰りの問題で撮影が頓挫したという実写映画版『箱男』を今の時代に蘇らせたんじゃないかと思う。その根拠としては石井岳龍の前作『自分革命映画闘争』の存在があるのだが…こちらは内容が『箱男』以上にカオスなので書くのが面倒! 参考資料として観た時の感想文のリンクを貼っておくから興味があればそちらもごらんください。

さてまぁくどくどした素人講釈が終わったところで…おもしろかった! これはあれだね『箱男』の映画化というよりは『箱男』を含む安部公房の様々な作品をミックスして1本の映画にした感じ、たとえば「箱男を見る者は箱男になる」という作品の中心的なテーゼは探偵が失踪者を捜している内に自分の存在がわからなくなってきて失踪者と同化していく『燃えつきた地図』を彷彿とさせるし、箱男になりたい男たちが箱を巡ってバカバカしい戦いを繰り広げるさまはニートが作った核シェルターを占拠しようと様々な珍奇勢力が争う『方舟さくら丸』に近いものがある、終盤に用意された浅野忠信の一人舞台のような場面は安部公房の小説ではなく前衛演劇を思わせるもので、そのごちゃ混ぜっぷりはまるで石井輝男による江戸川乱歩詰め合わせセット『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の如しだ!

俺は安部公房が好きなのでこれはもうたまらんという感じだが安部公房に思い入れなんかなくても石井岳龍らしい音楽と編集のリズム感はかなりの気持ちよさだし、それをあえて所々で外してくるオフビートなギャグもキレがよく、さまざまな実験手法を駆使したトリッピーな映像は酩酊感あり。サスペンスもコメディもホラーも不条理も全部呑み込んで次々とジャンルを変えていく様はスリリングだし、なによりこの映画最大の見せ場である箱男と箱男の箱バトルがくっだらなくて最高! 「このやろー!」「うるせー!」「うぎゃー!」「いてー!」「にげるなー!」とか浅野忠信のと永瀬正敏とかいう日本映画界の名優が小学生みたいなことを叫びながら箱で激突してるんだからなんなんだこれは!

単なるスケベ親父の佐藤浩市、段々とマゾに目覚めていく浅野忠信、箱に入ってなんか大層なことを呟いているがやってることは目の前を通り過ぎる女の人の足を見るだけとかいう永瀬正敏と、箱男になりたがる男たちが全員しょうもないのも素晴らしい(とくに浅野忠信の風俗客みたいな芝居がめっちゃ笑えて好き)。ナンカイな前衛小説として一般的には読まれているらしい『箱男』をこんなバカバカしい映画にしたんだから石井岳龍はさすが根性のある人だなーと思うし安部公房をよく読んでるなーと思う。結構バカバカしくて笑っちゃうところも多いのよ安部公房の小説って。とくに後期は。

さて例のエンドロールを見るともう一つ気付くことがある。それは登場人物がたった一人を除いて肩書き=匿名の役名しか与えられておらず、その唯一フルネームの役名を与えられている人物というのが、劇中で箱男たちが欲望し独占しあるいは救出しようとしている看護師の女ということだ。箱男たちは自分のナマの姿を見られることを恐れて肩書きや虚勢に隠れるが、この看護師だけは名前はもちろん裸体を人前に晒すことさえ恐れない。この人は各々が各々の妄想世界に閉じこもっているこの映画の中で唯一リアルを生き、地に足をつけて、お互いに見て見られての肉体的な関係性を持つことができる人間なのだ。

つい先日、初期の安部公房演劇に参加した舞台女優の岩崎加根子さんのトークショーに行ったら、安部公房は演技指導に当たって「自分はロマやアボリジニのような放浪的な生き方が本当に人間らしい生き方だと思っている」というようなことを言っていた、と聞いた。どこにも根を下ろさない代わりに(箱男たちはみんな彼女を囚われの女だと思っているが、「私は自分の意志でここにいるのよ」と彼女は語る)、どこへでも行けてしまう看護師の女にはきっとそんなイメージが込められているんじゃないだろうか。

人はみんな安定した場所とアイデンティティを求めて、SNSはそれをいとも簡単に与えてくれる。自分の趣味は〇〇で政治信条は〇〇で、とプロフィールに書きさえすれば、それだけでその人はその通りの人間になれるのだ。けれどもそんなものはしょせん手記の上のテキストであり、言うならばSNSの上で着る服でしかない。本当は容易に手に入れたり変えたりすることのできないアイデンティティを簡単に得られるということは、それが作りもののアイデンティティであるということなのだから、SNS上でアイデンティティを求めれば求めるほど、言い換えるなら、そこを不動の居城として定めようとすれば定めようとするほど、それはそれを求める人の手から遠ざかっていくことになる。

原作ではそこらへんに結構たくさんいるということになっているはずの箱男がこの映画の中では「一つの街に箱男は二人いらねぇっつってんだよ!」と大激突するわけだが、アイデンティティのないはずの箱男が箱男というアイデンティティのために争うという矛盾は、SNSの上で匿名でいながらも自分は何者であるかというアイデンティティを主張して憚らないネットユーザーと重なるものがある。実は箱男(永瀬正敏の方)が手に入れた箱男の手記の最初のページに書かれているのは原作の最初の数行であり、これは原作の『箱男』に影響を受けたニセモノとして映画版の『箱男』があるということを自虐的に示唆してもいるし、箱男をSNS廃人のメタファーとするなら、SNS上でアイデンティティを確立しようとすることの滑稽を示しているとも言えるんじゃないだろうか。

ネットなんかでは決して手に入らないアイデンティティ=居場所をいくらネットで得ようとしてもその願いは空転して、脳みそは妄想の迷宮の奥深くへと入って行くばかりだ。葉子という名を持つあの看護師の女のように、そんな不毛とはおさらばして、不安定な地面にどっしりと足をつけ、見て見られ傷つき傷つかれ、ときには全裸をさらけ出して、必要とあらば放浪しながら、全力ダッシュで逃走しながら、まぁリアルを生きていこうじゃないの。いささか昭和的で古くさいメッセージかもしれないが、なんかそんなものを俺はこの映画に見たね。そしてそれはたしかに今の時代に必要なものなんじゃあないかと思う…と隙を見せれば脳が理屈を捻り出してしまうのでこれもまた脳髄の迷宮!(それは夢野久作だ)

※ところで押井守の短編アニメ『迷宮物件 FILE538』はストーリーも手法(都市のスチル写真のインサート)も安部公房の小説とよく似ているので、押井守がこの『箱男』をどう観たか、ぜひ聞いてみたいところ。

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