《推定睡眠時間:0分》
前作『ジョーカー』で起こした連続殺人事件の裁判に出廷したジョーカーことアーサー・フレックが傍聴席の野次馬に向かって「こ、こ、こ、これでおーしまい!(That’s All Folks!)」とどもりながら言うシーンがあるがこれはワーナーのカートゥーンアニメ、ルーニー・テューンズの主要キャラのひとりポーキー・ピッグ(どもりが特徴のため最近のルーニー・テューンズではハブられ気味)がエピソード終わりに言う締めの台詞の引用。ワーナー映画には本編が始まる前の前座的なものとしてルーニー・テューンズの短編アニメが付いていた時代があり、たしか『グレムリン2』とかでルーニー・テューンズ大好き監督ジョー・ダンテもやっていたが、この『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』もルーニー・テューンズをパロったアーサーの心象風景アニメで幕を開ける。その含意は議論の余地がない。アーサーはルーニー・テューンズのキャラクターと同じような現実味のない笑われ役であり、テレビを通して大衆に消費される空虚な偶像=アイドルだということである。ちなみに言っておくが俺はルーニー・テューンズは超大好きである。ディズニーランドの代わりにルーニー・テューンズ・ランドが出来ていたらどんなに素晴らしい世の中になっていたことだろう!
さて前作はスコセッシのお笑い版『タクシードライバー』こと『キング・オブ・コメディ』を元ネタにしていたが前作の事件後無事アーカム医療刑務所に収監されたアーサーの裁判過程と所内で出会った放火犯ハーレイ・クインとの恋愛のようなものを描く『フォリ・ア・ドゥ』はもう少し漠然と「あの時代」全般を元ネタにしているように見える。ハーレイ・クインはテレビドラマ化されたジョーカー事件を観てアーサー=ジョーカーのファンになったのだが、それを含めて法廷の内外でのジョーカー・フィーバーから即座に連想されるのはテッド・バンディやリチャード・ラミレスといった1970~80年代アメリカのシリアルキラー・ブームであり、テッド・バンディの裁判やインタビューはテレビで放送されて大反響を呼び、1989年の死刑執行時にはバンディのファンたち(?)が大勢刑務所前に押しかけてその模様が生放送されたし、死刑判決後に法廷で発した「ディズニーランドで会おうぜ!」の台詞があまりにも有名なナイトストーカーことリチャード・ラミレスは弁護士の法廷戦略で身なりを整えたためロックスターみたいでカッコイイ殺人鬼として話題になり多くの女性ファンがラミレスを一目見るために裁判傍聴に詰めかけた。
バンディやラミレスといった実在のシリアルキラーに(おそらく)材を取り、テレビ報道によってそのキャラクターが誇張され実態と解離したイメージだけが消費された1970~80年代アメリカの今からすれば異常な「シリアルキラー・アイドル」ブーム(といっても今でも植松聖みたいな大量殺人犯を神扱いする人はネットに一定数いるし、安倍元首相殺人犯の山上徹也に至っては減刑嘆願署名運動まで起こったのであった。市橋達也も痩身でイケメン風といえばイケメン風なのでやはり女性ファンがついて市橋ギャルズなどと揶揄された)に対する批評が『フォリ・ア・ドゥ』の骨なら、それを覆う肉は『暴力脱獄』や『俺たちに明日はない』など1970年代の〈ニューハリウッド〉と呼ばれたリアリズムを基調とするアメリカ映画のイメージ借用である(ただし『俺たちに明日はない』は1967年の作)。前作の元ネタになった『キング・オブ・コメディ』のマーティン・スコセッシはニューハリウッドの代表的な監督の一人で『タクシードライバー』もまたニューハリウッドの代表的な一本。そうしたニューハリウッド映画のテイストが『フォリ・ア・ドゥ』には濃厚に漂っていた。
要するにこれはそういう映画なんである。そもそも前作『ジョーカー』がアメコミ的なアクション映画ではなくあくまでもジョーカーを素材に『キング・オブ・コメディ』と『タクシードライバー』をがっちゃんこしたようなニューハリウッド風味のサスペンス・ドラマだったし、その続編が70年代のニューハリウッド映画から諸々ネタを採取してきているシリアルキラー法廷劇というのは路線としてぜんぜんおかしなことじゃない。まぁミュージカル仕立てにしてきたのは意外といえば意外でしたが(ニューハリウッド大将コッポラの『ワン・フロム・ザ・ハート』か?)
なので「予想と違う!」みたいなのは俺の場合なかったが…ただ『フォリ・ア・ドゥ』のテーマになってるシリアルキラー・ブームの批評とシリアルキラー・アイドルの解体って前作『ジョーカー』でド正面からやったことで、シリアルキラーはカッコイイわけでも頭がめっちゃ良いわけでも別になく、どちらかと言えば基本みじめな人であるなんてのは前作を観れば普通はわかる。ちょうどニューハリウッド時代のアメリカ(シリアルキラー・アイドルの代表格ゾディアックが活動を始めたのは『俺たちに明日はない』公開の翌年とされている)でシリアルキラーが大活躍できていたのは身も蓋もなくアメリカの警察組織の縦割り構造による連携不足と広大な国土をカバーできない慢性的な人員不足といった警察力の弱さに起因する(そのため監視技術の発達した現在のアメリカでは大量殺人はあっても無差別的な連続殺人はほとんど発生しない)ことはNetflixの適当なシリアルキラードキュメンタリーの一本でも観れば明らかだが、それがわからず今でもゾディアックをたまたま捕まらなかった厨二のアホではなくスーパー知能犯だと思っている人もいるくらいなので、そういう人のために前作にどういう含意があったのか説明してやるための映画が『フォリ・ア・ドゥ』だったのかもしれない…とは一応理解するが、やっぱ蛇足も蛇足じゃないかなこれ。
という意味で『フォリ・ア・ドゥ』、むしろ前作を観ない方が楽しめる映画かもしれない。前作をとりあえず忘れて単独の映画として観れば冒頭の歩くガイコツみたいになったホアキン・フェニックスを筆頭に映像的な見所いっぱい。あれ役者根性で痩せたんだとしたらスゴイよね、ほんの数年前の『ビューティフル・デイ』に出たときは森のクマさんみたいな肉体を晒してたのに。ハーレイ・クインを演じるレディ・ガガの歌の数々はもちろん楽しいし、渡辺哲のようでもアーネスト・ボーグナインのようでもある暴力看守ブレンダン・グリーソンの怪演もニューハリウッドぽさ満載でイイ、ルーニー・テューンズのネタは嬉しいし陰影の濃いパルプ・ノワール的な空間造形も見応えあったな~。てな感じで面白い『フォリ・ア・ドゥ』なのである。けっこう画力と役者パワーで押し切ってるのでストーリーは法廷劇としても獄中劇としても練り込みが足りずあんまり面白くないですが。
それにしても、前作『ジョーカー』はあれ一本で完成されていたので続編の報を聞いた時には「!?」となったものです。なんでもこの映画アメリカでの興行収入がパッとしなかったみたいで内容的にも今度はさすがに続編ないだろうと思われますが、よーく見るとラストシーンに続編を作ろうと思えば作れる仕掛けが施されていたのでハリウッドはおそろしいところ。ラストシーン、画面いっぱいにジョーカー=アーサー=ホアキン・フェニックスの顔面が広がるわけですが、その背後にぼんやり映り込んでいるある人物の挙動に注目。あれ、これはもしかして…それ以上は口外不可!
地震で目が覚めてしまいました…(只今の時刻は10月13日の午前中4時40分頃)
「アーサーよ、安らかに。ジョーカーよ、永遠に」という感じのエンディングになっていたように思いましたねぇ。
続編の意図の有無はわかりませんが、ハービー・デントが一応トゥー・フェイスになっていたのも、笑い事じゃないけどちょっと笑いました。
哀れな男の哀れな物語をあれだけ豪勢にやったのは見事だなぁという感じでした。
え!デント、トゥーフェイスになってるところあったんですか!それは見逃してた…。
これ、プロットだけ見るとニューハリウッドにいかにもありそうな内容(とくにあのラスト)で、現実ってこんなもんすよみたいな感じですけど、それをハリウッドの大資本を投入してものすごいゴージャスにやるというのは、ニューハリウッド時代にはない今の時代の映画だなって感じかもしれません。ゴージャスだからあんまり悲壮感とかなくて、貧乏な学なし童貞だった人がレディ・ガガと恋仲にもなれたしまぁ良いんじゃない?みたいな笑
ある意味「野次馬より弁護士の言うこと聞いていれば…」と思ってしまうオチでしたね。
野次馬はアーサーの素を見て幻滅し、アーサー自身もジョーカーを演じるのに疲れて嫌になったんだと見て思いました。
弁護士の言う通り責任能力なしを訴えていればねぇですけど、結局スターに憧れてた人だからスター幻想を捨てきれなかったんですよね。哀れな人の映画だったと思います。
「いただき女子りりちゃん映画化」って記事を見て、「ジョーカーの野次馬側が怪人を祀るための映画作っちゃった」と思ってしまいました…
ま、まぁどんな映画かは観てみないとわからないですからね、ははは…