撮りたいもん撮って生きろ映画『ルート29』感想文

《推定睡眠時間:30分》

『こちらあみ子』の森井勇佑監督最新作! 『こちらあみ子』といえばその年の俺の脳内カンヌ映画祭で俺の脳内パルムドールを俺の脳内受賞した21世紀日本映画の新たる俺の脳内古典というべき傑作である。その監督の最新作とくればもはやそれ以外の情報など何一ついらん感じである。面白いに決まっているだろうが。ということで観ずして傑作認定を俺の脳内で下して劇場に入ると結構面食らってしまった。面白いし良い映画だがなんじゃこりゃだったんである。

映画が始まるとそこはどこであったかな姫路とかの公園だったと思うが修学旅行かなんかの中学生たちが所狭しとダラダラしていてそこを引率の先生が拡声器でこれから自由行動です、自由行動といっても云々と言いながら歩いて行くのをカメラがトラック撮影(地面にレール敷いて横一直線にカメラ動かしてくやつ)で追ったのでこの人が主人公かぁと雑に思ったのも束の間、カメラは先生の先へ先へと進んでしまいやがて先生フレームアウト、画面は思い思いに暇時間を過ごす中学生たちのパノラマとなりこの時点で既にホウ・シャオシェンとかエドワード・ヤンとか台湾ニューウェーブ的な名作の風格漂う素晴らしさだが、なにがなんなんだかはよくわからない。カメラはやがてダメそうな男友達二人を引き連れこっそりタバコを吸いにでかける女子生徒を捉えるのでこの人が主人公か、と思ったらこの人もまた主人公ではなく、そればかりかこのオープニングにしか出てこないモブ的な人だったのだ。

中学生3人が狭い路地で風に吹かれながら懸命にタバコに火をつけようとしていると表通りをローラースケートを履いたそうだなぁ小4くらいかなぁ、の少女が通りかかる。すると中学生たちの陰に隠れていたツナギ姿の女がアッと飛び出して少女を追う。その後も説明はされなかったのでよくわからないが、どうやらこのツナギ女は中学生にタバコと引き換えに少女の居所を提供してもらったらしい。訳あってツナギ女がローラースケート少女を探していることはのちのち説明される。ということでこの二人が主人公、大沢一菜と綾瀬はるか。二人は国道29号線沿いにたぶん鳥取まで訳あって向かうことになるのであった。

このオープニングからしてクセモノなのだがその後も何の説明も脈絡もないシーンが胃の調子の悪いときの夢のように続くのでなんなのだと思えば実はこの映画、原作が『ルート29、解放』という国道29号線を題材にした詩集とのこと。この詩集にインスパイアされて森井勇佑が物語を組み立てていったとパンフレットに書いてあったので原作ものといってもほとんどオリジナルみたいなもんだろう。なるほど詩集ね。それでこんなよくわからないイメージの数珠つなぎ的な構成になってんのね。詩集を原作にした映画といえば『夜空はいつでも最高密度の青色だ』とかもあるが、でも観てないから知らんけどあっちはもっと映画としてなんというか固まってる感じなんじゃないだろうか。

物語の掴み所のなさもさることながらこの映画は演出も掴み所がない。『こちらあみ子』はマジョリティには決して理解できない人(あみ子という子供)の視点から見た世界とマジョリティから見た世界の残酷なズレと衝突をしかし不思議な浮遊感で描き切ってかなり悲惨な話なのにそうと感じさせずむしろ生命賛歌になっている点が凄かったのだが、こちらではファンタジーの形で二人の道中に死が執拗に侵入してきて生の世界と衝突する。道を歩いていれば横転した車と遭遇しそのドライバーのオッサンは一言も喋らず幽霊のように二人についてくるが、幽霊的な演出などはとくにない。ヴェンダースの『まわり道』を彷彿とさせるシュールな旅は道連れっぷりはユーモラスでありつつ謎。更に道を進めば赤い月が出ていて街の人々は棒立ちになってその月を眺めている。この街とこの現象がなんなのかなんて説明されることはないし、主人公二人もその場を無言で通り過ぎてしまうのである。ちなみにこのシーンのトラック撮影も見事でした。

劇判はヌーベルヴァーグ映画かというほどに極端に少なく、ワンシーンワンカットを基本とした編集は初期のジャームッシュ映画みたい。二人がたまに会話を交わす人々はみんな棒読み、憑かれたように過去エピやら苦労話などを一方的に話しては急に消えたりしてしまう。鳥取に近づくに連れて旅は濃厚な死の気配を帯びていくが映像はその気配とは対照的にあっけらかんとしたもので、コミカルな場面も数多い。そのミスマッチが実に異様。『こちらあみ子』もマジョリティの理解と共感を拒絶するような大胆で挑戦的な作りだったが、『ルート29』はそれをだいぶ凌ぐ理解と共感の拒絶っぷりで、こんな映画を商業でぬけぬけと撮っちゃって森井勇佑に次の仕事は来るのかと心配になってしまう。

そのような意味でも演出スタイルの面でも『菊次郎の夏』ぐらいまでの北野映画とはよく似たものを感じたし(最後にでっかい魚が出てくるが、そのへん『ソナチネ』の銛で突かれた魚のオープニングを思わせなくもなかった)、他にはしりあがり寿のトリップ漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』とも似ていたように思う。そういう映画を綾瀬はるかというスターを主演に立てて監督2作目に撮ってるのだから相当攻めているわけで、ぶっちゃけ実験性が強すぎてあんまり面白くはなかったが、とはいえここまで愚直に少しの迷いもなく「こういう画を撮りたい」を全編に渡ってやられてしまうと、それはもうグッと来てしまう。

横溢する死の強烈な引力をガン無視して前に進み続ける大沢一菜の生命力は、他人からどう言われようと(絶対プロデューサーから「このシナリオで本当に大丈夫…?」って言われたって!)とにかく撮りたい画を淡々と撮っていく森井勇佑の姿勢とも重なるのかもしれない。そのちっともヒロイックではないけれども決然と人生に立ち向かう覚悟のようなものに、心を打たれずにいられようか、という話なのだ。

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