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以前香港映画ライターの人がトークイベントで「なんで最近の香港ノワールって返還前の時代ばかりが舞台なんですか?」と聞かれて「現代を舞台にすると脚本検閲でNGが出るから」とか言っていた。身も蓋もない答えでちょっと面白くなってしまうのだがなんだか切ない話である。別に現代を舞台にしたノワールものも作れないことはないだろうし現にこの映画で九龍城塞の首領を演じているルイス・クーが出ている2015年の作『ドラゴン×マッハ』や2019年の作『ホワイト・ストーム』は現代を舞台にしたギャングものなのだが、香港ノワールの異才ジョニー・トーが中国本土で『毒戦』を撮影した際にギャングをカッコよく描きすぎているとかなんとかで当局から茶々が入り辛酸をなめさせられたと語っているように、現代の中国映画ではギャングはきっちり成敗されなければならず、先の2本の映画もたしかになんだかんだ悪者はみんな酷い目に遭っていた。
しかしそれは現代の中国本土や香港が舞台であればという話、返還前の香港なら中国領じゃないから「返還前の香港はこんなに野蛮でしたが現在の香港は中国共産党の統治のもと見違えるようにキレイかつ立派になりました!」みたいな理屈でギャングをカッコよく描くノワールを撮ることもできるらしい。だから現代の香港ノワールは返還前を舞台にしがちというわけである。まぁ返還前の方がなんかロマンとか郷愁とかもあって面白いからそこらへんは検閲当局と作り手と観客みんなウィンウィンの関係にあるんだろう。返還前の九龍城塞を舞台にカッコいいギャングたちが所狭しと大暴れするこの『トワイライト・ウォリアーズ』は香港で大ヒットしたらしい。
それにしてもやはり切ない。これはなんだか香港ノワール最後の打ち上げ花火のような映画なのである。出演者を見てみればまずルイス・クー、ゼロ年代にはこの映画の監督でもあるソイ・チェンやジョニー・トーと組んで数多くの香港ノワールに出演したスターが筆頭に来るが、加えてサモ・ハン、言うまでもなくサモ・ハンといえば香港映画黄金期を支え現在でも現役の香港映画レジェンドだが、ドニー・イェンの出世作となった『SPL 狼よ静かに死ね』ではギャングの親玉を演じるなど21世紀に入り香港ノワール分野でも大きな足跡を残している。そしてリッチー・レン、顔と名前が俺の中では一致しなかったがジョニー・トーの『エグザイル』で超カッコいいハードボイルド輸送車警備員を演じていたあの人である。
スタッフに目を転じれば何は無くとも監督ソイ・チェンである。近年は中国本土のエンタメ大作(これもエンタメ大作だが)でも活躍するソイ・チェンだが、強烈に印象に残っているのは『ドッグ・バイト・ドッグ』『軍鶏』『アクシデント/意外』のゼロ年代香港ノワール3作、『アクシデント』のみちょっと哲学的なところがあり毛色が違うのだが(しかしこれはこれで実に傑作なのである)『ドッグ・バイト・ドッグ』と『軍鶏』は持たざる者のどん底悪あがきをパワフルかつ詩的に描いて実にハートに刺さる香港ノワールであった。
持たざる者の悪あがきというのは香港ノワールを特徴付ける主要な要素とおそらく言ってもいいだろう。『男たちの挽歌2』もそうだったし、『エグザイル』も敗者たちの物語という点でやはりそうじゃなかろうか。思うにカンフー映画から受け継がれたこの反骨精神は、香港ノワールを超えて香港映画の背骨とさえ言えるのかもしれない。香港映画を観ると元気になる。それは香港映画がいつだって、というわけではなくても、まぁカンフー映画とか香港ノワールとか香港ポリスアクションとかは、とにかく「勝ち目なんかなくたってやってやんよ!」精神に溢れているからで…と脱線しかけたが、『トワイライト・ウォリアーズ』も要するにそういう映画ということである。これは無一文で九龍城塞に駆け込んだ身寄り無しの密入国者があの猥雑で混沌として汚濁まみれの九龍城塞で生きる目的を得、そしてそれをくれた仲間や師というべき人物のために決死の戦いに挑むお話なんである。
ジョン・ウーは香港を既に離れジョニー・トーも少なくともノワール分野ではほぼ沈黙してしまった現在、後継者というべき監督もおらず、ソイ・チェンは香港ノワール最期の名匠と言えるかもしれない。それはなにも脚本検閲がどうのとかっていうだけじゃあなく、今の中国は地域格差が大きいといっても全体としてはたいへん豊かで先進的な国になったので、そんな国の観客は持たざる者の抵抗を主たる要素とする香港ノワールみたいな泥臭いやつなんかおそらく求めないだろうと思われるからである。だってあーた日本を見たまえ。かつて映画館でヤクザ映画が年間十数本とかやっていたようなヤクザ映画先進国であったはずの日本も今じゃぜんぜん映画館でヤクザ映画なんてやってないじゃないの。それは暴対法の影響も少なからずあるだろうが、でもたぶんそれ以上に、今の日本の観客はヤクザ映画全盛期(1960~70年代くらい?)の観客に比べて食う物にも住む場所にも困らない程度には豊かになったので、食うもんも住むとこも金を稼ぐ頭もねぇ若もんが最後の砦としてヤクザの門を叩く、というようなヤクザ映画なんか感情移入できるわけがないんである。
『トワイライト・ウォリアーズ』でアクション監督を担当した谷垣健治は監督作『燃えよデブゴン/TOKYO MISSION』が香港で公開された際、現地の批評家に「まるで昔の香港映画を観ているようだった」と良い意味でか悪い意味でかは微妙だが評されたと語っていた。『トワイライト・ウォリアーズ』にもやはり昔の香港映画のニオイがあったように俺は思う。あの過剰さ、あの仁義、あのカッコつけ、あのカッコ悪さ、そしてあの「勝ち目なんかなくたってやってやんよ!」。この映画で九龍城塞に仮託されているのは香港映画の、というよりも香港人の精神なんじゃないだろうか。だからこの映画は切ない。いずれ消えゆくその精神をせめてフィルムに残しておきたいというような香港映画人の意志を感じるのだ。
香港ノワール斜陽の時代に打ち上げられた大花火。映画のラストで夕陽を眺めるアウトサイダーたちの姿には『男たちの挽歌』シリーズ最終作『アゲイン/男たちの挽歌Ⅲ』のラストもダブる(『アゲイン/男たちの挽歌Ⅲ』の原題は『英雄本色Ⅲ 夕陽之歌』という)。ノスタルジックな映画であることは間違いないし、所詮はスラム街の塊に過ぎない九龍城塞をこれは少し美化しすぎだろうと思うのだが、でもここにあるのはノスタルジーだけじゃあないだろう。近年マニエリスム的な画作りを志向するようになったソイ・チェンらしいどこまでも錯綜した画面の迷宮的な面白さ(美術監督マック・コッキョンが最高の仕事)、目につくものはすべて破壊し気功パワーで敵の攻撃を跳ね返すくらいパワフルな集団バトルはやりすぎて笑ってしまうほど、九龍城塞最期の日々を彩る川井憲次の哀愁サウンドもしっとり沁みる。
ギャングが戦ってばかりの映画だがエンドロールに流れるのは九龍城塞で生活している人々の穏やかな日々の営み。そこは野蛮で汚らしく危険で不健康で犯罪的で間違いだらけのおよそ「正しい」場所ではなかったかもしれないが、それでもそこには無数の人生がたしかにあったのだと、そういえばソイ・チェンの『軍鶏』は今は跡形も無くなってしまった新宿コマ劇前広場のどこか地下にあった劇場で、俺以外に誰も客のいない完全貸し切りで観たなとか思い出しながら、しみじみ考えさせられる映画であったねぇ。