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筒井康隆の原作は中学生かそこらの頃におよそ2ページだけ立ち読みしたことがあるがそれにしてもなぜ今になって『敵』を映画化? とか考えていたのだがもしかすると『PERFECT DAYS』へのアンサーという面もほんのちょっと少しぐらいはあったのかもしれない。2ページしか原作を読んでいないので確たることはまったく言えないが、たぶんこれは原作と結構ムードの違う映画のはずである。筒井康隆らしく原作の『敵』は文章遊びが冒頭から見られたが(ということで映画化と聞いた時には「あの原作をどうやって?」と思ったのであった)こちら映画版『敵』はそうしたユーモラスなところや実験的なところはほとんど見られず、代わりに執拗に描写されるのは主人公の独居フランス文学研究者中高年の日常仕草。料理を作り、コーヒー豆を挽き、洗濯をし、お風呂に入り、スパムメールを削除し…といったことが何度も反復される。
『PERFECT DAYS』もそんな映画だったよな。主人公の独居中高年のなんでもない日常描写が延々続く。ただ違うのは『PERFECT DAYS』の独居中高年は人間的な各種の欲望などはとくに持たない一種のフェアリーとして描かれていたのに対し、『敵』の独居中高年は性欲もあれば愚かしさもあり恐怖や迷いも頻繁に感じる生々しい人間として描かれることである。あんたそんな『PERFECT DAYS』みたいな達観した理想オッサンがこの世に存在するわけないじゃないの。フランス文学研究の権威といっても所詮はオッサン、もしかしたら若いチャンネーとデキちゃったりなんかしてとかしょうもない願望を頭の片隅に置きつついい歳こいてエロい夢を見て夢精する(そしてそんな自分が情けなくなる)とかそんなのが現実のオッサンだろうが! と、どうもそんなようなシャウトをこの映画から俺は感じるんである。
独居中高年が下心を見せるバーの若いチャンネーは最近『ナミビアの砂漠』が話題を呼んだ河合優美というのも実に意地が悪くて良い。あくまでも俺の中でということだが河合優美というのは若いチャンネーにチヤホヤされたい下心丸出しの映画中高年が俺はワカモンカルチャーに理解のある素敵なオジサマなのだと必死こいて気取るためだけにこの人はは素晴らしい(あと『ナミビアの砂漠』も)とホントはよくわかってないのに褒める役者さんである。あんたら映画中高年オッサンはこういう人を求めてるわけでしょ? みたいな人選の上に後半のあの展開というのが痛快である。
孤独な独居中高年の現実が妄想に浸食されていく展開はまぁ原作がそれなりに古く1998年出版というのもあって新味なくさほど面白いものでもないが(老いの切実さもあまり感じられないのは監督の吉田大八がまだそこまでの歳じゃないためかもしれない)、ただまぁそういう感じでなんというか観客を殴る映画、『PERFECT DAYS』にウットリし河合優美をベタ褒めし、あと俺がこの映画を観たのはリベラルな気風で知られる渋谷の老舗ミニシアターのユーロスペースでなのだが、そのユーロスペースで上映される作家主義的な単館公開映画の出演率がやたらと高い瀧内公美(主人公の元教え子役)ともしかしたらデキちゃったりなんかしてと映画を見ながらドキドキするような(瀧内公美は最近の日本の女優さんには珍しく濡れ場やヨゴレ役を厭わない人である)とくにオッサン観客をてめぇら夢見てんじゃねぇてめぇらは所詮臭いオッサンだろうが!!! と殴る映画、それが『敵』だったんじゃないかということで、後から観てもそんなに面白くないかもしれませんが、『PERFECT DAYS』と『ナミビアの砂漠』がフィーバーしている今観ると面白い映画だと思います。
※ところで独居文学中高年の現実が妄想に浸食されていく展開にサウンドノベルの名作『街』の1エピソード『シュレディンガーの手』を彷彿とさせられたのだが、街の発売日を調べてみると1998年1月22日、そして『敵』の初版はなんと1998年1月30日とほぼ同期生。面白い偶然もあるものだが、この時代こういう感じの妄想と現実の区別が付かなくなる物語が流行ったということだろう。