都市伝説系田舎こわい映画『嗤う蟲』感想文

《推定睡眠時間:1分》

いわゆるひとつの田舎ホラー、田舎に夢見る都会の夫婦がいざ田舎に移住してみるとそこには…というやつで、都市伝説っぽい展開はあるがスーパーナチュラルなものではなくヒトコワ系、題材的にはちょっと前に日本で公開された『理想郷』というフランス映画と似ている。でも都会から移住してきた夫婦っていうかその夫の側にもそれなりに問題はあるという相対的な視点を持っていた『理想郷』と違ってこちら『嗤う蟲』では1:9ぐらいの比率で田舎民の側が悪いという視点、田舎での陰湿ないじめと被害者が加害者になる展開も含めてそのへん脚本の内藤瑛亮が以前手掛けたいじめホラーの力作『ミスミソウ』を思わせるところで、どちらかといえば人情ドラマを得意とする城定秀夫の映画としてはちょっと異質な感じである。と言ったところで城定秀夫の監督作は100本ぐらいあるのでこれが異質なのかどうか本当はよくわかりませんが。

それにしても最近こういう田舎こわい映画が増えた気がするなぁ。やはりSNSっていうかツイッターの影響であろうか。おそらく人間関係の希薄な都会の人の方が孤独感から人と繋がりたい欲が強いためではないかと思われるが、ツイッターというのは結構都会の人の声が大量のリツイートによってよく通る空間、そして都会の人というのは基本的にリベラルである。自由と個人を称揚するリベラルにとって近隣住民との人間関係に縛られる田舎という場は基本的に悪と映るので、ツイッターが流行れば半ば必然的に田舎は敵視されることになる。

都会のリベラルの方が人と繋がりたい欲が強いというのはちょっと矛盾しているように思えるが、そのへんはエーリッヒ・フロムのナチス論『自由からの逃走』などを参考にすればいいかもしれない。曰く、「人間は個人となると、独りで、外界のすべての恐ろしい圧倒的な面に抵抗するのである。ここに、個性を投げ捨てて外界に完全に没入し、孤独と無力を克服しようとする衝動が生まれる」。リベラリズムが、かえって人間から個性と個人の思考を奪ってしまうという逆説である。昨今ブームの推し活なる没個性化行動もここから説明できるものかもしれない。

『嗤う蟲』において主人公夫婦が田舎移住を決めた理由が明確に語られることはないが、思うにこの二人も都会の孤独に不安やストレスを感じていたんじゃないだろうか。田舎のご近所付き合いとは対照的なのがイラストレーターの妻とその担当編集者の関係である。リモートワーク的なやつで妻は田舎に住みながら都会の編集者と仕事をしているのだが、ある日とくに理由らしい理由も告げずにこの編集者は妻への仕事依頼を止めてしまう。田舎なら一度出来た関係性をそう簡単に切ることはできないが、誰とでも気軽にさまざまな関係を持つことができる代わりに、誰とでも気軽にさまざまな関係を絶つことができるのが都会である。言い換えれば、人間関係の利便性と引き換えに、固定的な人間関係(仕事も含む)を築くことがかなり難しいのが都会なのである。だから都会人は大なり小なり常に不安に苛まれている。

などと考えれば都会も田舎も一長一短、う~む人生なかなかちょうど良い場所って見つからないもんですねぇなのだが、そうした分析があまりされているようには見えず、ほとんど生理的な田舎嫌悪に寄りかかっているのがこの映画だったように思える。田舎こわい映画といってもこれと同じく片岡礼子が出ている『楽園』などは都会と田舎の社会構造の違いとそれに起因する問題をよく分析していたと思うが、『嗤う蟲』では田舎の長所といえば長所の固定された人間関係が、その後に待ち受けるホラーの前振りでしかない。最初はその人間関係が煩わしくも暖かいものと感じられるが実はその裏にはというひっくり返しによって田舎こわいを観客に感じさせるわけである。

もう少し脚本を練っていれば単にそれだけの浅薄な映画とはならなかったかもしれない。というのもこのこわい田舎には数年前に土砂災害により多数の死者が出、その際に村人たちは十分な公的援助を受けることができずに孤立したという悲劇的な設定があるんである。ここには「小さな政府」思想に基づく公助の削減の弊害が見て取れるが、そうであれば問題の根幹は田舎ではなく「小さな政府」と、その恩恵を受ける都市部住民にあると言える。「小さな政府」は国家の役割を縮小させることで市場の拡大と自由な経済活動を促すものだが、そうした条件下では都会に比べて競争力に乏しい田舎はやせ細り、富が都会(のそのまた一部の富裕層)に集中することがデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義 その歴史的展開と現在』などを読めばわかる。つまり「小さな政府」の下で、災害の多い田舎は公助削減によって国から見捨てられつつ、経済的には都会に搾取されるという二重に苦しい状況に置かれるわけである。

イラストレーターの妻が近隣住民と積極的な交流を持とうとしない一方で、田舎を「インスピレーションの宝庫です」と語り、そこで得た様々な風景を都会の出版社へ供給しているという構図は、あたかも都会による田舎の搾取の寓意である。しかしそれ以上は先へ行かない。そこで映画は生理的な田舎こわいに向かってしまって、都会もこわいや、あるいは都会こそが田舎こわいの源泉であるという批評的視座を持つことはない。露悪的というよりも、これは単に思慮が浅いのだと思う。妙に子供っぽいところがユーモラスでありつつ無気味な村の顔役・田口トモロヲの妙演などもあって、決してつまらなくはないけれども。

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