豪腕時間SF映画『ファーストキス 1ST KISS』感想文

《推定睡眠時間:0分》

2025年2月8日現在の日本国内興収ランキングを見るとキムタク主演の人気ドラマ(らしい)の映画版『グランメゾン・パリ』が5位くらいに入っているのだがその監督・塚原あゆ子の最新作がこの映画『ファーストキス 1ST KISS』、なにせ恋愛ものがスーパー強いのが現在の邦画市場であるし『怪物』やら『花束みたいな恋をした』やらが話題を呼んだ人気脚本家・坂元裕二のオリジナル脚本作ということもあり国内興収ランキングのトップを頂くのはほぼ間違いないであろうから、今週の国内興収ランキングには塚原あゆ子監督作が2本も入ることになる。加えて昨年の年間興収ランキングトップ10にも食い込んだメガヒット作『ラストマイル』を手掛けたのも塚原あゆ子ということで、この人はおそらく現在の邦画界においてもっとも稼いでいる映画監督である(映画の監督料は日本の場合固定であることが多いらしいので、こんなにヒットを飛ばしても本人はそこまで稼げていないかもしれないが)

にもかかわらず…映画雑誌とかで気鋭の邦画女性監督特集みたいのをやるとなんかミニシアター向けのアート寄り映画みたいのを撮る人ばかり名前が挙がる。今なら『ナミビアの砂漠』の山中瑶子がその筆頭候補であるが、こういうのはまったく今の日本の映画評論業界のダメなところだと俺は思う。そりゃたしかに売れた映画が必ずしも良い映画とは限らないが、逆もまた然りでそこまで大きくは売れていない映画だからと良い映画とも限らない。ならあえて売れている映画や映画監督を映画ジャーナリズムが評価対象から外す意味はあるのだろうか? 時間切れなので俺が自分で答えを出すとぜんぜん無い。

作家性の強い山中瑶子に比べれば塚原あゆ子は叩き上げの職人監督であり、なるほどその作品には共通したテーマなどはあまり見られないが、それもだからなんなのかと思う。テーマが無いとか言い出したらヒッチコックだって職人監督なんだからテーマはないが、ヒッチコックを映画界の巨匠だと考えない人はおそらく映画評論業界に少ないはずである。ところがこと若手監督となると途端に職人監督が軽視される。そこには自分たちで将来のテンサイ監督を見出して見識の高い我々を気取りたいというチープなスノッブ根性が見え隠れしまくりである。その対象が女性監督という狭いくくりならば、女性監督らしいテーマや表現(はたしてそんなものが存在するのでしょうか?)を持たない監督を自分たちは評価しませんという、単に女の人であるというだけの映画監督をわざわざ「女性監督」としてのみ扱おうとする無邪気な差別意識もまたダダ漏れである。

こんなどうしようもない頭の悪い連中が意識の高いリベラルな人々としてのさばっていやがるのが本邦の映画評論業界というわけで…まぁそんな呪詛を書いてたらいつまでも終わらないから今日はこのぐらいにしといてやるか! そんなことよりも『ファーストキス』である。坂元裕二の初かもしれないSFもの。夫を事故で亡くして喪失感を埋められない日々を送っていた妻がある日とつぜんタイムスリップ、辿り着いたのは15年前の夫と初めて出会った日であった。タイムスリップは案外簡単にできることがわかったが戻れるのはその一日だけ。この日の夫をどうにかこうにかすることで15年後の事故死を避けられたりなんかしちゃったりしないだろうか…ということで健気な妻のトライ&エラーが始まるのであった。

ま要は『バタフライ・エフェクト』ですねと言ってしまえば身も蓋もないのだが、こちらは『バタフライ・エフェクト』のようなサスペンスではなくコメディ色が強いので、わりと気楽な感じでガハガハ笑いながら妻の奮闘っぷりを楽しめる。塚原あゆ子は2018年の『コーヒーが冷めないうちに』で時間SFをやっていてこれはあまり面白い映画ではなかったが、しかしその経験に学んだか今回は違う。時に何を言っているかわからないほど食い気味の台詞の応酬に細かく割ったカット尻の短いショットを小気味よく繋ぐ編集、明確な人物描写や説明を極力減らした画作りによってとくに序盤は怒濤の勢いで映画が進む、とそのへんは『ラストマイル』でも見られた塚原豪腕演出であり、邦画の恋愛映画にありがちな湿っぽさやまどろっこしさが無いのがたいへん良い。

時間SFといってもそこは坂元裕二脚本なのであくまでも本領は日常描写や会話にあり、タイムスリップの理屈が雑とか夫の死を回避する方法なんか探せばもっとあるだろとかSF的には結構詰めが甘い感じなのだが、ロバート・F・ヤングの時間SF名編『たんぽぽ娘』を思わせる展開にスライドしていくのは悪くないし、タイムスリップの理屈が雑とか文句を言い出したらまぁSF映画界には古い写真を見てたらいつの間にか過去に戻っちゃったというタイムスリップに理屈もなんもない『ある日どこかで』があるので…となる。だからそれはいいのだが、ちょっとどうかと思ったのは最終的に難病映画的な着地点に落ち着いてしまうところ。せっかく時間SFなのに肝心なところを難病映画と同じにしてどうするのか。SF展開とラブストーリーを両立させる方法なんかいくらでもあるんだからそこはもう一工夫を…と思うがでもまぁそんなのこういう恋愛題材のメジャー邦画を観る人なんか誰も気にしないのか。逆にSFと難病がセット見られてラッキー泣けた! ぐらいな感じかもしれない。

それにしても思うのは、松たか子演じる妻は劇中年齢45歳、その年齢にしては落ち着きが無く言動が幼い。犬が嫌いで子供には当たりが強く家では独り言を言いがちとか夫を亡くしてからの日々が描かれる序盤で見せる中年独身女のリアリティはなかなかのものがあるのだが、じゃああの精神年齢の低さもリアルなのだろうか。松村北斗演じる夫はそんな子供っぽい妻を受け入れ包み込む人として描かれ、15年前の夫と現在の妻が対等に会話をするシーンからは、この夫が妻にとって夫と父親を兼ねるような存在であることがうかがえる。そう頭に入れてこの物語を、とくにその終盤を捉え直すと、これはなんというか、自立できず精神的に成熟できない中年独身女のドリームストーリーの趣があり、ややキツイ感じである。考えてみたまえ。45歳の大人になれない中年独身男が15年前の元カノに会いに行くSF映画があったら、まず第一印象は切ないとか泣けるとかではなく「キツイ!」であろう(※主演がイケメンの場合を除きます)

そのキツさを、しかし極力抑えてアップテンポで突っ走る。そこらへんが塚原あゆ子の巧いところってわけで、まなんだかんだ面白いSF映画でしたわね。環境音や効果音を一般的な映画よりも少し前に出して積極的に台詞に被せる音響設計もひそかに見物、というか聴き物(これもハイテンションを維持するための演出なのかもしれない)

Subscribe
Notify of
guest

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments