人類史逆再生映画『聖なるイチジクの種』感想文

《推定睡眠時間:5分》

とても面白い映画だったとまずは書いておくがそれにしても、日本で上映されるイラン映画としては比較的公開規模が大きいこともあり、また女性に対する抑圧がテーマになっていることもあってか、普段あまりイラン映画を観ないかもしれない人たちも関心を持って観に行ったりしてくれているようで、ハリウッド映画とか日本映画とかだけじゃなくてもっといろんな国の映画がもっとカジュアルに日本の人に観られるようになればよいと思っている俺としては喜ばしいことなのだが、その副作用というか、それによって日本の一般的な人がいかにアメリカ、多少広げてもせいぜいイギリスとかフランスとか韓国あたりの国しか知らないか、それ以外の国にはぜんぜん興味がないかということがネットでこの映画の感想なんか見ていると露わになっていて、ちょっとげんなりさせられてしまった。

俺にしてもイランという国をよく知っているとはまったく言えないのだが(行ったこともないし)、なにせイランといったらキアロスタミ以来長らく中東の映画大国として日本の映画ファンには知られてきた国なので、よくわからん異郷という感じでもない。イランは国土的には日本の2倍くらい、ということで結構大きい。経済規模では2023年の名目GDPがIMF統計で4015億USドルで国際順位41位…ってどれぐらいなのかそう言われても掴みにくいが、中東で言えばサウジアラビア、UAEに次ぐ第3位であり、未申告の核開発に伴う欧米による経済制裁以前には国際順位16位にまで順位を上げたこともあった。産油国なので現在は制裁下で苦慮しているとはいえ経済基盤は安定してる豊かでよく発展した国なわけである。

現在のイランは正式名称をイラン・イスラム共和国といい、イスラム国家であるから宗教指導者としてハメネイ師が最高権力を握っているが、共和国なのでそれとは別に民主主義選挙で選ばれる大統領もいる。現在の大統領は昨年就任したマスード・ペゼシュキアンという人で、この人は保守派・反米強硬派のハメネイ師に対して改革路線。といっても最高指導者ハメネイ師の意向には背けないので内政面(後述)は改革路線でも外交的には基本的に従来の姿勢を踏襲しているらしい。

中東においてイランを特徴づけるのは良くも悪くも強硬な反米・反イスラエル姿勢といえる。イラン・イスラム共和国は1979年のイスラム革命によってそれまでの親米政権が転覆したことで誕生したので当然といえば当然であり、ロシアや中国といった現在の欧米諸国がアメリカを筆頭として敵対視している国々と同盟関係を結んでいたり、パレスチナのハマスを含む反米・反イスラエル武装勢力を支援していたりする。

親米路線のサウジや中立というかあんま関わりたくない路線のUAEに対してイランはアメリカに物言う中東の大国であり、そのために海外のニュースは基本的にアメリカやイギリスから発信されたものに頼りがちな日本の人の目から見れば、あまり良い国という風には映らないだろう。ちなみにイランはイスラエルを国家として承認していない=パレスチナの不当占拠という立場を取っている国でもある(なのでイスラエルとイランの間には散発的な武力衝突がよく起きる)

ということでがんばって読んでいただいた方にはなんとなく伝わったかと思うが、イランは中東のなんかわからん未発達で野蛮なテロ国家とかでは別にない。この映画『聖なるイチジクの種』で描かれる2022年の大規模デモに対応してWhatsApp(ロシアとか中国とか要する東側諸国で一般的に使われてるLINEと同じようなやつ)やInstagramが遮断されるということもあったが、それは裏を返せばそれだけネットやスマホが普及しているということでもあり、このSNS遮断も2022年のデモの際の警察対応を問題視しヒジャブの着用や警察の暴力などに関する改革を公約に掲げた現職のペゼシュキアン大統領が解除したらしい。

反体制活動家を収監したり時には不透明な裁判で死刑判決を出すとあらば「なんと野蛮な!」とやはりなるかもしれないが、個人的には活動家の言論の自由は最大限認められるべきだし死刑なんかは廃止すべきと思うものの、それはあくまでも俺の考える理想であって、人類社会に普遍的なルールとするのは論理的に難しい(それができてれば世界中の国がそうしてるだろう)

結局のところ社会をどのように設計するかというのはその社会で生きる人たちが自分たちで自分たちが生きやすいように作り上げていくしかない。その中で個人の活動の自由をどれだけ認めるかというのはぶっちゃけ程度問題であって、大なり小なり国家というのは暴力(軍隊や警察)を独占して国民の自由を制限することに変わりはないのだし、イランでイスラム法に縛られて生きるのも、それよりも表面的には自由なアメリカでイランではする必要がないような銃犯罪の不安に縛られて生きるのも、本質的には違いがないんである。

と前置きが相当に長くなりましたが『聖なるイチジクの種』、再び言うが面白かった! 革命裁判所で検事として働くオッサン(詳しくは知らないが検察と裁判所がそれぞれ独立している欧米のシステムとはまた違うらしい)を主人公に、ヒジャブ未着用のかどで道徳警察に捕まってのち死亡したマフサ・アミニに端を発する2022年の全国的な大規模反体制デモの影響が上から下へとトリクルダウン、首都テヘランに住む裕福な主人公一家にとって遠い対岸の出来事のようであった反体制デモが、この家族にのっぴきならない影響を与えていくサマを描くスリリングな家族ドラマがこの映画であるというわけで、その面白さを理解するために上の長い長い前置きが必要となったのであった。こんなもんはイランを中東のよくわからん野蛮国家と思ってる人が観ても面白いわけない。

この映画はなによりまず構成が見事であった。序盤は大規模デモとそれに対する国家の弾圧の余波がじわじわと主人公一家を変貌させていく過程をサスペンスタッチで描き、中盤では主人公が護身用に渡された銃が紛失して犯人捜しのミステリー、そして終盤は一家の崩壊を家庭崩壊映画といえばな『シャイニング』のオマージュも交えて描くホラーと化す。イチジクの種一粒で三度おいしいので160分の長尺が気にならないという仕掛けだが、これが単に観客を飽きさせないための仕掛けではなくテーマの表現にもなっているあたりが実に巧いと思う。

序盤は大都会テヘランで展開されるこの映画、中盤以降は田舎の家へと舞台を移し、最終的に古代遺跡がクライマックスの場となる。この場所移動に随伴して仲良し家族にはヒビが入り最後は迷宮じみた古代遺跡で家族みんなバラバラになってしまうのである。これは明確に悲劇である。女性解放のポジティブ一辺倒な映画だと思ってる人はなんもわかってないし画面のなんもちゃんと観てない。そうではなく、ここでは国家と市民の双方一歩も引かない対立とその行きつく果ての不毛が、一組の平和な家族の崩壊過程として表現されているんである。

革命裁判所勤務という自分の仕事を保安上の理由から長年娘たちに隠してきた(=嘘をついてきた)主人公はやがてデモの影響で「嘘をつく権利」を行使するようになった娘たちと対立する。主人公だけが銃を持っているのは国家による暴力の独占の縮小版だ。だからこの銃の紛失で主人公は追い込まれていく。家族の誰かが銃を持っているかもしれない…それはこの家族の全員がデモ後に平等になったことを示すと同時に、主人公が抑圧すると同時に保護することで成り立ってきた家族の平和がもはや成立しないことを意味する。国家の崩壊というデモを受けての体制側の不安が、家族の崩壊の不安として主人公に転写されているんである。

皮肉が効いていて面白かったのは銃を奪った人物がYouTubeで英語の銃マニュアル動画を見て銃の使い方を学ぶところ。イランという国の立ち位置を考えればこれは明らかに二重性を持った表現だ。一面では(アメリカでそうであるように)銃が自由と抵抗の象徴としてポジティブに機能する。しかしもう一面ではアメリカからネットを介してイランに入ってくる暴力の象徴として、ネガティブに機能する。そしてこの二重の意味を帯びた銃の存在によって、家族は都会から田舎へ、田舎から遺跡へ、国家が暴力を独占する秩序から「万人の万人に対する闘争」の混沌へと人類の進歩の逆を辿ることとなるのだ。

ラストシークエンスともなるともはや台詞らしい台詞もない。銃を持った家族がどこがどうなってんだかわからん遺跡を獣のような恐怖と怒りに駆られてバラバラに迷走する。最初はあれほど都会的で洗練されていた家族がついに神話の世界に入ってしまった。その抽象性とシュールな虚無感はまるで復讐サスペンスの必見名作『眼には眼を』。これは復讐は何もマジで生まないということをおそろしい映像と救いのない展開で脳天に叩きこんでくる逆に超道徳的な教育映画だが、だとすれば『聖なるイチジクの種』も教科書として観ることができるだろう。

何が間違っていたか。おそらく銃の所持が間違っていた。銃は、暴力は、誰も所持すべきではなかった。銃による支配は銃による抵抗として返ってくる。抵抗の道具として銃が正当化されれば支配の道具としての銃もまた正当化される。それがどんな結果をもたらすかは言うまでもない。これはきわめて精巧な暴力についての寓話である。う~ん、傑作。

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