眠って平和映画『Underground アンダーグラウンド』感想文

《推定睡眠時間:45分》

これの公開に合わせて監督・小田香のレトロスペクティブをやってたので観たことのなかった短編を何本か観てみたらそれが俺にとっては結構意外なことに小田香が喋りまくり画面に出まくり家族とかも出てくるエッセイ映画なんかだったりした。これもそうなのだが過去に観たことのある『鉱 ARAGANE』と『セノーテ』という小田香の長編ドキュメンタリーはストーリーはもとより説明やナレーションなどもほぼほぼ無く、また被写体はどこだかよくわからない異様な地下空間なので、観客はその得体のしれない映像空間にダイブして感覚で映画を浴びるしかない、というようなもの。というわけでへぇ小田香にこんな饒舌な一面があったんだなぁと思わされたんである。

そんな体験を経て観る『Underground アンダーグラウンド』はなんだか腑に落ちる感があった。日本各地の様々な地下空間にカメラが潜ってその壁に別の映像を投射し異空間にしてしまう、といういささか過剰な創作性だけではなく、その地下映像とはほとんど接点なく地上に暮らす女の人の朝の風景を一応のドラマパートとして加えたことで、昼の世界と夜の世界というような対比が生まれ、それが小田香の語りを廃した映像至上主義と、それとは逆のすべてをさらけ出し語りつくそうとする饒舌という2面性を如実に現しているように思えたんである。

しかし…ぶっちゃけそんな物のわかったようでなんもわかってない分析もどきなどこの映画には不要だろう。そもそも俺には分析できるだけの材料がない。だって寝ながら観てたからどこまでが映画でどこまでが夢なのか判然としないので。『鉱』や『セノーテ』は凶暴なノイズやカオティックなカメラワークがわけはわからないが気分をアゲてくれるアッパー系の映像ドラッグの如しであったが、それと比べれば今回はダウナー系の映像ドラッグ、観客を包み込むような環境音とさまざまな静寂のイメージに身を浸していれば睡眠はおそらく不可避である。

でもそれできっとよい。地下は人間に距離を見失わせるが(壁にプロジェクションしてるので余計にそうである)距離を見失わせるのは夢だって同じである。地上で起きているときには人間は個人がみんな別々バラバラだが、地下の暗闇で寝ているときには個人の輪郭は融解して、他者と、そして世界とぐちゃぐちゃに混ざってしまう。それが小田香の意図することかはともかくも、俺が小田香の映画に強く惹かれる理由はそこにある。小田香のパワフルで詩的なドキュメンタリーを観ていると、なんだか自分がどんどん世界に開かれていくように感じるのだ。地上の光の下では孤立した固体の身体が、あの暗闇の中では越境し変容する。そんな体験は日常の中でなかなかできるものではない。

だから俺としてはみんなも大いに寝たらよいとおもう。むしろ観ながら寝ないとこの映画の真価はわからない説まである(ない)。眠りによって観客は自身の日常性を超えていくが、観客を睡眠に誘うことで映画も映画自身を超えていく。そのような境地に至った監督といえばロシアの二大巨匠アレクサンドル・ソクーロフとアンドレイ・タルコフスキーである。映像の質感からいえば『Underground』はタルコフスキーの『ノスタルジア』と似ていたかもしれない。そして『ノスタルジア』もまた、どうやっても睡眠不可避な居眠り映画の傑作であった。

タルコフスキーは作品に込めた意図がわかりにくい監督だが、ソクーロフの方はもう少しわかりやすく、『精神の声』では戦争の野蛮に抗するものとして眠りや夢が導入されていた。理性が地上の資本主義システムを乗り回して貧富の格差を増大させながら国と国、人と人、わたしとあなたを分断して戦争という狂気を招く結果となっている昨今である。そんな世の中であればこそ、眠らなければならない。眠るために地下に潜らなければならない。『Underground』は理性に狂った世界を変えるための旅なのだ!

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