貧乏人ってこうだよね映画『ANORA アノーラ』感想文

《推定睡眠時間:0分》

今年のアカデミー作品賞はこれだそうなのだが(その前にカンヌの最高賞パルムドールも受賞済み)インターネットでいろんな人の感想を見ていたら「なんでこれがアカデミー賞?」とか書かれているのがいくつかあって、その人たちがアカデミー賞をどういう賞だと思っているか知らないしたぶん俺が言うような理由ではないのだが、たしかに「なんでアカデミー賞?」と言えなくもない映画が『アノーラ』だったのでなんかちょっと面白かった。

なぜといえばこの映画、当たり前のことしかやっていないから。たとえば主人公はストリッパーである。アメリカのストリッパーを知らない人は(俺とてもよくは知らないが…)ストリッパーを裸で踊るだけの人だと思っているかもしれないが、良くも悪くも日本のように風俗産業が発達していないアメリカではストリッパーが風俗嬢も兼ねていることが多く、そのためストリップバーにはスペシャルサービス用の個室というものが備え付けられているのが一般的らしい。だから映画が始まるとサービス中のストリッパーたちの裸・裸・裸、セックス・セックス・セックスである。そのため日本ではR18指定となっているが、当たり前なのである。アメリカのストリッパーが主人公の映画なのだから裸とセックスが日常的に出てくるのは当たり前なのだ。

またたとえば、この映画には様々な属性の人間が登場するが、そのほとんどすべてが一面的には描かれておらず、明確な善悪というものがない。アメリカ滞在中のロシアの大富豪のボンボン息子に結婚を申し込まれた化粧を落とすと篠原涼子に似てるストリッパー(マイキー・マディソン)が大富豪の圧力で結婚を反故にされそうになりなんとしてでもボンボン息子と結婚しようと奔走する…とでもあらすじを書けばなんと可哀相なストリッパーと思われるかもしれないが、そんな風に自分を必要とする人にこれまで出会ったことがなかった的な喜びが結婚を受諾した理由の半分ぐらいはあるかもしれないとしても、もう半分はロシアの大富豪の妻になれば玉の輿どころじゃないアメリカンドリームな超ハイパー金持ち生活しまくりじゃんな打算である。かなり安かったが結婚の解消のために手切れ金もちゃんともらったので、主人公さえも憐れむべき被害者というわけでも無垢な善人というわけでもない。例のロシアの大富豪のボンボン息子にしたって要するに年齢不相応に幼稚すぎるダメ人間というだけであって、別に悪人としては描かれていないのだ(大富豪の息子という立場にもそれはそれでプレッシャーとかあるんだろう)

当たり前である。人間は誰でも良いところと悪いところのハイブリットで、そのどちらか一方しか持ち合わせていないなんて人は現実にはいないし、その良いところや悪いところというのも、人や状況によってどう受け止めるかは変わってくるのだから、100%の善人もいなければ100%の悪人も存在しない。これは当たり前の現実なのである。当たり前なのだが…ハリウッドという夢王国ではこれが当たり前ではないのであった。深い深いと言われることもあるが最近のアメコミ映画でもこの単純な人間観は結局変わっていない(悪いヤツに見えた人が実はイイ人だった! という逆転は100%の悪から100%の善へと反転しただけで、本質は同じである)。現実では善が悪に完全勝利することはないが(そもそも善悪の境は現実ではほとんど画定不可能なのだし)、ハリウッド映画の象徴たるアメコミ映画では100%の善人が100%の悪人に必ず勝つという非現実的な勧善懲悪が今日もまた飽きもせずに繰り返されているんである。

現実をそのまま描くのだったら映画にする必要ないじゃんと言われればそれもそうなのでハリウッド映画がこうした夢物語であることも一概に悪いとは言えないが、俺はこれをツイッターの負の遺産だと思っているが、困ったことにハリウッド映画の人間観と勧善懲悪を現実世界では実現されていないだけの「本当のリアル」なのだと、あたかもグノーシス主義者たちのように考えてしまっている人が、あぁ昨今はなんと多いことだろう。今や、現実世界の当たり前が当たり前に通用しない。100%の善人も悪人もいないんですよ、善の完全勝利はあり得ないんですよという現実が、現実として認識されておらず、ハリウッド映画の世界こそが現実の「当たり前」なのだと集団狂気のように妄想されるまでになったのである。

当たり前を当たり前に描くことは今のハリウッドでなんと難しいことだろう。実際この映画はいわゆるハリウッド映画ではなく監督ショーン・ベイカーのこれまでの作品と同様にハリウッド外の独立プロダクションで製作された低予算のインディペンデント映画である(だから通行規制とかしないゲリラ撮影が多用されている)。そう考えれば『アノーラ』の当たり前のなんと愛おしいことか。凡庸な欠点を持った貧乏人たちが凡庸な金持ちの周囲で勝手に怒って怯えて傷ついて右往左往する愚かしさを捉えるカメラの優しいことか。この映画にはハリウッド映画の夢世界から追い出されたリアルな人々が息づいている。そのつまらなさ、その汚らしさ、その浅はかさ、その痛ましさ、その親しみやすさ、そしてその楽しさ。

俺はショーン・ベイカーをアメリカの森崎東と呼んで憚らないが、『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』などなど森崎の庶民喜劇と同様にこちらも薄汚い庶民どもの大騒ぎに大笑い。主人公が大富豪の下働きと共に失踪したボンボン息子を探すあたりはベイカーの『タンジェリン』も彷彿とさせてバカな青春映画のようでもあった。でもその笑いってのはこれまた森崎の庶民喜劇と同様に持たざる者の哀しさから来るものなんですな。所詮は学歴のない貧乏人だからスマートには振る舞えなくて、そんなことしなきゃいいのにと思うような無謀行為を平気でしてしまう。その情けなさを知っているからこの映画はまるで自分ごとのように笑える。バカだなこいつらと笑いながら、観客は自分のダメさに苦笑いしているのだ。そんなことはなかった、ちっとも笑えなかったという人はきっと恵まれているのであろう…。

持たざる者はまたやたらと攻撃的である。飢えた動物が攻撃的になるのと同じで、社会の底に追いやられた資本主義の敗者たちは、これ以上奪われまいとして自然と他者に対する敵意をその身に纏うようになる。ショーン・ベイカーの映画に出てくる貧乏主人公たち(※たぶん全員体を売って日銭稼いでる)はだいたいアグレッシブだが、それはこの人たちが苛烈な資本主義社会の中で搾取され困窮しているためなのである。『アノーラ』の主人公の暴走機関車っぷりは超笑えるが、これをパワフルなウーマンが男たちに負けじと戦う痛快映画だと仮に見ている人がいるならば、俺に言わせればその人はなにもわかっていないと思う(そういう人はきっと恵まれて以下略)

だから、主人公が武装解除するラストはしっとりと沁みる。他人は(とくに男は)敵だと思っていた。世界は金とセックスとハンバーガーだけで出来ていて、その奪い合いが人生なのだと思っていた主人公が、おそらく大人になってからは初めてそうではないことを知って、その攻撃性の下に隠した痛みをさらけ出すこの場面のなんとも言えない切なさと暖かさ。これは当たり前だろうか。当たり前であってほしいと俺は思うのだが、そうではないから立派な映画賞を貰えたのだとすれば、なんともホロ苦い後味を残す『アノーラ』である。

※ところでこの映画と同じ空気感を持っていたと感じるのがマーティン・スコセッシがハリウッドの人気監督に昇格する直前に撮った『アリスの恋』という映画で、これもまた貧乏なそこらへんのアメリカ女性を主人公にしたビターだがたくさん笑えて最後はホロッとさせられる実によい庶民喜劇。オススメしとこう。

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