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今もっともSNSでアツい海外の映画は某アメリカ大将でも某アカデミー受賞作でもなくこの『教皇選挙』なるまったく地味なタイトルと題材を持つ映画というのが映画関連のポストを日常的に漁っている俺の実感(※客観性なし)だったのでえっなんでこれが…と不思議に思っていたが売れる映画には売れるだけの理由というのがやはりあるのだなぁというのがとりあえず観ての感想で具体的に言えばこの渋そうなタイトルと題材に反して『教皇選挙』、たいへんわかりやすい映画だったんである。
ローマ教皇(ちなみにだがほんの十年くらい前までは法王と呼ぶのが一般的だったが最近は教皇呼びがメジャーらしい)が死んだからカトリックの総本山バチカンで教皇選挙が行われることになりというあらすじを読めばこれは選挙の話だろう、選挙の話となれば各々の思惑などが入り乱れてしかも宗教が絡んでくるから複雑怪奇な山崎豊子的世界が展開されるのだろう、なんか知らんが『白い巨塔』みたいな…とか思うわけであるが、実はこれはあんまそういう話ではない。たしかに表面的にはそういうような描写が続くのだが、ストーリー的には教皇選挙の進行係となった主人公の主席枢機卿レイフ・ファインズが探偵役となって、密室で何日間も続く次期教皇選挙戦の中で次々と有力候補の黒い秘密を暴露していくというクローズド・サークル・ミステリーの変種なのである。
だから一見すれば複雑と見えて複雑な人間関係はここにはない。悪いヤツは明確に悪いヤツと描写されるし(顔も悪い顔をしているわかりやすさである)、それさえ見逃す粗忽な観客であっても悪いヤツがどう悪いか全部レイフ・ファインズが台詞で説明してくれる上、台詞をろくに聞いていなくてもレイフ・ファインズが主人公にして正義の探偵だからレイフ・ファインズが怒ったりなんかしてる相手がいればそいつが悪いヤツと判断すればOK。映画館で観る場合には台所はないと思われるが、ネット配信が開始して家で観られるようになったら洗い物とかしながら台詞だけ聞いてれば観られるという実に新設設計の映画なのである(その際には日本語吹き替え版を推奨しますが)
ということで観ながら思ったのはなんかNetflixの海外ドラマとかでこういうのありそうということだった。レイフ・ファインズが毎回一人の秘密を暴いて全十話とかのドラマにしても全然通用してしまうのが『教皇選挙』なのである。画作り的にもとくにこだわりや芸術性を感じさせるところはなく、その映像はいかに観客にストーリーを理解させるかを最優先に設計されているように見えるのだが、そうしたリーダビリティの高さは映画に比べて相対的に視聴者の集中力が持続しないテレビドラマ(配信ドラマ)の一つの特徴だ。
ためしにちょっと見比べてみてもらえばわかると思うが一般的なテレビドラマは日本だろうがどこの国だろうが映画に比べて説明台詞が多く、またそれ自体はストーリー展開に関係しない余白のショットがほとんどないので、カメラは場所を説明するごく短い実景ショットなどを除けばほとんどすべてのシーンで役者の姿を撮っている。対して映画の場合は、まぁ映画の種類にもよるのだが、ストーリー展開にはあまり関係しないイメージ的なショットやシーンの余白も監督の裁量で入りがちなのである。それ即ち作家性や芸術性、と言い換えてもまぁそれほど誤解は生まないだろう。
だから、大抵の海外ドラマが記憶にどれぐらい残るかはわからないがとりあえず観てる間は面白いように、この映画もまた観てる間は面白いのだが、後に残る何かがあるかといったら少なくとも俺の場合はなにもない。それほど起用ではない職人監督が原作ものの仕事を万人受けするようにソツなくこなした、とそんな印象である。なのでこの映画はカトリック文化がそれほどない日本でも面白いと評判になってるかなと思う。それで思い出したがその昔、ダウンタウンの芸能人格付けチェックみたいな感じの番組で、『幸福の鐘』などで知られる映画監督のSABUと森三中の黒沢が撮った短い映画を名前を伏せて一般の人に見せて「どちらがプロの映画監督の撮ったものだと思いますか?」というアンケートを取ったら、黒沢の撮った映画の方に多く票が入ってしまった、という笑い話があった。
これどういうことかと言いますとSABUは手持ちカメラの荒々しい映像を得意とする作家性の強めな監督なので、そういう面白い映像に比べて森三中・黒沢の撮ったフィックスの凡庸な、でもわかりやすい構図の映像の方が、普通の人からしたら「映画」らしく見えた、ということなのですが、それと同じようなことが『教皇選挙』という映画にも言えるんじゃないかと思う。とにかくこれは最大公約数的にわかりやすい映画なので、それで多くの人が面白いと感じてSNSなどで評判となってるんじゃないだろうか(映画オタクの考える「面白い映画」と普通の人の考える「面白い映画」は別であると痛感させられる)
ただ少し興味深く感じられたのはこの映画が基本的にプロテスタント的な視点からカトリックを捉えていたところで、制作国を見ればアメリカ/イギリス、いずれもプロテスタントを国教とする国である。主人公レイフ・ファインズがシャーロック・ホームズの如く理性の光でカトリック教会の暗部を明かしていく展開自体カトリック批判的なのだが、ダメ押し的にこの主人公が「私は神に仕えているのであって教会に仕えているのではない!」と言うシーンまである。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、こうしたプロテスタントからのカトリックのヒエラルキー批判はキリスト教に個人主義をもたらし、それが資本主義の基盤を形成する一つの力となったという。
誰かがこれはカトリック版の『半沢直樹』だみたいなことを言っていたが、なるほどたしかにそういうところあるなと膝を打ってしまった。もっとも単純な形に抽象化すれば、この映画で語られる物語というのは古い体制を新世代の人間が打ち倒すというきわめて資本主義的・個人主義的・そしてアメリカ的な物語であり、その殺伐とした光景はアメリカ型の資本主義格差社会の中で生きる我々にはたいへんお馴染みのものである。それもまたこの映画が日本で大衆支持を集めた理由ではないだろうか。古い体制をバッタバッタと打ち倒していく主人公を見ながら、観客は心の中で無意識的に「倍返しだ!」とでも叫んでいるのかもしれない。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には忘れがたい箇所がある。たしかルターと並んでプロテスタンティズムに大きな影響を与えたカルヴァンの思想を分析するくだりだったと思うが、カトリック教会にはたとえ腐敗していたとしても聖職者にも信者にも人と人の横の繋がりがあったのだが、カルヴァン派ともなるとこのような繋がりはもはや見られない。教会を廃した人と神の直接的な繋がりを希求するプロテスタントは本質的に利己的・自己中心的であり、カルヴァン主義者のバニヤンによる『天路歴程』には、神に見出されたと霊感を得た男が家族を捨ててただ自分一人だけが救われるために巡礼の旅に出る場面が描かれているという(カルヴァン派では誰が救われて誰が地獄に堕ちるかその人間が生まれたときにもう決まってしまっているので、救われない人に優しくしたりしても無駄と考えたらしい)
プロテスタント精神は古い体制を攻撃することで非合理的な悪しき慣習の改革を迫る。しかしそれは同時に、体制の内外にあった人と人の繋がりを、そしてその中で実現されていた小さな救いを破壊することでもあった。『教皇選挙』のラストは一方では改革成功のハッピーエンドと見えるかもしないのだが、しかしまた一方では、それまで横の繋がりを持っていた教会内外の人々がそれぞれ他人に打ち明けられない秘密を秘めた競争的な個人として分断される、バッドエンドでもあるかもしれない。
プロテスタント的な急進的な組織改革派は政治経済の分野に置かれれば新自由主義と呼ばれる。これは現在の自民党やアメリカ共和党の党是であり、みんな福祉とかには頼らず自分の力だけで経済競争をがんばってお金儲けをしてください、競争とお金儲けのための規制緩和はAIだろうが医薬品だろうがなんだろうがバンバンやって我々は市場任せでなーんもしない小さな政府になりますから、という要は資本主義が世の中の問題を全部解決するに違いないという思想だが、ヴェーバーが100年も前に(その時代に新自由主義という言葉はないが)喝破したように、そうした社会形態の駆動力となるのが他人と繋がれずに孤独の中で自分たちだけの救済と成功をひたすら希求する、生真面目で厳格な人々なのである。
※後日教えてもらいましたが芸能人格付けチェックでどっちがプロの映画監督が撮った映像でしょうクイズをやらされてたのは素人ではなく芸能人だったとのこと。