相米慎二の『お引越し』と『夏の庭』がリバイバル上映されるそうで結構なことなんですが、およそ15年前から俺は思い続けてるんですが石井隆が世の中に再評価されるのはいったいいつなんですか…?
— にわか(β版)『居眠り映画館 B級映画編 2015〜2019』発売中 (@niwaka-movie.com) 2024年12月13日 19:05
相米も良いが相米相米言うなら石井隆と池田敏春も再評価リバイバルしてくれやとわりあい誇張ではなく毎日思ってるんですが相米はポップな感じで売れるが石井隆と池田敏春はポップな感じで売れない、この点が相米と石井隆&池田敏春の間の最高度に大きなハードルとなっているんである。なんかオシャレな感じのイメージを打ち出さないと今の人はみんな観に来てくれないので…!
— にわか(β版)『居眠り映画館 B級映画編 2015〜2019』発売中 (@niwaka-movie.com) 2025年1月13日 15:31
それでも池田敏春は『人魚伝説』でオシャレ売りのワンチャンあるけど(海がキレイだから)石井隆はないから…『死んでもいい』は?『死んでもいい』はオシャレだと騙しましょうよみんなで…若者たちを…
— にわか(β版)『居眠り映画館 B級映画編 2015〜2019』発売中 (@niwaka-movie.com) 2025年1月13日 15:36
こういうことを事ある毎に言っているbotの俺なのでついに、ついに石井隆の特集上映が決定ということで感無量である。そりゃたしかに名画座の特集上映とかなら石井隆映画は頻繁でもないけど珍しくもない。けどそういうところで上映しても石井隆をもう知ってて更に言えば石井隆が好きな人しか観に来ないじゃないですか、基本は。でも今回は名画座の企画じゃなくて新作も上映する一般のミニシアターでの全国規模の上映。ということは石井隆の映画を観たことが無い人もかなり観に来てくれて石井隆を再発見してくれるかもしれない。ついに日本と世界が石井隆に追いついた!
いや、はやる気持ちを抑えよう。俺は知ってる。たとえ石井隆映画のリバイバル上映が全国のミニシアターでされたところで、今の観客の多くはそのじっとりと暗い作品を好まないだろうし、なにせ石井隆が作家のテーマとしていた性愛なんてのは今の日本の若者層には(石井隆の活躍した時代に比べ)忌避感が強いから、その面でも石井隆映画は今の観客にあまり歓迎されないだろう。今回のリバイバルで石井隆の再評価がまったく進まない、ということはないにしても、これを機に石井隆が本当に立派な映画監督だったんだと一般的な映画好きの人たちに認知されるなんて夢物語に過ぎない。夢を見ると夢に破れたときがつらいから、そんなことはありえないと自分に言い聞かせることにしよう。
さて石井隆がどういう監督でどういう映画を撮っていたか。そのへんは既に多く語られているし、さまざまな映画ニュースサイトに掲載されている告知文にも少し書いてあるから、知らない人は没後3年、石井隆監督特集上映開催 「死んでもいい」「ヌードの夜」「夜がまた来る」「天使のはらわた 赤い閃光」- 映画.comなどの記事を読んでみてほしい(作品紹介とか上映館情報もあるし)
俺なりに言えば、石井隆は現代の邦画業界でもっとも真面目で、孤独で、そして優しかった監督である。人に対してもそうだったかもしれないが、なによりも映画に対して、そしてその映画のほとんどすべてで描かれる、女の人や性的少数者の人に対して。こういう色付けはともすればこれから新しく石井隆の映画を観ようとする人を遠ざけてしまうかもしれないけれども、石井隆が現代日本映画界でもっとも真剣に(少なくとも男の人としては)、自分自身と常に格闘しながらフェミニズムや性的少数者のテーマと向き合っていたことは俺の目からすれば疑いない。それは以下の作品解題を読んでもらえればわかると思うし、なによりも映画でもいいし劇画でもいいが、石井隆の作品をちゃんと観ればわかる。
俺が石井隆の再評価を切に望んでいるのはこのためである。かつて石井隆はエロ劇画の人として見られていたし、映画監督としては日活ロマンポルノほぼ最後の作品『天使のはらわた 赤い眩暈』からキャリアを始めているから、そのパブリックイメージはなによりもまずエロであった。かつて俺は銀座の映画館で石井隆の映画を観ていた時に隣に座ってるジジィが「さっさと濡れ場やれよ」と言っているのを聞いたことがある。その後、石井隆は『月下の蘭』『GONIN』を撮ってハードボイルド、もしくはノワール映画の監督としても認識されることになる。『GONIN』は怪優揃いのキャスティングによる話題性もあってかヒットしたが、しかし幸か不幸か、こうしたキャリアは結果的に芸術家としての石井隆の評判を下げることになってしまったようだった。
エロとノワールの人という認識が、石井隆作品の本質であるフェミニズム的な思索を、男性中心と考えられる観客の目に見えなくして、同時に女性客はおそらく遠ざけてしまったのだ。だからその本質が露わになる『フリーズ・ミー』以降の作品の一般的評価はどれも低い。石井隆はもともと五人の女の映画を撮ろうと『GONIN』の企画を出したのだが、それでは売れないと男五人の映画が作られ、石井隆が元々作りたかった女五人を描いた『GONIN2』は前作ほどの商業的成功を収めることはできなかった、というのはこうした見解の傍証になるエピソードだろう(ちなみに石井隆は三人姉妹とかの家の末っ子。『GONIN』の男たちがみな暗いのに対して『GONIN2』の女たちは明るいが、これは女家族で育った経験が反映されているのだろう)
今ではフェミニズムや性的少数者の痛みなどはポピュラーな話題であり、映画の題材としても珍しくない。しかし石井隆が活動した時代は決してそうではなかった、とまで言えば過言の歴史捏造になってしまうだろうが、石井隆ほどの深度と熱意でもってそうした事柄を思考した日本の男性芸術家となれば、やはり他にはいなかったのではないかと思う。そしてそれはおそらく今も変わらない。誰もが気軽に語れるようになったはいいが、だからといってそのことについて深く、身を切るように思考をする人が増えたわけでもないように思うのである。
とまぁ長くなったがだいたいそんなわけで今こそ石井隆映画を、なのである。俺は石井隆についてはあちこちに書き散らしているのだが、それをかき集めて今回の特集上映「石井隆Returns」(ちなみにこの企画名は石井隆の劇画単行本『名美Returns』をもじったものだろう。この本には石井隆自選の劇画だけでなく、つげ義春との対談や『死んでもいい』のシナリオも掲載されているので、ファンならマスト)で上映される四作品のレビューらしきものをまとめたので、興味があればどうぞ。「石井隆Returns」は2025年6月6日から。発表されている上映館は現在のところシネマート新宿、池袋HUMAXシネマズですが今後増える予定。詳しくは公式サイトをごらんください(見たけどまだ何もなかったけどね)
※レビューは過去に書いたもののかき集めなので文章の温度感にずいぶん差がある点ご了承しろ。あと俺による俺のための石井隆論に「母に捧げるノワール -新たなる石井隆像に向けて-」というものがあるので、そちらもマニアックな人はどうぞ。
『死んでもいい』(1992)
個人的に石井隆の最高傑作だと思ってる映画。大竹しのぶが名美ですよ大竹しのぶが。あれだよ俺はほら石井劇画の名美のイメージないですからへぇって思うだけですがなんで大竹しのぶが名美やねんっていう人多いんじゃないすか。あの、ふわった感じの…キョドった感じの…ボソった感じの…誰もをイラつかせて憚らない大竹しのぶが! でもこれは大竹しのぶで超良かったよなと思うのであって隙あり大竹しのぶの弱さ人妻生活感こそこのメソメソしいメロドラマに必要だったんじゃないのというところ。『花と蛇』(2003)の杉本彩はこれが好き過ぎて石井隆に裸とSM撮らせたらしいが杉本彩の『死んでもいい』を想像すると悶絶できておもしろいです。
だいたいタイトルバックからして素晴らしく突然の通り雨、そして大竹しのぶと永瀬正敏の視線が交差し二人が運命の出会いを果たしたその瞬間を何度もスローで反復しつつの「死んでも」…「いい」。完璧に演歌スタイリッシュでヤラれてしまう。どこぞの若造に長年連れ添った妻を奪われる室田日出男の入魂哀愁パフォーマンスに泣きつつ大竹しのぶの自然体優柔不断にもムカつきながら泣く。喘息発作を堪えつつ死を賭して大竹しのぶを求める永瀬正敏の青臭さにも泣くがそれをほら溝口健二が好きな石井隆らしい長回し多用のやわらか佐々木原撮影でジックリシットリやりますから汚いと思うね。
タイトルにも拘る石井隆なので『死んでもいい』はたぶんダブルミーニングじゃないかと思われ、大竹しのぶと結ばれたら死んでもいいよな冒頭の永瀬正敏の青臭心境でもありもう何も怖くはないから死んでもいいやなラストの大竹しのぶの覚悟も意味すんじゃなかろか。冒頭にさりげなく配置された永瀬正敏の幼少期の母の記憶とか桟橋で家族の喪失を語る大竹しのぶとか。なにやら失われゆくもののイメージが充満しちあきなおみ『黄昏のビギン』がカーラジオから流れベッドに横たわる大竹しのぶがミレーのオフィーリアを思わせ、とこれは永瀬正敏と大竹しのぶ、ほんでダンナの室田日出男が喪失の恐怖に駆られて互いに食い合うというつまりはタイトル通りに死ぬことについての映画であった。
男どもが相変わらず死を恐れ続けるのに対して自ら死を受け入れ深淵の底まで堕ちきることで失われた母として再生する(または失敗して死ぬ)のが大竹しのぶで石井隆が描き続けるヒロインなんじゃなかろかというわけで、母のイメージは近作で表面化したりしてるが、そのあたり『死んでもいい』で石井隆はなにかに到達した気もする。つまりこれは冒頭のシーンで主人公の永瀬正敏が「母を求めて彷徨う子ども」であることが明示されるように(あれは永瀬の夢と現実を一画面で収めた場面です)「母と子」の物語であり、それがオイディプス的な近親相姦と父殺しの物語に発展していく、という神話的構造を持った作品なのです。
そしてそこからは母親を母親ではなく一人の女性、生きた人間として捉え直そうとする石井隆の意図が見えてくる。子どもは母親を母親としてしか見ない。母親は子どものために大なり小なり自分を犠牲にする。そのことに対する罪悪感。贖罪の意識。この頃たしか石井隆の母親が寝たきりになって、石井隆は後年その介護を妻(名美のモデル)に頼ってしまったことに対する後悔をインタビューで述べている。母と妻、二人の女性に対するごめんなさいの気持ちがこの映画には泣けるほど切実にある。だからこの映画の中の名美は永瀬の恋人であり母でもある存在として描かれる。そして、母と妻という役割からの解放、生まれ直しがあの凄絶なラストで描かれるのです。
佐々木原保志の情感溢れる長回し(桟橋のシーンの美しいこと!)、永瀬・大竹・室田の演技巧者による三者三様の芝居、そしてちあきなおみの歌う『黄昏のビギン』。時代を超える名作だと思う。
『ヌードの夜』(1993)
石井隆の代名詞である村木と名美もので何でも屋の村木が竹中直人、そのワケあり依頼人の名美が余貴美子というだけでも確実に強いがバブル崩れのクズ男が根津甚八、その子飼いの狂犬が椎名桔平、ヤクザ情婦の怒れるオカマバーの人が田口トモロウの最強布陣にスカウター壊れる。『死んでもいい』のブンガク隆から一転のノワール隆。ぶつぶつボヤき続ける竹中直人のツイ廃っぷり余貴美子の泣き虫悪女っぷり椎名桔平の情緒不安定かつ犬には優しいっぷりなどなどがネオンと土砂降りの雨の中に炸裂です。
短い中にその後の出来事の予兆を詰め込んだ密度ミチミチのタイトルバックだった『死んでもいい』ですがこのフラクタル的というかマンダラ的というかあるいは円環的とでも言うべきかな構造はこちらも健在らしいので竹中直人の廃墟じみた事務所を佐々木原カメラが漂うオープニングに事の顛末は既に描かれており、外は雨、無人の室内に竹中直人の留守録メッセージが空しくこだまするというわけであぁもう絶対悲しい結末しかないじゃんこれみたいになる。
ほんでまたこの事務所は東南アジアの出稼ぎ女のタコ部屋だったと後々で竹中直人が語るのですが、場、あるいは場の記憶というものが結局はすべてなのだと言っているような気もしなくもない。その置かれた状況と背景に写るものがキャラクターの運命を決定付けてしまう。雨が降れば必然的に男女が出会う。潰れかけ閑散高級クラブを背負って現れる男は抵抗空しく死んでいく。たった一人廃墟で暮らす村木は決して孤独から抜け出すことが叶わないのだと言えば、石井映画は情の映画なのだ的な向きもあるが愛もなければ情もない冷徹な相貌が露わになるんじゃなかろか。
果たして劇画作家の経歴がそうさせるのかどうかは知らないが同様にしていかに物語の歪みが副作用的に生じようがスタイルを優先させるのはスタイルこそ物語を作るのだというのが石井隆の作劇だからだろうと思われる。脚本の柱に「○ヤクザ事務所(雨)」とでも書いてネオンでも吊り下げておけばそれだけでどんな突飛な悲劇が起ころうが説明はついてるだろみたいな。たっぷり間をとったお馴染みのフラット長回しというのもここでは芝居を追うというより廃墟事務所に歌舞伎町にうらぶれ埠頭にと場を記録し続け、何が起ころうがそのスタイルを崩すことはないのだった。
石井映画は場とスタイルの映画である、という意味でその様式美というか構造主義的アプローチ(?)が舌足らずに荒唐無稽でいまにも分解してしまいそうな物語をムードありありに繋ぎ止める『ヌードの夜』はなんや石井美学の結晶のよな映画に思われる。ちなみに、この場に染み付いた記憶への偏執は遺作となった『GONIN サーガ』(2015)でオペラ座の怪人的佐藤浩市として鮮烈に再生される。
『夜がまた来る』(1994)
実は実は石井映画で一番好きかもしれないのは『死んでもいい』でも『ヌードの夜』でもなくタイトルもポスターも超カッチョイイこれの可能性が60%ぐらいの確率で存在し、演歌スタイリッシュなノワールアクション、バイオレンス隆のド定番として石井ワールドに登記されたビル屋上での最終決戦では不敵な笑みを浮かべながらヒロイン夏川結衣に迫る日本刀所持のラスボス寺田農にカメラがグーっとトラックアップ、やめろ近づくなと銃を向ける夏川結衣にも確かグーっとトラックアップ、このタメこのケレンこの劇画感覚これこれこれだよこれ! これ!
潜入捜査官の夫を潜入先のヤクザに殺された夏川結衣! 復讐を誓った彼女は自ら組に潜入を果たすがあえなく失敗シャブ堕ち夜堕ち! あぁ私の人生これで終わるのか…いや終わらない! 根津甚八の男気に救われ共に打倒ヤクザに立ち上がるのだった! 夜がまた来る! というわけで珍しく間隙少量筋肉質のジェットコースター展開かつ流暢な語り口で魅せる。それまでどよどよ沈んでいた石井組の安川午朗サウンドも今回は情熱カスタネットで攻めます。タッタッタッタタッタッタタ! 『ヌードの夜』では吠えるだけ吠えて噛まない狂子犬だった椎名桔平も立派に狂成犬化し噛みまくり。寺田農の老獪が心身ともに夏川結衣を犯せば未明の薄暮にハトも舞うってなもんである。ブ、『ブレードランナー』(1982)みたい!
シャブくれよぉと裸で大絶叫の夏川結衣を根津甚八が月光を浴びながら熱血シャブ抜き。そこ美しかったですねたまらんすね埃なんかキラキラ舞っちゃってねこのお耽美ねこのお高揚感ね! さぁかかってこい腐れヤクザども! 月に代わってお仕置きだ!
『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)
なかなか鑑賞機会のない石井隆映画なので十何年か前に観たはずなのだが見直すこともできず内容をほとんど忘れていた。ビデオに関する映画に相応しく今回ようやくレンタルビデオで再見したら前に見た時よりも遥かに面白く、名美の過去と現在の名美を襲う奇妙な殺人事件が交わりそうで交わらない脚本は一見あまり出来が良いようには思えないが、それはおそらくこの映画が石井隆にとってミステリーというよりもベルイマン『ペルソナ』的な、多少の神話性を織り交ぜた前衛劇だからだろうと思う。
ここで扱われている諸テーマはその後いくつかの作品で個別に再検討されることになる。レイプ被害とその報復は『フリーズ・ミー』で、狂える母とおぞましき父の板挟みになる娘は『愛は惜しみなく奪う』で、フィクションと記憶の混淆と決定不可能なリアルは『人が人を愛することのどうしようもなさ』で、男の侵入によって断ち切られる母と娘の親密な関係とそのトラウマ的体験の修復は『甘い鞭』で。レイプ被害の告発とその男目線の「ファンタジー」の強い否定は従来からのものだが、後の作品では『愛は惜しみなく奪う』や『フィギュアなあなた』に受け継がれる。
逆に、リファレンスとしてはブライアン・デ・パルマ作品や『サイコ』、ダリオ・アルジェントのジャッロ作、それに『ペルソナ』などが考えられるが、これらはいずれも分裂した自我や人間の多面性を描いたもので、ジャンル映画の意匠を借りて名美の、というよりも男社会の中ではさまざまな顔と意識を使い分けざるを得ない女のアイデンティティの混乱を描き出そうとしたのがこの映画のように思える。その意味ではデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』や『インランド・エンパイア』とも一脈相通ずるものがあるんじゃないだろうか。
まんまる童顔の川上麻衣子の名美起用は確信犯的なものだろう。この名美は赤ん坊の雰囲気をまとうが、『死んでもいい』で大竹しのぶが演じた名美は母の雰囲気で、名美が娘でも母でもそして妻でもある存在として石井隆が捉えていたことがこうしたキャスティングからは窺える。だから、速水典子演じるバーのママ・ちひろと名美のセックスは、単なるエロ見せ場なんかではないのだ。いやエロいのは確かだが、あのシーンはレイプ被害に遭いながらもレイプAVのスチルを撮るような自我の分裂を経験している名美が、そこに父が介入する以前の母娘の親密な関係を仮想的に取り戻すことで、自我の統一を回復するというシーンなのである。
二人でいる間だけ、名美とちひろは自我の引き裂かれを修復することができる。けれどもそれは昏睡レイプ常習犯の男によって永遠に失われてしまう。名美と村木が結ばれるようで結ばれないラストは、それが合意こそあれ母と娘の絆を切り裂く父の介入の再演でしかないことを石井隆が知っているからだ。名美が殺人の共犯者としての自分をビデオで見るのは、彼女とひとつでありたいと望むからだ。この映画の名美とちひろのラブシーンは、すべての石井隆映画のラブシーンの中でもっとも美しいと俺は思う。