なんや最近日本でも流行ってるらしいミシェル・ウエルベック、『素粒子』(2006)の映画版しか観たコトないが、早いハナシ「セックスとか面倒くさくね?」であった。
それはいいが、ウエルベックゆーとスキャンダラス(露悪的とも言う)な作家であり、件の映画のパンフレットでも映画評論家の柳下毅一郎さんが「原作読んでココ数十年で一番重要なヨーロッパの小説だと思った!」と激賞である。
セックスが面倒くさいなんて当たり前じゃないか。そんなハナシのどこが衝撃か。
ハナっから縁の無い童貞はそう思うが、しかし『午後3時の女たち』みたいの観るとなんとなく衝撃の理由が分かる気もすんのだった。
あらすじ
カネはあるが、セックスレスだし同じ毎日の繰り返し。
タイクツな専業主婦生活に嫌気の差していたキャスリン・ハーンは、友人の勧めでダンナと訪れたストリップ・クラブでストリッパーのジュノー・テンプルと出会う。
19歳のストリッパー? しかも身体も売ってるの? え、でもってホームレス? なんてこった、助けなきゃ!
…と暇を持て余した専業主婦らしい意識の高さを発揮したハーンは早速テンプルを家に住まわせる。
かくして単調だった毎日が刺激と冒険いっぱいに…なるハズだったが…。
不倫とセックスの映画なのかコレは?
『午後3時の女たち』とは誰かとゆーと、子供を預けてやるコトないからと午後はジム行ったりカフェ行ったりしてるママ友たちなのだ。
セックスレスのハーンはやる気のない精神分析医に打ち明ける。
「夜はダンナとセックスする気がしない。そうだな、午後3時過ぎならムラムラきちゃうんだけど…」
気だるい午後はアソコが疼く! モテない男どものミジメな幻想かと思われた“昼下がりの団地妻”は、ココにその存在が実証された次第である!(映画だけど)
映画はそーゆー風にして始まるので、とにかくセックスレスをなんとかしようとゆーコトになる。
しかし次第に分かってくんのは、この人の問題はセックスだけじゃないなとゆーコトなのだった。
ハーンはかつてジャーナリスト志望だったが(元から意識高かったのだ)、就職した広告代理店のクソみたいな仕事に幻滅。
ダンナとの結婚を期に寿退社で専業主婦と相成ったが、待っていたのは意識低い系のママ友と暇潰すだけのツマンネェ日々。
ちょっと待てよ、私、ジャーナリストになりたかったんじゃないの?
世界の真実を世間に伝えて、なんなら世の中をもっと良くしちゃうみたいな、そんなサイコーに刺激的でやりがいに溢れた仕事するんじゃなかったの?
いいのかよ? こんな人生で、いいのかよ!
…とゆー不満が夜の営みの拒絶やテンプルを招き入れるコトによる日常破壊、そして彼女の更生とゆー意識の高い行動にハーンを駆り立ててんのだった。
(最後までソレを見抜けない精神分析医は無能である)
んなワケでコレ中年の危機系の映画、『アメリカン・ビューティー』(1999)とか『リトル・チルドレン』(2006)みたいなあの系統なのだった。
『リトル・チルドレン』か…チルドレンゆーと、『午後3時の女たち』のハーンはなんかお嬢様系の女子高生みたいである。
クラブでストリップしてるテンプルに年齢尋ね、「19歳」との答えに大仰天。プライベートで再会した時には「店では年齢ごまかしてるの」と言われ、これまた大仰天。
イイ歳こいてそんなの当たり前の事実にすら衝撃を受ける程度にこの人は世間を知らないお嬢様なんである。
ストリッパー兼コールガールとして高給を稼いでるテンプルを一方的に「可哀想な人」と見下し、彼女の証言を記録したブログで一儲け&売名&世直ししてやろうと安易極まるコト考え(ジャーナリスト志望のくせにクリスチーネ・Fも知らんのか?)、ママ友の前で自分がいかに淫乱な女であるか見せつけようと強がるあたり、この人のお嬢様っぷりは結構なモノ。
お嬢様だからこそ「ジャーナリストになって世界を変える!」なんて大それたコトのうのうと考えたんだろか。
社会に出るや現実の厳しさ汚さに打ちのめされてすぐ挫折しちゃったんだろか。
だとしたら、精神的な幼さが彼女の抱える問題の根幹を成してるんじゃないか?
ついでに言えば、ダンナはダンナでカミさんも子供も顧みないで友達と遊んでばっかいるガキかつオタクっぽいダメな人である(但し仕事はデキる)
精神的に幼い人同士が勢いに任せて結婚なんぞしたところで基本ハッピーにはならない、とゆーコトをよく教えてくれる映画なんである。
全ての道はセックスに通ず(こっからネタバレ)
はてさて、んな幼稚な主婦(とダンナ)がどーなるか。
再び登場のダメな精神分析医が、泣きながらハーンに言う。
「家庭は尊いの!」
別にアドバイスとかじゃなくて自分が恋人と別れちゃったコトが悲しくて泣いてるだけだったが(なんてダメな精神分析医なんだ!)、スッカリほだされたハーンはテンプルによって破壊されてしまった家庭とママ友たちの薄い友情を取り戻そうとする。
別居したダンナとヨリを戻して、心の底では見下していたハズのママ友ともヨリを戻して、結局は更生させられなかったし理解するコトも友達になるコトもできなかったテンプルを追い出して…するとどうだろう、なんとダンナとサイコーに気持ち良いセックスが出来たではないか!
童貞には計り知れぬが、痴話喧嘩の後のセックスは超燃えると言う。雨降ってチン硬くなる、とゆー諺もある。
こうしてセックスレスが解消され、メデタシメデタシ…なのであった。
…なんか何も解決してない気がするが、いやお前ら一ヶ月も経ったらどうせまた飽きてセックスレスになるってと思うが、良いセックスできたからそれでいいんだろう。
童貞には計り知れぬが、セックスとはそれほど価値のあるモノなのだ!
このあたり、欧米社会におけるセックスのクビキの強さを感じさせ、愛とかなんとかゆーてるが、そんなの結局はセックスの問題だろと言われてる気分。
冒頭のハナシに戻ればウエルベックの『素粒子』がかくもスキャンダラスであり得たとゆーのも、なるほど、かようにセックスが全てな価値観の下じゃ当然なんかなぁと童貞に思わせてくれる、そんな映画が『午後3時の女たち』なんであった。
オモロイ映画だったんじゃないすかね
なんやわーわーゆーてますが、でもコレ結構面白い映画だったな。
キャスリン・ハーンのお嬢チャマ演技なんか良くてさ、酒に酔ってママ友に自身の性体験吐きつけるシーンあんだけど、ココなんか迫真の強がり感。
ハリウッド女優さんたちがあけすけにハリウッドや女優業、人生を語るインタビュー映画『デブラ・ウィンガーを探して』(2002)なんてあったが、さながらその一幕を連想させられてまった演技とは思えぬぶっちゃけ芝居。
ダブついた下腹部も惜しまず曝け出し、キュートでありつつコミカルで醜悪、ガキなアラフォー女を超リアルに演じてて、いやはや全く素晴しいなこの人は!
ハーンの家に転がり込んでくるジュノー・テンプルはバービー人形みたいな人で、ハーンの隣に並んだ時の好対照っぷり、コレなんかオモロイな。
ゆーてもドキュメンタリー的な撮り方してる映画なんで等身大のストリッパー娼婦。
コケティッシュが魅力的に感じられないあたり、最後までなに考えてんだか分かんないあたり、逆に娼婦のリアルな気がして面白かったぞ。
リアルリアルゆーてるが、要するに『セックス・アンド・ザ・シティ』(1998)とか『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)みたいな「素顔の私たち」映画でもある。
そう考えっとアレだな、ハーンもテンプルもハーンのダンナもなんも変わらないし成長しないが、気持ち良いセックスできたから万事オッケー! とゆー身も蓋もない展開も確かにリアルなんだろな。
結局、人は容易に変われない。
だったら変化なんか諦めて、ダンナと楽しくセックスした方がいいじゃんよ。
それはそれで、ある種の人たちの共感を呼ぶのかもしんないなぁ。
(文・さわだきんたま)
【ママー!これ買ってー!】
女たちだけじゃなくて男たちの午後3時も描いた辛辣な悲喜劇。
コチラは『午後3時の女たち』とは対照的に「なんで俺(私)たちは変われないんだ! なんでいつまでもガキなんだ!」と悩みまくるキツくて身につまされまくる映画だったりするが、ボカァやっぱこーゆー映画のが好きなのだ。
もうちょっとエロいほうがいいよ
女性目線の「私たちの素顔」系映画だから全然エロくないんすよね。
ジュノー・テンプルだってもっとエロく撮れるのに全然やんない。