《推定睡眠時間:0分》
こんな人を知ってる。佐藤健みたいにイケメンじゃないが映画と猫とアンティークが好きでママと仲良しな一方パパとの関係はぎこちない。内向的で自分から話を切り出したりあまりできず話せるような話題も特にない。なんとなく南米とヒッピー的な人に憧れがある。
健くんのお部屋には枕元に演劇論・映画論の本が数冊あって壁にはチャップリン『ライムライト』(1926)のポスターが張ってあるが、その人の部屋にもちゃんと映画論演劇論が並びチャップリンのポスターが張ってあんである。ちなみに健くんのマイベストムービーは『メトロポリス』(1952)ですがその人も『メトロポリス』大好きです。
…なんだその薄っぺらいテンプレ的スノッブ学生シネフィルは。童貞だろう、お前絶対童貞だろう! と言いたいところではあるが健くんには宮崎あおいとゆー恋人がおりそしてその人にもやはり宮崎あおいとまでは言わないが森ガール系の恋人がいるのだった。
予告編を見ると若いチャンネーがわんわん泣いている。演出だろと笑う人もいるかもしんないが、違います。こんな何の面白味もない腐れ草食系シネフィルがモテるわけねーだろ映画の嘘だろと憤る人、違います。
これは現実である。大事なことだからもっかい言う。これは、日本のひとつの現実である。
各位気をつけられたし。『世界から猫が消えたなら』を受け入れられない人は周囲の人間からたぶん「あの人拗らせてるな…」と思われている。特にこれを見てふざけんなと怒るクソ映画マニアは確実に周囲からウザがられている。
え、俺? いやぁ…面白かったね『世界から猫が消えたなら』! あはは!
モテたいんだよ俺は!(こんなクドクド言ってる時点でモテない)
観てない人向け短め感想
しかし『世界から猫が消えたなら』と言いつつ別に猫映画じゃないのだった。てっきりダメなボクサーが猫に癒される映画かと思って観に行ったが勘違いで、それは『猫なんかよんでもこない』(2015)とゆー別の映画。
こちらセカネコは冴えない郵便配達員の佐藤健くんがある日突然に脳腫瘍発覚、更には死神を名乗るドッペルゲンガーにお前明日死ぬよと言われ、死にたくなければ毎日一個ずつモノの概念を消せと取引を持ちかけられる。で、死にたくない健くんは死神に言われるがままに世界から電話とか映画とか猫とかを消してくとそんなお話。最近は猫映画多すぎてどれがどれだか分からなくなる。
アレだね、電話が消えたら世界はどんな風になるだろう? 映画が消えたら? 時計が消えたら? 猫が消えたら? おもしろいな、ドッペルゲンガーがはい消去の時間ですと言うと世界から電話が溶けて跡形もなくなったり電話ボックスが爆発したりする。
ははは、いやそのファンタジックな光景いいね。『アメリ』(2001)みたい。電話が消えたら世界の形はどう変わるみたいなSF展開は少しもないんでSFっぽいの期待すると肩透かしかもしんないが、代わりにモノの概念が消えるたびに健くんはかけがえのない思い出を取り戻してく。
普段あんま意識しないけど電話も映画も猫もかけがいのないモノなんだなぁ。ボクらはそれで色んな人と繋がってる。うーん、ちょっと泣けるな。
しかしよくデザインされてる。オープニングもカッコイイし一つ一つの画がとてもキレイ。スノッブ系のファッション&ライフスタイル誌(penとかな)に載ってそう。
小樽でロケ敢行。名画座、時計屋、非チェーンのビデオ屋と時代の流れに取り残された風景が郷愁を誘う。それに留まらずアルゼンチンとイグアスの滝にも行ってるので大いに観光気分が味わえて癒されます。
映画は観光。『ナイアガラ』(1953)とか『これがシネラマだ』(1952)みたいにナイアガラの滝が大画面いっぱいに広がるとこが見せ場の映画も幾多あったわけですから、イグアスの滝に行く『世界から猫が消えたなら』は超王道正統派のマイナスイオン満載観光映画なのです。猫と宮崎あおいまで付いてきて癒し効果完璧!
健くんがドッペルゲンガーと一人二役。二人の遭遇シーンで見せる健くんの大ビックリ演技、出川さん並に上手すぎて爆笑。ヴァンダムは二人いたら闘うしかないのですが健くんは二人いても別に闘いません。受けの健と攻めの健、二つの健の絡み合いは目の保養(腐った方は自制していただきたい)
しかしええなこの街。郵便配達が健くんてだけで羨ましいのに名画座に行けば受付が宮崎あおい、時計屋に行けば職人が奥田瑛二、ビデオ屋では濱田岳と石井杏奈が働いてる。
いずれ劣らぬ地方ロケ系映画の雄が揃い踏み。そしてみんな面白い! 会うたびにむかしのオモシロ映画DVD貸してくれてアレコレ解説してくれるシネフィル濱田岳のいるビデオ屋さんなんて行ってみたいよね!
ん? キモイ映画オタクの声が聞こえるぞ? なになに…「そんな都合の良い世界があるか! わがままが過ぎるよ色んな意味で! それにストーリーメチャクチャだよ! イグアスの滝に行く意味なんて全然無いよ! 宮崎あおいが一人でもぎりとフィルムの映写係兼任してんのはおかしいし…それにだいたいあんま猫が出てこないじゃないか!」
うるさい! 貴様のよーな輩がこの美しい世界を汚すんだ! 猫は消えないでいいから貴様が消えてしまえ世界から!
…でも猫もっと出てこいよとは俺も思ったけどね!
もう観ていてかつとても暇でひねくれた面倒くさい人向け超長文感想(含ネタバレ)
これはでも面白かったな、いやほんとほんと。なんか物凄い主観的な映画で。誰の主観かって草食系若年映画オタクの主観。そんな人のこんな世界だったらいいなっていう妄想の映画じゃんすか。
だってこれ健くんが家で『メトロポリス』見てたら宮崎あおいから間違い電話がかかってきて「あ、すいません間違え…その音、もしかして今ラングの『メトロポリス』観てます? 私も好きなんです!」って仲良くなって結果付き合うからね。オタクの妄想でしかないよ!
健くんの家には『ライムライト』のポスターが張ってあるが宮崎あおいの名画座では『ファイトクラブ』(1999)と『花とアリス』(2004)二本立て、濱田岳のビデオ屋には『パリ、テキサス』(1984)のポスターがある。誰が作った映画か知らんがお前絶対タマフルとか聞いてるしミシェル・ゴンドリーとか『500日のサマー』(2009)大好きだろ、と思ってたら本当にビデオ屋のシーンで『500日のサマー』のパッケージが出てきてしまった…。
日課は汚いビデオ屋通い。一人で好きな映画を見てたら同じ趣味の女と偶然知り合って逆ナンされた。『トゥルー・ロマンス』(1993)ですが、そんなボンクラ妄想を素敵なこと、そしてこれ見よがしの映画オマージュ・引用をカッコイイことと世界中の映画オタクに錯覚させてしまったタランティーノの罪はあまりに重い。
ところで『ファイトクラブ』が引用されるが、分身映画として考えるとこれは色々と考えさせられるもんがあるんじゃなかろか。
誰だかエラそな人が芸術作品におけるドッペルゲンガーモチーフの源泉は影であると言っていた。当たり前な気もするが、目にすると死ぬと言われるよーに死をイメージさせる不吉なものとしてのドッペルゲンガーはかつて魂と同一視される人影であり、むしろ魂の不滅と永遠の生を保証するものであった(とその人は言う)
人類史にあっても個人の精神史にあってもやがてこのよーな空想的なイメージは捨てられてしまうが、それが後にキリスト教によって貶められ悪鬼とされてしまった土着の神々のよーに負の属性を帯びて回帰してきたものがドッペルゲンガーなのだとそんな話らしい。
ドッペルゲンガーを含む“無気味なもの”を精神分析的に読み解いた小論『無気味なもの』で、フロイトはこれに付け加える形でドッペルゲンガーに小児的・アニミズム的な全能性を見る。はてそう考えると作り手が意識してかせずかは知らんが健くんが身に迫った死を恐れると同時にドッペルゲンガーが現れる展開が自然と了解できるし、ドッペルゲンガーがあれこれと子供みたいに世界からモノの概念を消してってしまうのもなるほどとなる。
しかし面白いのは健くんがドッペルゲンガーとどう接するかの方なんじゃなかろかと思う。分身映画のド定番『プラーグの大学生』(1913)はもとより少なくとも西洋の分身映画の大多数はドッペルゲンガーないしは分裂した自我の片割れと本体が対立することになるわけで、バリエーションは数限りなくあっても分身の解消がお話の中での中心課題となるのはまず変わらない。
分身の本体たる主人公が異性と性的な関係を結ぶことを邪魔するパターンも典型らしいが、最近では『複製された男』(2013)なんて主人公がドッペルゲンガーと入れ替わってセックスしまくりたいなみたいな映画もあった。
多く、ドッペルゲンガーは性が絡む。カラミが絡む。更に絡めて『ファイトクラブ』を町山智浩さんは主体性と自由意志についての映画と解釈するが、現代の分身には自由意志も託されてるのかもしんないなぁと雑に指摘したのはやはりフロイトなのだった。ここでは男性性と自由意志が結びついている(町山さんも基本その認識である)
…とこのよーな紋切り解釈はしかし健くんとドッペルゲンガーの関係にあってはなんの役にも立たんレベルで当てはまらないのだった。健くんはドッペルゲンガーに逆らえずにただその言いなりになってしまい、最後は俺に大事なことを教えてくれてありがとうドッペルゲンガーと仲良くお別れ。宮崎あおいとの恋路を邪魔するとかそんなんあるわけでもないし健くんの密かな願望を叶えてくれるとかその突飛な行いを通して健くんを主体性とか自由意志に目覚めさせるとかそーゆー感じの皆無。
だいたい健くんはそもそもドッペルゲンガーがドッペルゲンガーだと気付いてさえいない。どう見ても自分自身でしかないのにその事実が分からないってのはどーゆーことなんだ…!
なんだろな、分身を分身と理解しない人間はそらドッペルゲンガーを無気味に思ったりしないだろうし、こいつなんとかしなきゃ俺の存在が危ないみたいな西洋ドッペルゲンガーものの物語上の課題は前提からして崩れてしまう。
この映画だけの特殊事情じゃないのと言っちゃえばそれまでな気もするが、日本の文脈ではもう一人の俺私が問題にならないんじゃないかとも思えてくる。いまだ日本人の近代的自我は確立されておらんのだと言う人もいるようですが…。
ところでドッペルゲンガーが消したはずのモノはドッペルゲンガーがどっか(海?)に帰っちゃうといつの間にか全部戻ってくる。
ドッペルゲンガーが消したモノ、電話は元恋人の宮崎あおいとの思い出に、映画は唯一の友人濱田岳との思い出に、時計は父親の奥田瑛二との思い出に、ほんで猫は亡き母親との思い出に対応。概念そのものが時空から消えるのでこーゆーのが消えると思い出と一緒に関係も消えてしまう。
健くんは他は消せたが母親の思い出と関係に結びついた猫だけは消せなかった。それだけはやめて下さい、俺は死んでもいいですから…そこで健くんはドッペルゲンガーがドッペルゲンガーであったことにようやく気付く。
よく男尊女卑だこれじゃ後進国だと言われるが、他方で日本は大きな権力を持つ母を基盤とする社会構造なのだと言う人もまたよくいる。ドッペルゲンガーが最後に思い出させるのは母親の思い出であり健くんが消せないのも母親の思い出であるなら、これは西洋的なもんとは別のなにか母性を帯びたもんなんじゃないかと思う。
ママはもう一人の俺、俺はもう一人のママ。なんだか最近そんな感じの恐ろしい恐ろしい洋画があったが(ネタバレになると困るからタイトルを言えない)、そちらのあんしんパパならぬ分身ママは黄泉の国でゾンビとなったイザナミの如しおぞましきママなのだった。洋画のママは腐っていく。
はて妄想の中で世界から猫を消すことを拒絶したので健くんは死を受け入れなきゃいけなくなる。しかし健くんはもう死が怖くない。なんでかと言えば色んな思い出を通して自分のちっぽけな存在も無意味ではないし、たとえ死んでも宮崎あおいや濱田岳の思い出の中で生き続けると感じたから。
死んだママだって俺の中で生きている。魂は死なない。それを健くんのドッペルゲンガーは教えてくれる。仮に不滅の魂の担い手がドッペルゲンガーの本来の姿だとするなら『世界から猫が消えたなら』の中に素材そのまま生の味をお楽しみ下さい状態で生きてたんである。
ガラパゴスなのかこれは。なにかドッペルゲンガーの原種が絶滅を免れた特殊な環境でもあるのかここには。
そのあたり知らんが、しかしそこでふとフェミ系思想家のクリステヴァが言っていたことを思い出した。この人のなんとなくの日本の雑感は偏見もいいとこだが『世界から猫が消えたなら』を観てから考えると何か示唆するところがあるよーに思えんのだ。
「私の注意を引いたことはただひとつ、神社の中央にいつも置いてあり見ることができない物について人が言ったことでした。それは鏡でした…鏡を夢見るナルシス、でも鏡は隠されているからナルシスには見えないというわけです。これこそもっとも退行的だという意味でもっとも基礎的な宗教のひとつが立脚するものですから…」
(文・さわだきんたま)
【ママー!これ買ってー!】
俺たち以外のみんな消えちゃえ! ってダメな大人が魔人ブウみたいに言ってみたら本当に消えちゃってとても困る映画。
これを日本でリメイクしたらどうなんだろなってのはちょっと気になったりする。
こんばんは。
ツタヤの「最後の一本探し」に涙し、全然猫映画ちゃうやんけ!と憤ったわたくしは、1と2どちらの感想を読んだら良いでしょうか?
どちらがいいかは分かりませんが2の方は猫とか関係ないです。っていうか内容ともあんま関係ないです。