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『アメリカ帝国の滅亡』(1986)という映画もありますが、実はアメリカにも皇帝がいたらしく。その人物の名はジョシュア・A・ノートン、通称ノートン一世、サンフランシスコ「建国」の父。
ユダヤ人雑貨商だった父親の手伝いをしながら商いを学んで1849年、ゴールドラッシュの波に乗って当時まだ人口2万人程度の田舎町だったサンフランシスコに居を定めると、父親の遺産を元手に土地の投機や生活必需品の販売を開始。
これがとにかく儲かって、当初4万ドルの資産は数年で25万ドルに。街の発展に大きく貢献したノートン一世を商人や銀行家たちはうやうやしく“エンパイア・ビルダー”と呼び、やがて市民たちの間にも“皇帝”の愛称が広まった。
と、そこまでは良かったのですが米の投機の失敗をきっかけに破産してしまった。失意のノートンはそのままどこかへ「亡命」、1859年になって変わり果てた姿で再びサンフランシスコに現れると、アメリカ帝国初代皇帝を名乗って二匹の臣下(野良犬)と共に統治に乗り出した。要するに、日本で言うところの葦原天皇。
さて市民たちの反応はといえば。それはもう大笑い大喜びで受け入れた。皇帝から料金を頂戴するなど畏れ多い。クリーニング屋やレストランは皇帝を無料で招待して皇帝閣下御用達の看板を下げる栄誉に授かった。一人の恥知らずな警官がノートン一世を精神病の浮浪者と勘違いして無理やり連行した時には不敬だとして大炎上になったりしたからその敬意は本物だ(後に署長が謝罪)
街の有力者たちはみなノートン一世が街に何をもたらした人物か知っていた。だからサンフランシスコより以前にノートン一世が事業を行っていたブラジルから皇帝ドン・ペドロ二世(本物)が訪れた際、彼らはノートン一世を自分たちの「皇帝」として引き合わせたのだった。皇帝こそ我々の誇り。
大衆が異形を笑いながらスターに祀り上げ、いつしかその幻想がリアルに変わってしまう実録アメリカおとぎ話。というわけでその系譜に連なるジャイアント音痴歌姫フローレンス・フォスター・ジェンキンスの実話を映画化した『マダム・フローレンス』観たんで感想です。とりあえず、好きだなぁこういうの。
それでこれネタ元が同じ『偉大なるマルグリット』(2015)もこないだやってたので観に行きました。あちらは舞台設定をフランスに移していて、泣ける系の映画かなぁと思ったらちょいシュールな辛口ブラックユーモアの映画。後半の展開の容赦のなさに別の意味で泣けてしまった。
俺の中ではコーエン兄弟がリメイクした『サンセット大通り』(1950)っていう感じの『偉大なるマルグリット』だったんですが、じゃあこちら『マダム・フローレンス』はどうかと言うと実はこっちもこっちで意外と、いわゆるストレートな「泣ける映画」ではなく…なんかひねくれた映画でそこが面白かったなぁ。
これ結構映像が特徴的で、ちょっとウェス・アンダーソンと近いようなシンメトリックな一点透視図法の構図を多用するんです。それでカメラの動きはほとんど緩やかなパンニングとドリーの横移動に限られていて、つまりクラシックなスタイルの再現。オーソドックスな横ワイプを場面転換に使ったりエンドロールがサイレント映画の字幕カットみたいにデザインされてたりするわけです。
でこういうのが、虚構性を強調してるみたいでおもしろかった。映画はヒュー・グラントとメリル・ストリープの演じるフローレンス夫妻が劇場で朗読劇みたいのに興じてるところから始まるんですが、そのセットとか舞台装置のチープさをグっと見せつけてくる。
お前らとフローレンス夫人が見てる世界とかしょせん書き割りでしかないからねって見てる間ずっと言われてるような感じがあって、なんとなく近寄りがたいところがあって。そういうところのシニカルな視点はわりと『偉大なるマルグリット』と近いような気がしますね。
バスタブいっぱいのポテトサラダ、歪んだレコード、雑多なアンティークに彩られた(有名人の椅子コレクションとは…)一点もののドールハウスみたいなフローレンス邸などなど…嘘くさいオモチャ的映像世界万歳なんですがあれやっぱこれウェス・アンダーソンっぽいな。あの人の映画だったらこういう冷たさはないと思いますけど。
これ監督が『クイーン』とかのスティーヴン・フリアーズらしいのでそう言われればそんな感じだなぁとか思ったんですけど、この人は人間の本音とか本性とかパーソナリティの一貫性みたいのをまったく信じていなくて、明らかに矛盾するような行動とか相貌とか関係性をキャラクターにどんどん与えてそのことに何の説明も加えないような作劇をしますよね。
こういう、境界を横断してアイデンティティを構築していくところはスチュアート・ホールとかが評価していたそうですけれど。
『マダム・フローレンス』もそういう感じで、ヒュー・グラントが何を考えているのかは結局最後までよく分からないし、メリル・ストリープがどうしてそれほど人前で歌いたかったのかもよく分からない。
このあたりの構成も『偉大なるマルグリット』と似ていておもしろかったんですが、フローレンス夫妻を取り巻く人々がこの世紀の茶番をどう見ていたのかっていうのも分からず、この人たちがなにか展開を引っ張ってくるのかと思ったらそうでもなくていつのまにか物語からフェードアウトしていたりする。
ただその場その場で何かが起こって、誰かが何かしら行動をして、その反応が何か次の場面を呼んでくるんですが、どう関連するのか明らかでないのでその何かが読めない。だから物語の中のキャラクターも見てる側も基本的に困惑するしかなくて、困惑するんだけれどもまぁなにかしら行動しないといけない、その意味では前向きなお話なんですけれども苦笑交じりの前向きで。
よくわからない、これ要するになんだかよくわからない世界でよくわからない人たちがよくわからないまま奮闘するよくわからない映画だったんじゃないですかね『マダム・フローレンス』。もう、なにがなんだかわからないな! それが現実と言われればまぁそうか。
こういう煮え切らなかったり答え合わせをしない映画っていうのは好きなので…面白かったすね俺は。
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ベルリンの壁崩壊というのは後から語られる時にはまるで歴史の美談のようになったりして、でも当時の東西ベルリンの人たちにとっては大変な葛藤も混乱もあった決して美談にはならない出来事なはずなので、とか真面目に言いたくなってしまうよいホラ吹き映画です。
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