【ありがとう】たぶん世界で一番長い『バイオハザード ザ・ファイナル』感想追悼文【さようなら】

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はいおもしろかったです今年ベスト級におもしろかったです。『バイオハザード ザ・ファイナル』。絶対うそだと思うので既にタイトルの時点でおもしろいですしポスターで両手を広げて戦闘ポーズをキメるミラ・ジョヴォヴィッチを見ていると何故か笑いがこみあげてくるので観る前からおもしろい確定だったのですがどうしようおもしろいだけじゃなくてなんか感動してしまった。
『バイオハザード:ザ・ファイナル』…これは今となっては何一つおもしろくないゼロ年代ボンクラ映画の墓標であり、追悼式典なのである…! ということで6000字超の大☆長文感想弔辞です。ネタバレとかあります。

それにしても振り返れば長い道のりで一作目の『バイオハザード』は2002年の作。なんともう14年も前でした。監督のポール・W・S・アンダーソン当時37歳、スタイリッシュな演出と低予算でも手堅く仕上げる手腕で知られる新進気鋭のジャンル監督。『フィフス・エレメント』(1997)で名を挙げたミラ・ジョヴォヴィッチはリュック・ベッソンと別れてボンクラ業界から足を洗おうとしていた(主観)が、それでも出演を決めたのは「バイオファンの弟が喜ぶと思って」。その優しさが仇となってボンクラ沼に沈んだ。

今やすっかりクソバカシリーズと化してしまったので今一度確認しておきますが『バイオハザード』はビデオゲーム映画の大成功例として挙げられる作品で、ゾンビ映画博士の伊藤美和さんは著書『ゾンビ映画大事典』の中で「ゲームの映画化というマイナス・イメージを覆すだけのパワーはある」と評しその後のゾンビ映画ブームの火付け役として位置付けていた。

『モータル・コンバット』(1995)で既にゲーム映画の実績があったポールの演出は手慣れたもので、原作を大胆に換骨奪胎しミステリアスで現代的なSFアクションに再構築。原作ファンをそれなりに納得させつつマリリン・マンソンやスリップノット等々のシーン直結楽曲をサウンドトラックにするヒップな感覚でゲームファン以外にも広く訴求して、結果として当時斜陽だったゾンビ映画の復権に貢献したのだった。

ポールが監督を退いて製作・脚本に回ったシリーズ二作目『バイオハザードⅡ アポカリプス』(2004)では限定的ではあるものの都市部でのゾンビパニックが描かれたわけですが、『ウォーキング・デッド』(2010~)や『ワールド・ウォーZ』(2013)を経過した今となってはクソほどの価値もないこの光景も当時のゾンビ映画の水準を考えれば十分ゾンビ映画ファンが待ち望んでいたアポカリプス。
エポックメイキング、とまでは言いませんが。『28日後…』(2002)や『ゾンビ』(1978)のリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)ともども後のゾンビ映画に与えた影響は決して小さいものではないとは言い切りたい。

ところでバイオシリーズでゾンビ映画復興の礎を築く傍らポール自身の監督作としてはこの時期に『エイリアンVSプレデター』(2004)が発表されているのですが、その後『プレデター』(1987)のリメイク『プレデターズ』(2010)、『エイリアン』(1979)の前日譚『プロメテウス』(2012)とその続編で2017年公開の『エイリアン:コヴナント』が製作されたことを考えるとゼロ年代ハリウッドのティーン向けジャンル映画においてポールが尖兵のような役割を果たしていたんじゃないかという気がしてくる。

事実『バイオハザード』のプロデューサー、サミュエル・ハディダは後に人気ホラーゲームの映画化である『サイレントヒル』(2006)を手掛けているし、ポールがプロデューサーに名を連ねたボンクラ格ゲー映画『DOA/デッド・オア・アライブ』(2006)で初めて映画音楽に参入したジャンキーXLの近年の大活躍っぷりは言をまたない。

バカとかボンクラとか言われたら一切否定できませんが、バカでボンクラな『バイオハザード』とポール・W・S・アンダーソンの存在が無ければ現在のジャンル映画シーンはかなり違ったものになっていた可能性もあるのですという歴史のふしぎ。おもしろいですね。ポールの映画はおもしろくないけど…。

と長い前置きをしたうえでようやく『バイオハザード:ザ・ファイナル』なんですが、なんというか『バイオハザードⅢ』(2007)以降でポールが試行錯誤を重ねてきた方法論が結実したような映画でしたね。

シリーズ恒例・前作のラストから全然繋がらない導入と行き当たりばったりのハッタリシナリオ。『バイオハザードⅤ リトリビューション』(2012)のラストでは宿敵ウェスカーとミラ/アリスの共闘の可能性も示唆されていましたが『ザ・ファイナル』では再びアリスが一人世紀末荒野を放浪しているシーンから始まる『Ⅲ』逆戻りっぷり。
この拍子抜けのサプライズとそれまでのストーリーはなんだったんだよの寅さん的徒労感。ウェスカーとはちなみに戦わない(理由はウェスカーがアンブレラ社をクビになってしまったからでした)

ただ殺されるためだけに出てくる登場人物。冨樫義博の『レベルE』には何度話しかけても同じセリフしか言わないRPGのモブがリアルにいたら超怖ぇというギャグがありましたが、『ザ・ファイナル』に出てくるのはまさにそのような人物ばかりなのでゾンビが来たら「ゾンビが来た!」、弾が切れたら「弾が切れた!」、死ぬときには「ぎゃー!」とかそれぐらいしかセリフが与えられないまま腕が潰れたり頭が飛んだり千切りになったりする。

むしろハードの性能が飛躍的に向上した昨今のビデオゲームのモブの方が人間的なアルゴリズムを持っている。前作同様の出てくるクリーチャーを倒してステージをクリアしていくだけの展開なども含めてゲーム以上にゲーム的な映画です。

誰もそこには期待していないと思う微妙なゲームオマージュ。よくわからんが敵を探してアリスがなんらかの建物に入ると背後からファックスの音がしてビックリ! というシーンがありこれはなにかといえばおそらく原作ゲームの『2』において警察署のSTARSオフィスに入ると突然ファックス入電というあのイベントシーンのオマージュでしょう。

違うかもしれないが違うとは言わせない。シリーズ納めにかかり始めた前作では何の脈絡もないがまだ使ってない原作キャラを大量投入し(ブラッドまで!)そのあまりに安易な発想とお前誰だよなレオンとかバリーのクオリティがファンを閉口させましたが、これさえ原作一作目最大の特徴であったチープな実写でのキャラクター紹介のオマージュというのがポールの演出術であった(要出典)

『デスレース2000年』(1975)のジェイソン・ステイサム主演リメイクという凄まじいボンクラ企画『デス・レース』(2008)を実写版『マリオカート』にしてしまったほどのゲーム愛なきゲームファンの鏡、ポール・W・S・アンダーソン。
『ザ・ファイナル』には更に一作目の舞台であるハイブに再び侵入したアリスに対し施設の防衛を任されたウェスカーがモニターを見ながら手動でトラップを起動させていく『刻命館』的要素もありましたね。『サンゲリア』(1979)や『ニューヨーク1997』(1981)などもうなんの関係もないしベタすぎるししかも薄っぺらい映画オマージュもいっぱいです。

…こんなの二時間くらい見ていて脳裏をよぎったのはポールの原点ともいえる『モータル・コンバット』でした。「俺たちの戦いはこれからだ!」的なラストになぜあのテーマ曲「Techno Syndrome」が流れないのかと不思議に思うくらいとにかく『モータル・コンバット』。屠殺場と化した廃ハイブのステージ感も無意味な人体損壊もボスキャラの造形も『モータル・コンバット』。『モータル・コンバット』の必殺名セリフ、ケイリー=ヒロユキ・タガワの「Your Soul is Mine‼」をミラが再現するかのようなシーンまであって『モータル・コンバット』。
もはや『バイオハザード』っていうか企画倒れに終わったまぼろしのポール監督作『モータル・コンバット3』なので『Ⅲ』以降の方法論とは要するにポールの出世作である『モータル・コンバット』への回帰なのでした。つまり最高ということですが普通に考えたらゴミみたいな映画だとおもいます。

『ドーン・オブ・ザ・デッド』が監督デビューのザック・スナイダーは今やすっかりDCコミック映画のガーディアンに出世したわけですが脚本を書いたジェームズ・ガンも『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』(2014)でメジャー監督の仲間入りを果たしたのでゾンビ映画は人を育てるの法則はただしい。コミックとか俗悪映画が大好物なポールと同世代のボンクラ系の二人ですがちゃんとした映像作家になれてよかったですね。
だがしかし、その『ドーン・オブ・ザ・デッド』の企画を『バイオハザード』の成功によって後押しした(かもしれない)ポールの方はといえば。一向に成長しないばかりか逆に退行していた。

ポールが監督に復帰した『バイオハザードⅣ アフターライフ』(2010)以降、シリーズはポール・W・S・アンダーソンの『ウチの妻ってどうでしょう?』(©福満しげゆき)としてニンジャみたいなコスプレのウチの妻、分身増殖するウチの妻、超能力ウチの妻とゾンビを差し置いてウチの妻ミラ・ジョヴォヴィッチで画面が埋め尽くされるようになったわけですが、『ザ・ファイナル』ではついに世界を崩壊に至らしめたのはウチの妻で世界を救ったのもウチの妻で二人の板挟みで悩むのもウチの妻という唯妻史観にまで逝ってしまう。

老いた母としてのミラ、若い妻としてのミラ、そして子としてのミラというウチの妻の三位一体…妻が好き過ぎて達した神話的想像力。ミラ(子)には実子エヴァ・アンダーソンを起用するくらいだから本気です。

ペット・ショップ・ボーイズ「Opportunities」を地で行く(そしてほんのちょっとだけ『トレインスポッティング』(1996)の先駆けのような)『ショッピング』(1993)で映画業界に殴り込みをかけたのも今や昔。時流に乗ったクールな映像感覚で『モータル・コンバット』、『ソルジャー』(1997)、『イベント・ホライゾン』(1998)と午後ロー的傑作を連発して『バイオハザード』でハリウッド屈指のヒットメーカーに昇りつめたポール・W・S・アンダーソンも腐りかけのゾンビ映画を墓場から蘇らせたゾンビ中興の祖ポール・W・S・アンダーソンももういない。

ゼロ年代ハリウッドにゲームとゾンビといういかがわしいブツを持ち込んで一財を成した時代の寵児は先へ先へと突き進む同世代のオタク・ボンクラ仲間たちを尻目に早々とゲームを降りてしまった。もう客の目とか気にしない。あとは妻と一緒に好きなことだけやる。仕事より妻のが大事。

世界には妻だけいればいいから他のキャラは気にせずどんどん殺していくという妻への信仰告白と『モータル・コンバット』的幼児残虐趣味の入り混じった幼稚園児の落書きのような『ザ・ファイナル』は、だからポールの半引退表明のような映画なんじゃないかとおもう。よく「お葬式ムード」みたいな表現がファンの落胆の比喩として使われますが『ザ・ファイナル』はただしくお葬式映画だったのだ。

それはポールの映画監督としてのお葬式で、バイオシリーズのお葬式で、そして『バイオハザード』に代表されるような子供だましの下らないオタク映画ボンクラ映画のパラダイスだったゼロ年代ジャンル映画のお葬式だったんである。

『ハウス・オブ・ザ・デッド』(2003)や『アローン・イン・ザ・ダーク』(2005)といったゲーム映画で悪名高いドイツの鬼才ウーヴェ・ボルは純粋なポールのフォロワーといった感じで、その演出法やビジネスモデルはポールのそれを踏襲していた。

ポールの映画と同じようにボルの映画もまた全然おもしろくなかった。けれどもそこには駄菓子屋の色の悪いお菓子のような絶対に体に悪いと分かっていてもつい騙されたくなる魅力があった。負の徴は根絶を前に聖痕に反転する。市場の成熟や技術の進歩によって駆逐されてしまう宿命の安物/パチモノ映画の美学。

本人の弁によれば映画ソフト市場の縮小傾向は著しくボルの量産していたような小規模な娯楽映画では利益を上げることが困難になった。ということで今年10月、引退を表明。たぶん話題作りの嘘だからそのうちまたゴミみたいな映画を作ると思いますが、バイオシリーズの終了と呼応するようなボルの引退発言はなにやら感慨がないともいえない。

徹底して空虚な『ザ・ファイナル』はこんな風に観る側に記憶の発掘と思考の拡散を促すわけで、単体として見ればクソ以外に言いようがないのですが堂々たるお葬式映画ではあったようにおもう。ここにはいろんな映画の記憶が集まってくる。

原作ゲーム『2』のCMを手掛けた縁から『バイオハザード』は当初モダンゾンビの父ジョージ・A・ロメロが監督候補に挙がっていたが、ぶっちゃけロメロの映画化案は地味すぎて使えなかったのでポールが後を引き継いだ。
その後『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004)でロメロの薫陶を受けたボンクラが頭角を現してくるとロメロ自身もついに念願のオリジナル新作ゾンビ映画『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005)を発表するに至る。

80年代ゾンビ映画バブルの崩壊と軌を一にして斜陽の時期にあったロメロはこうしてシーンに復帰した(長くは続かなかったが)。ちなみにロメロは『バイオハザード』にも『ドーン・オブ・ザ・デッド』にもあと最近では『ウォーキング・デッド』にも苦言を呈していた。

ポール世代のボンクラ監督の中でもとりわけ頭が悪い方の天才であるガン=カタ野郎カート・ウィマーが『リベリオン』を世に問うたのは奇しくも『バイオハザード』と同じ2002年のことだった。たぶんボンクラ同士思うところがあったんだろう。ウィマー版『バイオハザード』と言えなくもない『ウルトラ・ヴァイオレット』(2006)ではミラ・ジョヴォヴィッチに趣味の悪いコスプレをさせて超人戦士を演じさせていた。

バイオシリーズ後半戦がミラの超人アクションとコスプレを鑑賞するだけの映画になってしまったのは人の妻に対するウィマーの仕打ちに腹を立てたポールの意趣返しの可能性があるのでウィマーには責任をとってほしいとおもう。その後ウィマーが脚本を書いた『ソルト』(2010)はアンジェリーナ・ジョリーがスーパーヒロインに、こちらも脚本のリメイク版『トータル・リコール』(2012)では愛妻監督レン・ワイズマンが妻のケイト・ベッキンセールをスーパーヒロインにして喜んでいた(二人は今年離婚した)

『モータル・コンバット』の魔界帝王ケイリー=ヒロユキ・タガワは『TEKKEN 鉄拳』(2009)で再び格ゲー映画に参戦した。あまりにも意外性のない三島平八役が格ゲー映画ジャンルにおける『モータル・コンバット』の負の影響力を感じさせ…なんかどれも全然思い出さなくていい映画の記憶ばかりな気がするのでもうやめます。

まさにザック・スナイダーがボブ・ディラン「時代は変る」を流した『ウォッチメン』(2009)のタイトルバックのように。時代の徒花が咲き誇っていた群雄割拠のゼロ年代ボンクラ映画シーンが鮮やかに再生される『バイオハザード:ザ・ファイナル』。

オタクとボンクラがどう娯楽映画のメインストリームに取り込まれていったかの記録が『マトリックス』(1999)を参考画像としてウォシャウスキーやタランティーノを中心に編纂されるのだとすれば、この映画が呼び覚まし弔うのはウォシャウスキーにもタランティーノにもなれなかった使い捨ての才能の記録されない記憶なのである…と言うとすごく良い話に思えるかもしれませんが明らかに続編を作る気なのでやっぱりふざけんなよってなりますね。次も観るけど。

【ママー!これ買ってー!】


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ポール・W・S・アンダーソンの全てはここにあると思いますが全てあってこれっていうのはどうなんすかね…まぁ大傑作なんですけど。


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おとしだま
おとしだま
2017年1月2日 2:37 PM

ぼんやり読ませていただきました
今年も楽しみにしています

あほあほまん
あほあほまん
2017年10月21日 11:44 PM

才能ないからこんなアホらしいブログ書いてるんでしょ?かわいそう