映画感想:『マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白』(ネタバレ含)

《推定睡眠時間:2分》

映画は基本的に地図を扱えないメディアだと思ってるのでこんな強烈な映画地図あるのかよっていう変なところで驚く『マダム・ベー』。
色々あって中国の貧乏農村に暮らす脱北マダムがラオスをこっそり通過しタイ経由で息子の待つ韓国に渡航しようとするその決死の暗黒ツーリズムの過程で画面にオーバーラップする旅程図、マダムの置かれた状況を雄弁に物語りすぎてわぁってなりましたよわぁって。

地図映画オールタイムベスト100に確実に食い込みますねこれは他に何が入るかはまったくわかりませんが。

それにしてもコンパクトな映画で上映時間72分、短い。そのうえ基本的には生活ドキュメントなので脱北ものっていう印象はあんまなくー別に説明しないでもみんな知ってるでしょう背景になってる現代の脱北事情、みたいな作りだったので要パンフレットだったな俺は、パンフあるのかどうか知らないけど。
パンフの代わりに中国で性奴隷にされる脱北女性-ニューズウィーク日本版の記事が参考になったのでリンク貼っておく。
その後の経過はだいぶ違うがこうしてマダムはマダムになったのです的なイントロダクションにはなるんじゃないですかね。

ところで邦題は“脱北ブローカー”を推してきてるんですが脱北ブローカーどういう事してんのっていうとそこらへん、事が事なので撮影素材が限られているらしく、あるいはマダムの生活に焦点を絞る意図があったのかもしれませんが、あんま画面に映らずなんかよくわからん。
↑の記事に比べるとこちらのマダムは奴隷的に売られたつーても比較的自由があったようで、北の家族に送金するためあれこれの闇ビジネスに手を染めていた。ピンクコンパニオンの派遣とか麻薬の売買(映像では出てこない)とかにプラスしての脱北の斡旋なので、別に脱北ブローカーのお仕事ドキュメントつーわけではなかったのだ。

…つーかマダムめっちゃ有能じゃん仕事の幅広すぎるじゃん一人コングロマリットじゃんなにこれ、びっくりしたよ。お仕事内容の代わりにカメラが切り取るのは常に電話で値段交渉をしているマダムの姿。虎だねこれは虎です、虎だとおもいました。
傍らでボーッとネットかなんかやってるだけの中国のダメ夫を見ていると激安労働力兼嫁として意に反して売り払われたの事実が雲散霧消してしまいますが、そのアンバランスが現実の不条理を浮き彫りするなこれは。

浮き彫りにし過ぎてちょっと笑ってしまうが脱北ブローカーつーぐらいだからマダムもヤングマダムを騙して売り払ったりしてんだろうかとか思うと急に笑えなくなるから困る。

中国のダメ夫と書きましたがよく知らない人をダメの一言で切り捨てるのも失礼なのでもう少しこの人の事に触れるべきだの正義感も芽生えつつでも映画を見てる限りどう考えてもダメな人なのでやっぱり擁護を諦めるのですがしかしそこがキーだったなこの映画の。

もう本当にダメな人でどのようにダメかというとマダムが子犬ちゃんを買ってきたんだか貰ってきたんだかなんだか知らないがとにかく家に子犬を置いて可愛がっていたら出かけてる間にダメ夫が兄夫婦(だったような)に勝手にあげてしまった。
なんてことするの勝手に! えらい剣幕でブチ切れるマダムにそんなに怒るなよぉとニヤニヤのダメ夫なのですが字面からすると奴隷と奴隷主の関係性が露呈したえげつなエピソードに思えるかもしれませんが違いますダメ夫は真剣にダメなので空気が読めていなかったのです…。

再び↑の記事を参照すればにわかに信じがたいことではあるが韓国に行く、とマダムは夫家族に事前に言ってしまう。どうしようもなくダメな息子のために嫁を買った立場からすればいや別にそれを容認するわけではないのですが普通、なに言ってんだと一蹴しそうなもんだと思うがアンタがそうしたいなら行ってらっしゃいがこの家族なのだった。
ダメ夫はわざわざ見送りにまで行く。ほんでそれから数年経って二人の息子と北の夫も脱北させてソウルのマンションで一緒に暮らしていたマダムの方でもダメ夫をソウルに呼ぼうとする。
家にこもって所在なさげな北の夫の傍らで中国のダメ夫とスカイプするマダムの図が全力でハートを抉りにかかってくる…。

この複雑に入り組んだ重層状況はこれどうなの70分ちょっとの間に。濃すぎないすかねいや濃すぎるよ。そんでまったく割り切れるところがないね。割り切れるところもやりきれるところもない脱北を取り巻く人々の心情が、中国・タイ・韓国・北朝鮮の矛盾に満ちた社会状況がマダムを介して渦巻きながら吹き出してくるね。
急激な経済成長と社会の変化に取り残されたリアル俺ら東京さ行くだみたいな辺境の貧乏農村でさぁ、能力と野心のある人はみんな都会出ちゃってさぁ、じゃあそこで生きるしか選択肢がないもしくは選択肢を想像できないダメな人はどうやって暮らせばええのって事とか。
じゃあ北朝鮮からも貧乏農村からも脱出してパートタイムの浄水器洗浄で生計を立てながら家族で大都会ソウルに暮らしたらそれで幸せなんすかとか。
マダムら脱北妻の超ヘビー級女子会での「知的障害のある息子のために脱北妻が買われるケースは多い」発言とかもーう、しんどいっす。

しんどいんですが、根っからの悪人が一人も出てきてくれないから逆にしんどいんですが、根っからの悪人が一人も出てきてくれないので最終的には世の中の底の方の人たちのラブストーリーに落ち着いて、安堵するようなしないようないや安堵してもいいのかっていうか何に対する安堵なのか?
もうもうなんつったらいいか分からないのですがともかく、大変面白い映画でしたね。

あとちなみに一番好きなシーンは息子によく似てダメそうな中国のダメ夫の父親が部屋でタバコを吸って「嫁の前で吸うんじゃねぇよ!」とか妻に怒られるシーンです。

【ママー!これ買ってー!】


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見たことないけど面白そうですよね。

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ポリフォニー緑ヶ丘
ポリフォニー緑ヶ丘
2023年8月8日 10:04 PM

いつもレビューは興味深く拝読していますがコメントするのははじめてです。韓国に場面が移った冒頭でソウルの摩天楼を背景に響く街頭演説らしき音声や地下鉄のスクリーンに映し出される「スパイ、共産主義者は通報して」などをさらりと折り込んでくるのも巧いなあ、と思いました。贅言を要さずともこれだけでマダム一家の韓国社会で置かれている状況が察せられるというか、世間では北朝鮮の特異性ばかり焦点をあてたがりますが韓国の公共空間も相当な制約があるぞ、と。朝鮮半島の戦後史ないし隣接する中国社会の様々な矛盾を一身に体現したかのようなマダムやそれをとりまく人々をみていると、もうなんか最後はマダムがカラオケ歌う場面でしめるしかないよなあ、とも思いました。中国のおじいちゃんも良い味だしてました。マダムをはじめ女性は軒並み活発な実際家として描かれているのに対し男性陣=朝鮮夫・中国夫(義父含む)はみなダメ人間なのも面白かったです。

ポリフォニー緑ヶ丘
ポリフォニー緑ヶ丘
2023年8月10日 7:55 AM

コメントありがとうございます。
さわださんが仰るように「挫折した男性の無力さ」というか、そのあたりも興味深かったです。なんか以前読んだ本の中で資本主義経済の確立と同時に男性の現金獲得能力が低下したので意図的に近代家父長制が再編・強化されたとありましたが、そう考えると近代・現代家父長制的社会構造のもとで男性はレールから外れた場合そもそも無力化するようになっているのかもしれません。
さわださんのブログは確か『ライトハウス』のレビューを探している時にたまたま辿り着き、それ以降よく見ささせて頂くようになりました。マジでこのブログに出会ってから観る映画のチョイスに困らなくなったというか、さわだセレクトに外れなしというか、個人的にすごく助かっています。さわださんのブログで紹介されていた『スティルウォーター』『ウィンドリバー』は今のところ今年のベストです。

ポリフォニー緑ヶ丘
ポリフォニー緑ヶ丘
Reply to  さわだ
2023年8月11日 6:49 AM

背景事情はあまり知らず紹介されていたので観てみたのですが『スティルウォーター』はマジで名作だと思います。ラストシーンをみた時にこれは最良のアメリカ映画のひとつだと個人的には感じました。あとさわださんも言及されていましたが、主人公がフランスで同棲するリベラルな舞台俳優があからさまな差別に対して拒絶反応ないし排他性をみせる一方で世間的には視野狭窄・不寛容とみなされる典型的アメリカ的白人下層労働者(所謂ホワイトトラッシュ)であるマットデイモンがおかまいなしに聞き込みを続けようとする場面とか、リベラルの排他性みたいなものを描くのが非常に巧いなあ、と。
さわださんのブログは映画そのものは観ていなくてもレビューだけ読んでも面白いので、これからも楽しみにしています。