《推定睡眠時間:35分》
たとえネタバレと文句を言われようが先に言ってしまうとこの映画の主人公で2011年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症してしまった元ニューオーリンズ・セインツの花形選手スティーヴ・グリーソン氏は今も元気かどうかは知らないが生きているそうで、アメリカでの発症後平均寿命は2~5年と公式サイト(ALS患者支援ページ付き)に書いてあるからファイティングスピリットが不屈。
たいへん不謹慎ながらもグリーソン選手の死でもって映画終わるんだろうなと勝手に思っていたのである。それはもうだって最後の方ともなると動けないし喋れないし人工呼吸器装着してあぁこれが終末医療かという感じだったので爽やかなラストシーンが逆に、死を印象づけたりして、エンドロールを眺めながらあぁこの後でグリーソン選手はいついつ亡くなったのテロップが出るんだろうなあぁ出るんだろうなと思っていたら出ないまま映画終わってしまった。あれぇ?
そこで画面に現れたのはグリーソン選手の妻ミシェルさんで、なんか日本公開に合わせてのインタビューに答えている。Q:今もグリーソンさん健在なんすか? A:あ、はい生きてますよ。
こうして生存確認したのであるがいやーそれにしてもねー圧倒されちゃうよねーこういうのねー。いい話だなぁとか、言わせねぇよ! (言えばいいが)
まぁ生命力的にはそこそこ健康体なこちらの方が遙かにグリーソン選手に劣っているわけだからそこらへん難病の人を見て可哀想だなぁと思うより動物的恐怖を感じるよむしろ。
だって強靭すぎるでしょう、精神が。ビデオメッセージを毎日撮っておいて自分が居なくなった後も息子に色々教えられるようにしようの発想、それはなんか難病系アメリカ映画とかでたまに見かけるので理解できるが、自分は影響力あるからALS患者のスポークスマンになろうもまぁ分かるが、元アメフトのスター選手とその妻とはいえプライバシー全捨てで生活の全てを記録して映画にしようよはないだろ。
たとえばこのようなシーンがあるわけです。いよいよ症状が悪化してきて、もう自力じゃ音声合成機器を使った会話ぐらいしかできんようになってしまったグリーソン選手が息子を膝に置いてくれと懇願するのですがー、まだ幼い息子の世話と夫の介護に消耗しきったミシェルさんはつい無視してしまうと。
そこに後から撮ったミシェルさんの釈明インタビューが入るわけですけれどもなにそれもう、絶対イヤじゃん。なんでそんな一番人に知られたくない自分で自分が嫌になるところを撮らせるの。撮らせて映画化を許可するかね。
夫婦喧嘩の場面とかも入ってたりすんですけどそれも最悪でしたよね。最悪。俺が重荷なんだろ的なことを寝室の固定カメラの前で言うわけグリーソン選手が。俺にどうして欲しいんだよ的なこと半泣き半ギレで言うわけ、もう全然動けなくなっちゃって自力でうんこもできないグリーソン選手が。でミシェルさんはなんか適当なこと言って背を向ける。つらすぎないか。どうなっとんのよ。
なんでもかんでも面白おかしく地獄地獄とつい言ってしまいがちだが本当の地獄とはこういう状況だろう…見てる側としてももうどうしたらいいのかよくわからんくなる地獄映画であるがでも本人たちがその道を選んでんである…そんでなんかそこそこ楽しそうにしてんである…。
そこは言わない方がいいのではと思いつつも頭に浮かんでしまうから言及せざるを得ないのは乙武スキャンダルもしくは乙武バッシングであった。
匿名を良いことにバッキバキに乙武を叩いてたやつはこういうの見たらいいんである。あとタラップの人叩いてたやつとかもな。貴様ら見ろ見なさい見るべきだ逆に泣ける系難病映画とかは見るなあんなもん悪影響だ!
こう、善とか悪とかだね、弱さとか怒りとかだね、数え切れない矛盾を抱えながら誰でもあり誰でもない誰かとしてただそこで生活しているという事実の前ではどんな否定意見も肯定意見も意味を成さない! 拒絶も受諾もできない!我々が生きているとはそういうことではないのかね!何のために生きているとか、誰かのために生きているとか、そういうことじゃあねぇんだよ!
何のために書いてるとか、誰のために書いてるとか、感想もそういうことじゃないから文章を整理とか、しないよ!
この『ギフト 僕が君に残せるもの』なのですがドキュメンタリー映画で、スティーヴ・グリーソン選手のALS発症から現在に至るまでの闘病生活を描いたもの。
ALS発症と時を同じくしてミシェルさんの妊娠発覚ってことで、このままでは死ねねぇとグリーソン選手は息子宛ての日めくりビデオメッセージを思いつく。そのアイディアが大きくなって、住み込みで介護してもらってる二人の友人(片方がザ・サーファー的な陽キャ)にも常時ビデオを回して貰うようになる…かどうかは実は寝ていたから分からないがなんかそんなような話ではないかな。それが後からALS支援プロジェクトとか映画化の話になったんじゃないかな。
一応ネットにアップするものだからそこらへんは説明しておいた方がいいだろうの使命感はあったが知識が伴わなかった…でもたぶんそういう映画です! まぁ、違ってたとしても見ればわかるよ! 詳しくは公式サイトを見るかパンフっを買おう!
それにしても凄い映画。このショウ志向。ドラマの中に生きようとする意志の凄まじさ。もう、業というものではないですかね、こりゃあ。
こういう書きっぷりをしている俺が悪いがこの『ギフト』という映画は実はつらいくるしい密着ドキュメント的なやつではないんである。エンターテイメント。娯楽。
こーのノリの良いサントラが難病ドキュメンタリーの音だろうか。またそこに豊富すぎる映像素材がミックスされるもんだからこれはなんかもうこういう撮影手法のヒューマンコメディ的なフィクション映画としか見えないわけ。
場合によっては『最高のふたり』とかの方がドキュメンタリーっぽく見えるんじゃないか。仮にモキュメンタリーでしたと言われてもあんま驚かないと思うね。っていうかそうであってほしいよ。
こういう自分たちの映像を撮らせる方も信じられないしこういう題材でこんな構成の映画を作る方も信じられない、アメリカっぽいなと言ってしまえばまぁそんなもんかもしれないが、台本の存在すら疑うグリーソン選手と父親の激ドラマチック対話なんかを見ていると、なるほどこんなだから耐えがたい不幸に襲われても最後まで闘えるんだろうとリアルに納得させられるところがある。
シャーなんとかヴィルの熱狂は俺にはまったくわからなかったんである。像ぐらいでそんなに騒がないでもいいしそんなに反対しないでもいいし怒らなくても悲しまなくてもいいと思っていたが、シンボルとドラマの共同幻想の中で矮小な現実を超え出でる可能性をあの人たちは本当に信じているんだろうなとそれは別に映画とは全然関係ないのだが、死に抵抗する代わりにただただ生の可能性を追求してリアルの外にはみ出てしまったようなこの神話的映画を見ていて、なんとなくそのことが理解できた気はしたな。
いやだから、つまりそれぐらいは懐の深い色々思うところのあるおもしろい映画つーことを言いたかったわけですよ…!
【ママー!これ買ってー!】
ある意味で『ギフト』という映画は原一男のアグレッシヴ捨て身ドキュメンタリーに似ていたのかもしれないとふとおもう。
撮ること撮られることの考察が一瞬だけ交差して真逆の位置に辿り着いたとかそんな感じがなくもない。