『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』と『パターソン』。『日曜日の散歩者』というタイトルは出てくる詩人が平日は勤め人の週末詩人だったことに由来するらしいのですが週末詩人といえば、偶然にも『パターソン』、週末詩人の映画。
べつに比喩とかではない。路線バス運転手パターソン(アダム・ドライバー)の月曜日から日曜日までの一週間を描くこの映画はちゃーんとパターソンが日曜に詩作して終わるんである。散歩して詩作して終わるんである。ポエムの朗読とテロップが都度都度インサートされる作りも『日曜日の散歩者』と同じだな。
『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』
《推定睡眠時間:10分》
見てもなにがなんだかわからなかった映画ですが公式サイトの解説はたいへん充実しており映画の時代背景として日本による統治も40年近く過ぎた頃などと記述があり、へー40年も! 驚きを覚えたがそこからなのか、わからないのは。理解の道は遠い。
どういう映画かというとシュルレアリスティックなイメージ映像と状況不明の再現映像と当時のスチルとか映画の引用とかで構成されていてそこに風車詩社とかいうポエム同人の散文詩なんだか随想なんだかよくわからない日本語の朗読が入ってくる。そもそも風車詩社がどういうやつらなのかよくわからないのであるが、そのへん説明的なものは一切ないのであるが、随所で画面に詩のテロップが出るのであるが、これが和文と漢文と仏文と英文で出るのであるが、文字が小さくてよく見えないから何が書いてあるんだかわからない。
あまりにわからないから不安になって他の人の感想をインタネットで探すとどいつもこいつも訳知り顔のいやインタネットだから顔とか見えないのだが訳知り感想をのたまってやがるがガチ勢を除いて絶対にみんなよくわかってなかったとおもうよ!
よくわかってないけどよくわかってないと言ったら恥ずかしいしあと162分のよくわからない映画をよくわからないで済ませてしまったら自我にダメージを受けるからむりやりわかったことにしてるんだとおもうよ!
そうですこの映画! 上映時間162分! この意味のわからなさで162分! いつまで経ってもおわらないから劇中に引用されるダリの絵のように時間が溶けてしまったんだろかと思ったが162分ならいつまで経ってもおわらなくて当然でありしかし、なぜ殊更そう感じたかと言えば脳が劇場タイムスケジュールの解釈を誤り三回くらいスマホで確認したにも関わらずにも関わらず100分ぐらいの映画だとおもってたのだ…それすらわかっていなかったのか! 凹むわ。だがこの疑問符の海で睡眠時間を10分に留めた俺を俺はほめたい(えらい)
映画、なんかドキュメンタリーだったみたいですよ、なんか。風車詩社、こいつらは日本留学とかしてる1933年当時の台南エリートで、日本経由でモダニズム文学の最先端に触れていたと。で、旧来の台湾文学(だいたいそれがどんなものか知らないが)を捨てて台湾文学新時代を切り開こうと日本語での詩作を選んだんだと。解説によればそういう人たちのドキュメンタリー(絶対に本編だけ見てもわからないと念を押しておく)。
おもしろかったのはそれはもう映画とまったく無関係な話になるが陳柔縉とかいう台湾のノンフィクション作家だかの人が高齢の大学教授の言として「日本統治時代の台湾はお嬢様」つーのをインタビューで引いておりいやそれがどうこうとかでなく、『お嬢さん』が思い出されてしまうところであり。
植民地支配下の言語状況をことばの搾取ではなく生産と越境の下地として捉え返しなどと言えばまた政治的にビミョーなことになるがだからそういうことじゃねぇんだよ! 主体的に! あえて! 自ら! 支配言語を選択すること! そこにおいて支配と被支配の関係を無効化しようとすること! 現状を超え出でようとすること! そういう可能性もあるよネェっていう挑発的な問いかけの映画だったんだ『お嬢さん』は! 言語は政治である。
こうして『お嬢さん』を補助線に『日曜日の散歩者』が志した前衛というのもつまりそんなようなものだろうとふわっと解すがそれはさておきなんでもさいきん台湾で懐日ブームつーのがあったらしくそれにしたって誰にも脅かされることのない国境や言語や歴史の上でスヤスヤ眠っているわけにはいかない板挟み国家? 地域? の苦しい事情があんだろなと思えば、なぜ今『日曜日の散歩者』なのか、というのもなんとなく分かるような気もし、また分からないような気もするのであるが、少なくとも知った顔で親日国だ親日国だ喜んでやがるバカになるよりはわからないままでいた方がモラル的にはよいからそれでいいんだろう。
『パターソン』
《推定睡眠時間:0分》
風車詩社にとっての日曜日は祝祭的であったり革命的であったりしたのかもしれないがー、パターソンにとっての日曜日はガチの日曜日なので情熱とか希望とか変革の気配と政治的野心とかオールゼロ。そう考えると『日曜日の散歩者』とは真逆のポエム映画だ『パターソン』。
ぜんぜんもう完膚なきまでにわからなかった『日曜日の散歩者』の真逆だから『パターソン』ときたらほぼほぼオール既視と既知。パターソンと一緒に路線バスで巡るニュージャージー州パターソンを俺見たことあるよ新小岩~船堀間で。どこにでもあるんだろうなこういうつまらない町。つまらないけど居心地は悪くない町。
それにしてもこんなに普通のバスがフィーチャーされるアメリカ映画見たことない。アメリカ映画のバスといえばなにか大きなアクションを作ったり物語の流れを変えるために挿入されるイメージがあり、『真夜中のカーボーイ』の新天地に向かう長距離バスとか、『スピード』の爆弾搭載路線バスとか、『ダーティハリー』のさそりジャックスクールバスとか、いやあるいはスクールバスとか大抵の青春映画でつまんねぇ日常の象徴って感じでぞんざいな扱い受けてたんじゃねぇか、『ゴーストワールド』では死を暗示させてたじゃねぇか、『卒業』でホフマンが飛び乗るのもバスだったが旅立ちの高揚はすぐに所詮はバスにしか乗れなかったことの落胆に変わったじゃねぇか、以上の列挙は恣意以外の何物でもないがだとしても!
路線バス運転手の日常。路線バス目線で見る町の小ささ。路線バスに乗り合わせた人々の無駄話。アメリカ映画のバス表象つーものは肯定するにせよ否定するにせよ幌馬車駅馬車のフロンティア文脈から切り離せないのではないか説(出典不明)というものもあるが、まーったくそんなもの意に介さないかのような普通の極めて普通の路線バスのあるアメリカ風景は見たことありすぎて見たことなかったのでちょっと感動してしまったね。
日常を日常として突きつけて違和感を炙り出すとか他者を経由して自己を発見するとか自己の中の他者を見出すとかそういうのが大事それがポエム、あの不思議な結末も『日曜日の散歩者』とワームホール繋げりゃ感慨段違いなんであって(仲間とか友愛ではなく)他者性というものがいかにつまらん人生を潤すか、つーの感じる映画だったなぁ。
そうだあとそれからこれは超思ったんですけどパターソンの妻、あの人ぜったいインスタグラムに自分のアートとか自分のパンケーキとか自分の犬(ブルドック?)とかアップしまくってるし通販で教本付きのアコギとか買ってるからアフィリエイトブログ的なのもたぶんやってますよね…!
【ママー!これ買ってー!】
『日曜日の散歩者』にはクラシック映画が多数引用されるし『パターソン』にはクラシック映画を見に行くシーンがあるのだが台湾古映画館の楽日に映画と歴史とポエムが交錯するツァイ・ミンリャンの『楽日』、『日曜日の散歩者』と『パターソン』の詩的合流点じゃないかとおもいました。