映画の感想『エイリアン:コヴェナント』(ネタバレないと思います)

《推定睡眠時間:15分》

美学の映画と思いました。美学は変化しないから反復なんですよね今までのリドリー・スコットの映画の。縮小再生産という人もいるかもしれないが。
そういうの楽しめるかどうかという映画だから美学の映画。万人向けの美学などあるか。わかるやつだけわかればいいんだ。

それは確かに『エイリアン』シリーズはあんなこんな個性派監督の美学を映し出してきた懐の深いシリーズとはいえ、そのクリエイター自らこーんなフェティッシュで独りよがりな新作作るのか。
リドスコの商業的妥協をずっと批判してきたテリー・ギリアムとか喜んだんじゃないすかね、これ見て。引用のセンスに知性が感じられないとかなんとかぐちぐち言ってそうでもありますが。

まぁそれにしても面白かったな、面白かったっていうか満足感ありましたね。隙あらば文章に押井守の文字をぶっ込みたい俺としては『イノセンス』系と言っておきたい。あれだって面白い面白くないとかじゃないくて充実とか満足というそういう語彙に属する映画でしょ。なんかあるんだよそういう映画。
『イノセンス』のすごーいポイントと言ったらやっぱ川井憲次の音楽と押井のポエム映像のハーモニー。『エイリアン:コヴェナント』のすごーいポイントもそこだったな。映画はストーリーじゃなくて音と画で魅せようってスタイル。そういえば有名SF映画の本人によるぶち壊し続編というのも『イノセンス』と『コヴェナント』で共通するところだからおもしろいが、おもしろいもなにも『ブレードランナー』の派生物が『イノセンス』なんだからリドスコと押井の作風が似ていて当たり前ではあった。

それでその画と音ですが、まず異星のベクシンスキー的終末風景に感嘆。何千という異星人の彫像のような死体群を抜けると朽ちた神殿があり、そこにボロけたローブを身に纏った男が一人佇んでいるというイメージ。わりと、このビジュアルだけで満足度60%ぐらい行きます。すばらしや宇宙ゴシック、ロマンあるじゃないですかこのデカダン。陳腐とか言ってくれるな。言われないでも分かってる。
神殿の中に入るとそこは洞穴のような中世の修道院のようなといった具合なのですが雨風に浸食されて崩れまくり穴とか空きまくり。あちらこちらからのびちょびちょ壁をしたたる水音がBGMを構成するが、これは聞き覚えがあると思ったらあれである、『ブレードランナー』のブラッドベリ・アパート最終決戦の時の環境音編成(※ていうか初代『エイリアン』のっすね…)
うーん、そう来たか。耳福耳福。明らかになんかやべぇとこ来たなを劇伴とか台詞じゃなくて環境音の転調で表現するリドスコスタイルだ。

神殿の瞑想的でエレメンタル指向の音作りから一転、後半の宇宙船内バトルでの統制されたデジタルな音作りというのも聞いていて実に気持ちがよい。お馴染みの宇宙船扉がプシュープシューとビートを刻むところにコンソールのピコピコが入ってきて、マザーコンピューターはいつもの台詞を反復する。
効果音を含めた映像のリズムにはとても気を配っているように見えたな。素晴らしい瞬間はいくつもあるが、中でもひょろひょろエイリアンと登場人物の一人が対峙したときの間、堪りませんねこの静寂と喧噪の駆け引き。ちなみにこの肋骨の浮き出たひょろひょろエイリアンはギーガー的というよりもこれまたベクシンスキー的で、絵にタイトルを付けない画家だからどれとか言いにくいが、これっぽい絵があるはず。
アンドロイドが笛を吹いて芸術に目覚めるとかいうこっぱずかしい耽美イメージも炸裂していたが、そういえば笛を吹く異形の怪物の絵あるじゃんベクシンスキー。バカみたいな映画と言われても否定はしないがバカみたいな映画なのに絵とか音のディティールには偏執的な拘りがあったんだろうなこれは。

笛を吹く異形の怪物といえばクトゥルー神話の最高神アザトースは笛を吹く従者に囲まれておねんねしていたんじゃなかっただろうか。この世界は狂った胎児アザトースの見る夢である。我らがニャルラトホテプが最初に登場したラヴクラフトの短編『ナイアルラトホテップ』では確か、ハメルンの笛吹き男の如くニャル様が笛を吹いて人々を悪夢に誘っていたはずだ(※確認してません)
本人曰く「作品が交通事故に遭ったようなもの」とはいえ『エイリアン』がハリウッドの偉大なるディレッタント、ダン・オバノンによって書かれたクトゥルー神話であることを思えば、アンドロイドの笛の音色になにやら妖しい響きも聞き取れて下半身ブルブル。
ほか、月夜のアンドロイド決闘、水に浮く生首やビューティフルな解剖死体、容赦ないが全然おもしろくないぶしゃぶしゃ残酷描写(本当に人の死がつまらないし人間に興味がない映画なのだ!)など暗黒な見所いっぱい。なんかすごく安っぽいが、ラヴクラフトだって安っぽいパルプ作家だったんだから暗黒宇宙神話はこれでええんである。

ところでこの映画は『ブレードランナー2』です。映像化が待ち望まれていたのかいなかったのか微妙なテッド・チャンの名編『あなたの人生の物語』を『メッセージ』として映画化したりして調子に勢いに乗るドゥニ・ヴィルヌーヴによる続編『ブレードランナー2049』の公開が控える中でのリドスコ版『ブレラン2』は、当てつけの意図はなかったかもしれないが結果的にはそれに近い感じになる。
ダン・オバノンの名前が出てきたから思い出したがオバノンの『バタリアン』は権利上『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の正統続編だが、こう、リドスコもそういう感じで『ブレードランナー2049』見てんじゃないの。自分も製作噛んでますが俺のブレランこんなじゃねぇよってやっぱ思ってるんじゃないか、わざわざ『エイリアン』の前章自分で監督するぐらいだし。『エイリアンVS.プレデター』の存在無かったことにしてまで…。

『エイリアン:コヴェナント』のファーストシーンはアンドロイドのデイヴィッド(マイケル・ファスベンダー)と彼を作ったパパとの対話。「人間がアンドロイドを作ったんだ」「じゃあアンドロイドは何を作るの?」。『ブレードランナー』でのタイレルとロイ・バッティの対話を思い起こさずにはいられないが、こういうのは呆けてるんではなくたぶんリドスコがずっと構想してきたことなんではないかと思われる。
ファスベンダー一人二役で劇中二人のアンドロイドが出てくる。ネタバレ配慮であんま細かく触れないがともかく二人のファスベンダーの交感と対決がお話の核になるところだったが、おそらくこの関係性は『ブレードランナー』に脚本段階であったロイ・バッティがデッカードに言う台詞「俺たちは兄弟だ」を踏まえたもの。
最終的には削除になったがリドスコはこの台詞にたいそう興奮して“デッカードもレプリカント説”を言い出したらしい(町山智浩『映画の見方がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』による)。

デッカードもレプリカント説に立った場合のじゃあ『ブレードランナー』のラストの後でデッカードとレイチェルどうなったの、ということの答えとしての『エイリアン:コヴェナント』。あるいはデッカードもレプリカント説に立ってバッティとデッカードの関係性を捉え直した『ブレードランナー』のセルフリメイクとしての『エイリアン:コヴェナント』。
詩を読みながら現れるアンドロイド(『ブレラン』でバッティが眼球職人の研究室を訪れる時に詩を読んでいた…)とか人間の死を見つめるアンドロイドの表情(『ブレラン』でバッティがタイレルを殺した時のそれによく似ている…)とか異星の空撮映像(『ブレラン』オリジナル版エンディングで使用された『シャイニング』のストックフィルムと同じような質感だ…)とか意識しないとここまでの既視感考えられないので、そういうつもりで作ったんだと思うなリドスコ。

なんでそれを『エイリアン』の新作で…という話もあるが、撮影までされたが本編には使われなかった伝説的アウトテイクとして『ブレードランナー』の病院シーンというものがあり、デッカードが同僚ブレードランナーを見舞いに行くこの病院の美術デザインは『エイリアン』のデザインに類似していたから『ブレードランナー』と『エイリアン』の世界はさほど離れているわけではないのだ、リドスコの中では。

追記:あと劇伴よかったです。ジェド・カーゼル。

【ママー!これ買ってー!】


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リドスコのスタンドプレーに面目を失って可哀想な『エイリアンVS.プレデター』なので元から評価が芳しくない好事家向け続編も含めて支援支援。
『エイリアン:コヴェナント』は画が暗くて細かいところがよく見えない映画でしたが『エイリアンズVS.プレデター』も真っ暗で全然何が起こってるんだか分かりませんでしたね。一番いらないところだけ踏襲するリドスコ。

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