ハリウッドの脚本力というもので、この原作をこの映画にしたハリウッド仕事人はすごい。ただしすごいのは完璧にお仕事としてやっていて躊躇なんか微塵も感じられない情無用のプロっぷりがということで、いやそこはもう少し躊躇えよとか原作を読んだら思わずにはいられない。君らにモラルはないのかと。
とにかく、これ原作にクレジットしていいのかよっていうくらいの大鉈っぷり。エドガー・アラン・ポーの『黒猫』を原作にルチオ・フルチが『恐怖! 黒猫』を撮るようなものと言えば伝わるだろうか。ていうかあれだろう権利的な理由で結果的にまったく別物と言っていい仕上がりにはなったがクレジットは外せないとかそういうあれだろうたぶん。
なんにしても原作がノンフィクションだからとこういうのを実話の映画化として売るべきではない。たとえば日本版公式サイトにはこのような記述がある。
ジョン・グレン、アラン・シェパード、ニール・アームストロングの名前もすぐに列挙できるだろう。しかしキャサリン・G・ジョンソン、ドロシー・ヴォーン、メアリー・ジャクソンという名前を学校で習うことはないし、ほとんどの人に知られてさえいない。
http://www.foxmovies-jp.com/dreammovie/intro.html
原作の『ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち』(マーゴット・リー・シェッタリー著 山北めぐみ訳)にはこのように書かれている。
キャサリン・ジョンソンは、肌の色を問わず、NASAのすべての計算手の中で最も広くその名を知られた存在だ。その物語のインパクトの強さゆえに、NASA発の黒人数学者とか、唯一の黒人女性数学者といった誤った紹介をされることも多い。
『ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち』-p.379
具体的には「黒人の、あるいは女性の(またはその両方の)科学者や技師の功績を紹介する本には欠かせなくなった」らしいし、「1960年代以降、キャサリンは全米各地の学校に招かれ」たそうだし、「2015年には、オバマ大統領より大統領自由勲章が贈られた。これは2012年には宇宙飛行士のジョン・グレンにも与えられた、文民に贈られる最高位の勲章だ」とのこと。知られていないどころか広く広く知られた人物だったつーわけである。
このへん映画がバッサリ削いでしまった原作の最重要ポイントで、原題の『hidden figures』が何を指しているかと言えばおもにキャサリン・ジョンソンという大人物の(そしてキング牧師の)「神話」に隠れた無名の黒人女性計算手たちと、偶像ではない同時代を生きた一人の人間としてのキャサリン・ジョンソンを指す。
映画の方は舞台を1961年のラングレー研究所に限定してマーキュリー計画を軸とするストーリーに脚色、その中でキャサリン・ジョンソン、メアリー・ジャクソン、ドロシー・ヴォーンのウェスト・コンピューターズがそれぞれの道で一歩前に踏み出していく姿が描かれたりしたわけですがー、原作というのは第二次世界大戦下の1943年を起点とする編年体ノンフィクション。
メアリー・ジャクソンやドロシー・ヴォーンやドロシー・フーヴァー、グロリア・シャンペインやクリスティーン・ダーデンなどなどその他諸々のNASAの歴史に埋もれた膨大な無名人がいかにしてキャサリン・ジョンソンの偉業に道を開いたり並走して活躍してたかっつー点に主眼を置いて、かつ人種差別の生々しい諸相とか黒人コミュニティが差別の時代に果たした役割とか戦時動員と公民権運動の絡み合いとかNASAの前身NACAの変遷とラングレー研究所の栄枯盛衰とか書かれてるもんだからもーう方向性真逆。神話の陰になった部分に光を当てようって話を無神経にも神話の再構築として脚色してんである、この映画は!
あんまりだと思うがこういうのもある意味では真摯なアプローチなのかもしれない。
アメリカ国旗を宇宙に掲げようとするこの新たな組織には、「クリーンにして完璧な技術を持った実力主義の組織として、神話の担い手」になることが期待された。
-p.262
以上NACAの改組に当たって新たに提示された組織方針つーわけでNASA的にはこれで別になんの問題もないっていうかむしろこういうのは歓迎なんだろうな。
原作者のマーゴット・リー・シェタリーがなんか文句言ってるとかって感じでもない。そうは言っても神話は必要っていうヘイト時代の政治的判断だとしたら苦い。現に、家族で見れる痛快娯楽作として売れてるわけだから。原作通りに「誠実に」映画化したらこんなに売れることはなかったんじゃないすか。
せっかく読んだので原作と映画の相違点比較。ただし再三書いているが映画は20分程度寝ているため詳細な検証不可。この原作はおもしろいので映画見ておもしろかった人は全員買って自分で読んで勝手に比較してください。っていうか読め。
むしろ主役はドロシー・ヴォーン
映画が気に入らなかった人の感想として、所詮は天才の物語だから、というのがある。これは誠に残念な脚色の罪で、数学の才能を持ちながらも人種の壁に阻まれ薄給の教員や軍の洗濯工場の期間女工を余儀なくされていたドロシー・ヴォーンの物語は天才成り上がり美談とは程遠い。
原作はNACAラングレー研究所の有色人種計算手オフィス〈ウェスト・コンピューティング〉のほぼほぼ第一期生であるドロシー・ヴォーンの苦難と冒険に満ちた歩みを軸にしていて、メアリー・ジャクソンやキャサリン・ジョンソンは彼女の下から巣立っていったっつー感じになる。
映画ではIBMを使いこなして機械の方のコンピューターの第一人者となったとさみたいに描かれているが実際にはコンピューターはそれ以前から導入されており、ウェスト・コンピューティング解散後のドロシー・ヴォーンはメアリー・ジャクソンやキャサリン・ジョンソンのように華々しく活躍することはできなかったらしい。
ドロシー・ヴォーンがウェスト・コンピューティングに辿り着くまでの道のりだけでも個人的には映画化決定。夫がベルマンとして働いていたウェスト・ヴァージニアの〈グリーン・ブライアー〉というホテルは戦時中には捕虜収容所として利用されていたらしく、ドロシーの子供たちは敷地内の立ち入りを両親から禁じられていたがなんとかして中にいるドイツ人や日本人を盗み見ようとしていたとか(このホテルはその後も何度か物語に顔を出す)
メアリー・ジャクソンは学生ではない
このへん特に寝ていたので自分が信用ならないが、映画のメアリー・ジャクソンは数学の学位がないとかでハンプトン高校かどっかの夜間クラスを受講してたりしたが、実際には学位はあったのでこれは正しくない。
恐らく次のエピソードを換骨奪胎したんだと思われる。1956年、計算手として(だったはず)風洞実験に携わっていたメアリーは上司のカジミエシ・チャルネッキの推薦を受けて技師養成プログラムを受講することになるが、その教室が黒人の立ち入りを認めていなかったハンプトン高校だったため市に特別許可を求めるはめになってしまったらしい。
入り口で躓きかけたものの、晴れてプログラムを修了したメアリーは1958年にはチャルネッキとの連名で空気力学の研究報告書を発表したりしているので可哀想な学生どころではない。技師の職能団体を率いたとか大学生向けのラングレー見学ツアーを企画したとかラングレー志望の黒人たちの世話をしたとかソープボックス・ダービーに出る息子の車作りに超本気になったとかなんか色々書いてあるので大変社交的でエネルギッシュな人生謳歌系の人だったようである。
存在の矮小化が酷い。
ウェスト・コンピューティングは1958年の段階で既に解散
映画では1961年になっても黒人女性計算手はウェスト・コンピューティングに押し込められているように描写されていたと思うが、原作には1956年の時点で既にウェスト・コンピューティング以外の部署で働く黒人女性の方が同部署の黒人女性より多かったと書いてある。(p.254)
戦争を隠さない
たぶん長い原作をまとめてるうちに偶然そうなっちゃっただけでなにかしら政治的な意思が介在しているようには思えないが、ていうかむしろその政治感覚の薄さ、はいはいこれがポリティカル・コレクトでしょみたいなノンポリ的薄っぺらさが腹立たしい映画版だったが、第二次大戦中の1943年から始まる話を1961年に書き換えることの政治的意味つーのは結果的には大きかったんじゃないかろうか。
1943年から始まるということは多く紙幅が費やされているのはNACAなわけで戦後はそうした色は薄まるが基本的には航空兵器開発のサイドストーリーなわけですよ、これは。でも映画は1961年のNASAの話にしてるから軍事色は希釈されてほとんど見えない。冷戦下のアメリカの風俗描写とかも特段なかったんじゃないだろうか。
「戦争の鳥」と題された章にNACA技師ヘンリー・リードの言葉が載っていた。
この研究所に、自分は日本への空爆に貢献しなかったと思うべき者はいない。これを支えた技師、それぞれの職務を果たした整備士や模型製作者、データを処理した計算手、研究結果をタイプした秘書、風洞を清掃し作業環境を整えた用務員、誰もが日本への最後の爆撃の一翼を担ったのだ。
-P.101
これをそのまま使えとは思わないがこれぐらいの重層的な物語であるっていう認識で作ってくれても良かったんじゃないか、映画の制作陣よ…。
トイレ問題
映画で印象的なキャサリン・ジョンソンのトイレ問題(含ケヴィン・コスナーのトイレ標識破壊)は以下二つのエピソードを一つにまとめているように思われる。
一つはウェスト・コンピューティング在籍時のメアリー・ジャクソンが白人エリアであるイースト・エリアに送られた時のエピソードで、白人女性計算手に混じって仕事をしていたメアリーが同僚にトイレの場所を尋ねると鼻で笑われた。メアリーは超ムカついた。「ここに黒人トイレなんてねぇよ」とでも言っているように聞こえたのだ。真意は不明ながら。
そのときにメアリーは白人オフィスを出て有色人種トイレを探しに行ったと書いてある(p.174)。映画ではそれがキャサリン・ジョンソンの日常になってしまうが、原作のメアリーの場合はこれっきりトイレの話題は出てこない。その日、白人エリアでの仕事を終えたメアリーは風洞実験サブリーダーのカジミエシ・チャルネッキと廊下で出くわした。とにかくムカついてたんで何を言ったかは知らないがチャルネッキ相手にめっちゃキレたら、じゃあ風洞来いよとその場でリクルートされたのだった。
これがメアリーのキャリアの転機になるわけだからキャサリンのエピソードとして移し替えてメアリーを潰した映画はまったく酷いと二度目だが、言う。
もう一つはたぶん映画には出てこなかったウェスト・コンピューティングの初期メンバー、ミリアム・マンのエピソードで、法律だったからラングレーではトイレのみならずカフェテリアにも有色人種席というのがあった(p.82)。こんな進歩的な施設でなんでこんな原始的な。腹に据えかねたミリアム・マンはあるとき〈有色人種席〉と記されたプレートを勝手に取って自分のハンドバックに押し込んでしまった。これで平等だ。
だが翌日になると取ったはずのプレートがまた元に戻っている。ミリアムは再び勝手に取る。翌日になるとまた元に戻ってる。勝手に取ったからといって誰も注意したりとかはないが、戻す方も仕事なので戻さなきゃいけないとかそんな感じなんでしょね。
こういう攻防がしばらくあって、いつの間にかカフェテリアに有色人種席プレートは置かれなくなったらしい。ミリアム・マンの根気勝ち。ケヴィン・コスナーがトイレ標識ぶち壊す場面は原作に見当たらないが、仮にこのエピソードをキャサリンのトイレ問題とドッキングしてケヴィン・コスナーの手柄にしたんだとしたら大変いかんと思うがどうなんでしょう。
諸々あるが相違点が多すぎて把握しきれない
映画でキルステン・ダンストが演じていた嫌な女は原作には出てこない、家族とか恋愛とか私的なエピソードはほぼ全て創作に近い形、キャサリン・ジョンソンが掃除婦扱いされるエピソードは原作にはない、あとキャサリン・ジョンソンは映画みたいに神経質な数学オタク風ではなくもっと大らかで肝の据わった人だったらしい、ウェスト・コンピューティングのオフィスは陰気くさい地下ではなく西エリアの二階か一階(ただしどこで読んだか覚えていないため間違っているかもしれない)などなどとにかくいろいろある。
どこでもいいから掘ればなにかしら映画との相違点の出てくるスーファミアクションのボーナスステージみたいな原作であった。おもしろいからみんなも掘ろう。機数アップとかするかもしれない。
結論(仮)
こう、書きながら読み直していてこれほんとひでぇなと思うがしかし同時にまた思うのはたぶんこれが映画の限界っていうやつで、せいぜい2時間前後で原作の豊穣なお話を語ろうとしたらこんな風に脚色せざるを得ない。20分ぐらいは寝ていたとはいえ『ドリーム』おもしろかったので良い映画だとは思いますが映画はやっぱ映画で原作とは全然違うんであれだなこれは、なんかこういうのこそAmazonとかNetflixとかの連続ドラマで完全映像化して欲しいっすね。
あと余談ですがこの原作本は最終的にアポロ計画で結ばれているので映画が『私たちのアポロ計画』だとおかしなことになるが原作はまぁその邦題でもギリギリOK感ある。邦題問題とか原作と映画の乖離っぷりの凄まじさ問題に比べたらウンコみたいなものなのでどうでもいいですが。
【ママー!これ買ってー!】
ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち (ハーパーBOOKS)
帯とかには「映画『ドリーム』原案」と書いてある。映画サイトとかには原作と書いてある。公式サイトとかを見ると原作本は言及されてない。なにかあったのか、そのへん。
こんにちは。本作、映画はサラッと描いていて痛快だったのですが、原作(案)の映画化というのは、いやはや、永遠のテーマですね。『ブレードランナー』と『電気羊……』についての言及もぜひ、お願いしたいです。
ブレランと電気羊の相違点は町山智浩『映画の見方がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』に詳しいです。さいきん文庫版も出たみたいですね。
図書館に借りる予約しました!
(今なら、私みたいなのが沢山いますね)