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いつだって斜に構えていたいので『メッセージ』が大したことなかったというのもあり、これも適当にうまくまとまってんじゃねぇのとは思っていた。『ブレードランナー』の続編なんてとびっきりの野暮企画に期待するものなんてなにもないし公開されたらどいつもこいつも中身そっちのけでわっしょいわっしょい騒ぎやがるのも知っているので余計に近づきたくなくなるが俺予約しましたよ初日の爆音上映2300円。
木戸銭2300円は3Dとか4Dで映画を見る人とかシネコンで映画を見るときにはポップコーンを買う人には普通に思われるかもしれないが俺は1800円の通常料金でも映画見ないんだから。見たい映画があっても1300円前後(上限1500円)じゃなかったら見るの諦めるんだから。全然興味なくても1300円で見られる映画を優先して見るんだから!
そういう人間の差し出す2300円の重みを考えて頂きたい。差し出させる映画の重みを。腹立たしいが『ブレードランナー』の続編だからしょうがない。しょうがないから、腹立たしい。
映画はこのように始まる。前作踏襲の黒バックに説明テロップ。タイレル社潰れました、別の会社がレプリカント事業引き継ぎました、今は古いタイプの野良レプリカントを新しいタイプの従順レプリカントが駆除してます、ゾンダーコマンドみたいなもの。それから見開いた眼の接写。発電効率の悪そうな曇天下のメガソーラー田。言うまでもなく前作オープニングの火を噴く石油プラントと対を成すわけだ。
がっかりするよな。早くもがっかりするじゃないか。だって『ブレードランナー』はおざなりの説明テロップの後でいきなり噴き上がる炎とまばゆいネオンと飛び交うスピナーの近未来がスクリーンいっぱいに広がる。暴力的に2019年のロサンゼルスに連れて行く。
『ブレードランナー2049』は理屈から考えるからメガソーラーっていう選択になるんじゃないすか。なんでそんなつまらないことをするんすかね。ロゴスで前作とブリッジして二項対立の図式に落とし込むなんて『ブレードランナー』的な多様性の世界を否定するようなものだろ。
脚本が前作の原シナリオを書いたハンプトン・ファンチャー。『ブレードランナーの未来世紀』に前作のファンチャー案ではデッカードが潜伏レプリカントを狩りに農場を訪れる場面から始まると書いてあったはずだが続編の方はまさにそれをやる。続編本編に先立つ二本のアニメにも関わっているからどうもファンチャーが『2049』プロジェクトの核心。
脚本家の映画と思えば合点がいくところは多いわけで、前作の台詞や展開を要所要所でなぞったりパラフレーズしたり(同じ効果音を使っていたりもする)とつまり言葉の秩序がどっしり錨を下ろしてる。すべては前作との連関の中でのみ意味を成す。
2時間半もあってやたら長いが何故長いかと言ったらそのための台詞と説明を全然削ろうとしない。寡黙な前作に対してひたすらお喋りが続くから長いのであって、見せる画が多すぎるから長いのではない。
ドゥニ・ヴィルヌーヴはすごい辣腕なのだと思った。結局、退屈な話を上手いことまとめてる。端っから負け戦の大物続編企画をこんだけちゃーんとした形にしたんだから並大抵の才能じゃあないんだ。仕事に徹したんだと思うよ。こんな映画で作家性もなにもあったもんじゃねぇってことを分ってたんじゃないですか。
『複製された男』とか『ボーダーライン』で分身とか正邪の混淆っていう『ブレードランナー』と通ずるテーマをやってきた人が本家でどうそれを発展させるのかと思ったら何も発展しない。ドゥニ・ヴィルヌーヴの映像力はここではもっぱら何度も見たあの世界をちょっとずつズラしていくためだけに使われる。
ハンプトン・ファンチャーのカビの生えた世界観はハリウッドSFの限界を感じさせるばかりでこれならクソミソ言われたスカヨハ版『ゴースト・イン・ザ・シェル』の方がよほど先進的でチャレンジングだったように思う。
っていうか、映像的にもテーマ的にも完璧被ってしまっている。
なんでこんな腹が立っているかということを正確に書くとネタバレになる。婉曲に表現すればゴミを否定されたからということになる。ゴミはゴミだと言われた気がする。ゴミは可哀想だと言われた気がする。ゴミに手を差し伸べようと言われた気がする。ゴミとか言うと角が立つがつまり無価値とされるもののこと。
こんなチープなヒューマニズムは最悪である。ヒューマニズムの美名に隠れたレイシズムとも言えよう。やさしさの暴力。ハリウッド映画の脳筋思考様式。他者の他者性を剥奪して己の領域を死守しようとするリベラルを気取ったスーパー保守。
俺が『ブレードランナー』を好きなのはそういう土臭いところがないからで、マーケットとかストリップバーとか廃アパートとか地べたを這いずり回ってはいるが都会的な、浅草のゲテモノ趣味が都会的で銀座のスノッブが田舎的っていうような意味で都会的な感覚に全幅の信頼を置いているから素晴らしい。
『ブレードランナー』はゴミを恐れたりしないしゴミを見下したりもしないわけですよ。むしろ逆。ゴミ、ガジェット、見世物やまがいもの、欠陥や荒廃、の中にこそおもしろさや美を見出そうとする洒脱。あんな珍妙な世界観を誰が真剣に受け止めるか。だがあやしいからこそ信じるに足るということもある。
嘘くさいから感動的っていう感覚が分からないから『2049』みたいな野暮天になるんだっちゅーの。嘘は嘘で感動は感動、人間は人間でレプリカントはレプリカント、本気と本音が幅を利かせる血と汗と涙に塗れたシリアスな殺し合いの世界、なんて誰が『ブレードランナー』に期待するんだっちゅーの。
世界の形はそれだけじゃないと見せてくれたのが『ブレードランナー』なのに。ゴミの中でも優雅に生きる方法はあると。フラヌールと道化の精神で。遊びながら。
あとなにもかも前作と対になっている『2049』は『ブレードランナー』と言えばな街の場面が僅かしかない。リドリーヴィルに対してのヴィルヌーヴィルはない。街がないということは生活感がない。市井の未来人の顔が見えない。するとスケールは大きくなったのに世界の形は見えにくくなってしまった。ディックはいつも日常生活の取るに足らない違和感から世界の探求を始めるのに。
そもそも原作『電気羊』の映画化企画を持ちこんだのはハンプトン・ファンチャーだったはずだがこんなシナリオを書く。ちゃんとディックを読んでいるのかと思う。ディックから市井のうらぶれ生活を抜いたらそんなものはディックじゃないぞ。
原作を読んでないリドリー・スコットの方がよほどディックを理解してるんじゃないすか。リドスコ版『ブレードランナー2』こと『エイリアン:コヴェナント』のパルプな衒学趣味などを見るに。脱力ユーモアを見るに。
野蛮な想像力を穏当な理性で押しつぶすことの倒錯した野蛮は右でも左でもゼロトレランスが大流行中の世の中には歓迎されるんだろうか。ぼくは動き回るオモチャの方が好きです。
【ママー!これ買ってー!】
Blade Runner Trilogy – O.S.T. (Aniv) (Dig)
拒絶反応が出たのはディスク3のヴァンゲリス自身による『ブレードランナー』インスパイア楽曲集を架空の続編サントラとしてずっと聴き続けてきたからというのもあるんじゃないかとふと思う。
ハンス・ジマー&ベンジャミン・ウォルフィッシュの『2049』サントラも良かったけど。
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