《推定睡眠時間:5分》
劇中に出てきた簡単なゲームは集団行動とか協調性学習の一環として実際に行われている遊戯療法なんだと思うがなんという名称かわからない。
ルールは簡単。一列に並んだ参加者に教師がイエスかノーで答えられる単純な質問をしていく。イエスの人は列の反対側にある線まで歩いて行く。ノーの人はその場から動かない。
嘘をついたことがある人は? 人を好きになったことがある人は? 夜の街で遊んだことがある人は? とこう、教師の設問に合わせて、当たり前だが最初は一列だった参加者の並びが行ったり来たりでダイナミックに変動していく。
これをしばらく続けた後、頃合いを見計らって教師は参加者に設問を委ねる。参加者は自分で設問を考えて、一つ終わると次の参加者に出題役を回す。
どんな稚拙な問いでもいいから自分で考えて他の参加者に出してみる。チョコレートは好きですか? 出された問いが自分に当てはまるか自分で考えてみる。犯罪に手を染めそうになったことは? 自分の意思で歩いたり歩かなかったりする。すれ違ったりすれ違わなかったりする。一緒に歩いたり一緒に歩かなかったりする。一緒に歩いていたと思ったやつが、ある設問で列が別々になって一緒には歩けなくなったりもする。
これが、なにがそこまで刺さるのか皆目見当もつかないが今こうやって書きながら嗚咽してティシューを幾枚消費する程度には脳髄を直撃している。あぁ人生の縮図だねこりゃあ見事見事メタファー見事、人生は続くよと理性的な解釈の上ではそうなるが解釈で泣けるのならばその極端なまでに洗練された文彩から言って全ハリウッド映画はこれより遙かに泣けるはずだがそうではないから、まぁ、映画はこういうことがあるから面白いですねという話。
しかし皆目見当もつかないとか言うとアウラがどうの映画の本質がどうのみたいな映画魔術論(そんな論があるのでしょうか)に陥ってしまい内輪を周回しながらノスタルジーの引力により映画の地平面で存在が凍結されかねないため映画進歩主義を標榜する僕としてはたぶん例のやんごとなきSF超大作に対する不満と憤りがここで涙の形態を取って噴出したのだと推測したい。
映画を褒めるために別の映画を貶すという暴挙! 知ったことか。比較も悪口もない八方美人の感想がほしけりゃ糞ブログなんて見てねぇでホストでもキャバクラでも行けや。見る側が感情の共有とか快楽の共有を無条件で肯定する糞つまんねぇ態度取ってるから映画もつまんなくなるんだわ。
言いたいことはシンプルでありつまり要するにだ、俺が『ブレードランナー』が好きなのはゴミをゴミとして肯定してるからだしクズをクズとして肯定してるからだし『ブレードランナー2049』が嫌いなのはゴミもクズもあるべき姿を損なわれた哀れな存在として設定されたあげく適切な場面で適切な感情を喚起させるエモい風景の中で全てが標準的ヒューマンスケールに整形され貶められているように感じたからで、一方あの名称不明の遊戯療法の場面にはそこからあぶれたフォークト・カンプフテストをクリアできそうもない人たちがそれぞれの仕方でこの世界に息づいているしその生き方がたとえノーマルな観点から見て程度が低いように見えたとしても決して間違った人生とか可哀想な人生とかそんな風に言われる筋合いはねぇわいと明確に提示していたように思ったのだ。全然シンプルじゃない!
とにかく、『ブレードランナー』はポジティブな対立項が形作る混沌の生きた世界だが『ブレードランナー2049』は排除と欠如の論理で形作られた静止した死んだ世界という風に俺には見えた。そのことは様々な論者が指摘するようにタルコフスキーの影響と無縁ではないだろうしだとすれば『惑星ソラリス』の異星の海が、ノスタルジーで武装した死の誘惑だったことぐらいは想起してもいいはずだ。ノスタルジーがたとえばポピュリズムやナショナリズムの最大の駆動力であることも言っていい。
『ブレードランナー2049』は前作との間で一度リセットされた世界と設定されているのだから以上のことは表現としては全く正しいと思うが、ストーリーと一体化したエモーショナルな映像と明瞭な語り口の見事な統一感が静態的な陶酔を引き起こすような作劇は、つまりドゥニ・ヴィルヌーヴという人はすごい監督だなぁと映像表現の観点からはそういう結論になるわけだが、すごいからと言って手放しで褒められるものなのか、『ブレードランナー』とフィリップ・K・ディックはゴミのゴミとしての可能性を信じたものではなかったか、視界から排除されるものを描き続けたのではなかったか、足を引っ張ったり邪魔してくるやつの出てこない映画は気持ちいいが、気持ちよさに身を委ねるポピュリズム的心情の危険を今世紀初めに『オトナ帝国の逆襲』で経験したはずの我々がいや我々っていうか俺がだよ『ブレードランナー』の続編でそれを受け入れていいのか、少なくとも異議のひとつやふたつ差し挟まなくてもいいのか、ていうのがあるんだよ俺には!
お前それ『グッド・タイム』全然関係ねぇじゃねぇかよと言われそうだから非常に苦しい言い訳をするが、マンハッタンの俯瞰映像から始まってカメラがぐーっとビルの窓に寄っていくと、その部屋には監督も兼任するベニー・サフディ演じるニックと医者のような男がいる。
男はニックに訊ねる。この言い回しの意味がわかるかい? 簡単そうだがニックには分からない。そこは知的障害者の養護施設で、ニックは入所に際して知能テストを含めた診断を受けていたのだ。これが映画の導入部だがこの一連の流れと慣れない場所に連れてこられてやりたくもないテストに動揺するニックの表情に『ブレードランナー』の冒頭とコワルスキーの顔が強烈にダブったんである。
『ブレードランナー2049』がその完成度と引き換えに捨てたものが偶然にもここにはあった。それこそディック的なゴミと偶然の可能性だ。『ヴァリス』さながら。『スキャナー・ダークリー』のジャンキー療養施設も去来するってもの。それは、涙も流れようというものだ。
ていうわけで『グッド・タイム』です。このボケっとした弟がイラチの兄貴ロバート・パティントンと銀行強盗する(させられる)が失敗、収監。やっていることはろくでもないが兄貴は弟思いだったため釈放を求めて夜のマンハッタンをひた走る。で、走れば走るだけ色んな底辺人間を巻き込んで話が脱線していくのだった。
ネオンカラーで染め上げられた犯罪都市マンハッタンの画に乗るシンセサウンドはワンオートリックス・ポイント・ネヴァという人の作らしいがこれが、なんだかタンジェリン・ドリーム。ていうわけで第一印象マイケン・マンで、『ザ・クラッカー』とか『コラテラル』とか結構近い雰囲気のクールな美学的ハードボイルドの観。
武士的糞真面目なマン人間と比べると『グッド・タイム』に出てくる人間はだいぶいい加減で汚くてバカで底辺感が増しているが不思議とマン人間に劣らず艶を感じるのは底辺なりの規範意識とか筋を通そうとする姿を丁寧に切り取っていくからじゃあないか。
一夜の刹那の出会いの中で各々の果たすべき義務や矜持の・ようなものがパっと現れては散っていく。情とかそんなものは誰も出さない。これがいい。善行だろうが悪事だろうがやると決めたことはやる底辺どものストイシズムは見方を変えれば頭の悪さでしかないかもしれないが、たとえどれだけバカだとしてもそこにはナマの美しさがあるんだ。
特徴的だったのは変則的な編集で、スムーズに進んだかと思えば大して重要に思われない場面で急に流れが滞ったり、かと思えば一気にダイジェスト的に進んでしまったりとリズムが定まらない。揺れ注意なドキュメンタリー風タッチで進行していたのに突然モノローグ進行の回想に入ったりする反美学の美学。
変則編集にワンオートリックス・ポイント・ネヴァのシンセ音楽が乗ると妙に高揚感があっておもしろいがなにか意味を求めるなら主人公の、ロバート・パティントンの物語を伝えることを目的とした編集じゃないっていうことなんじゃないか。
シドニー・ルメットの映画のようでもあった。絶対に美談には収まらない人間関係のダイナミズムをそのままスペクタクルに昇華したシドニー・ルメットだ。『十二人の怒れる男』が何度見てもおもしろいのはあの陪審員たちの誰一人として主人公とか結末とか映画の中で中心的価値を帯びているものに奉仕しないでキャラクター自体を生きているように感じられるからだと思っているが、だいぶ変形した形でその民主主義的なというかヒューマニズム的なというかまぁなんでもいいがとにかく、そんなようなものが俺には感じられたのだ。
主人公も物語も立てない映画が『グッド・タイム』だから映画は終わってもその世界は終わらない。つまりは良い話なのか悪い話なのか言ってはくれない。そういう風に単純化してまとめようとしない。どうせ世界は語り尽くせないんだから果敢にして誠実な作劇ってもんじゃないですか。語るために世界を売るな。語り得ぬことは語ってはならないと誰かが言ったぞ。ザラザラした地面に戻ろうとも。
【ママー!これ買ってー!】
トム・クルーズがめちゃくちゃわがままな映画。