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原作の感想→映画原作『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』を読む
結論から言うとそれなりにおもしろかったが見終わってすこし肩を落とした映画で、どうせ実話だしネタバレアラートも出しているので言ってしまうが、主人公のユダヤ人歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)が勝訴するわけである。
裁判映画だが何を争ったかというとこれは名誉毀損の裁判で、ホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングがリップシュタットに名指しで中傷されたのなんのと訴えを起こした(映画に従えばアーヴィング側の汚い策略によって)
ホロコーストの有無がどうのというのはその裁判過程でリップシュタット側の弁護団が俎上に上げた論点で、要するにホロコーストは無かったと主張するアーヴィングの言説がいかにデタラメがつまびらかにすることで、自らの研究がリップシュタットに否定され中傷されたとするアーヴィングの訴えを土台から崩そうという法廷戦略らしい。
原作はリップシュタットの回顧録と知り落ちた肩が更に落ちるがそもそもどうして肩が落ちたかといえば端的にこういうのスカっとする良い話にしないでお願いしますよ実話だし出てくるの存命人物だし。露骨じゃないすかあまりにも。宣伝臭が、ロビー臭が。
どういう結末を迎えるか。勝訴したしアーヴィングのバカなんかほっとけ、と終わるわけである。なにも終わってない。まったく何も終わってない。この結末から想像できるアーヴィングのその後は一つだけしかないわけで、結局、コア支持層は裁判の結果アーヴィングがいかに適当な人間か明らかになった後も離れたりしないし、その主張に益々確信を深めたりする。陰謀説を伴いつつ。
なんなら気に食わないユダヤ女に一泡吹かせた(などと主張しており…)ヘイト界隈のヒーローにさえなるんじゃないの。もうそういう光景は2010年代に目にタコ。その場合バカであることは親しみやすさとしてバカどもにはプラスに働いたりするっていうのも目にタコだろうよ。
実際の裁判は2000年とかのことだからそれは考慮しないといけない。いけないが今は2017年だし時代は変わったのだしていうか時代が変わったからこういう題材を映画化しようという企画なんだろうと想像はつくが作り手の発想が2000年からアップデートされていないのは場合によっては毒。予防接種も使い方を誤れば毒になる。
この映画の発想というのは要するにバカは相手にするなに尽きてしまう。もう、正直バカを放逐してどうにかなる時代じゃないと思うよ。放逐されたバカはバカ同士連帯してカルトなバカ共同体を作るし作ることが可能なんだからこのネット時代、バカも集まりゃなんとやらでそれなりに政治力持っちゃうんだからバカが、しかも動員しやすいんだからバカは。
リップシュタットの回顧録を原作にしてる手前大幅な改変は難しいとしてもだよそこはさそこは映画人の良心とかあってもいいんじゃないのもうちょいだけさぁ。リップシュタットを純粋な被害者兼ヒーローにして(実際にそうだとしても)、デイヴィッド・アーヴィングを無知蒙昧で品性下劣なクソバカにして(実際にそうだとしても!)、クソバカをヒーローが倒して良かったねで終わらせちゃうことの意味を考えてみてくださいよ。
もし俺がネオナチの類いだとしたら、映画業界に太いネットワークのあるユダヤ人が金に物言わせて云々と益々閉鎖環境でヘイトを募らせるだけで、なんの啓蒙にもならないだろう。
そもそもバカに見せる用には作られてはいないんだろうけれども。
なんせ裁判の結果はわかっているわけだしストーリー的にはあんまりおもしろくない。ホロコーストの有無が云々というのは内容的な話で、映画自体はホロコーストがあったことを前提とした作りになっているのでそこにサスペンスとかはない。するとバカをどう攻め落とすかとそういう展開にならざるを得ないわけである。
政治的な正しさを取って映画的な面白味を捨てたように感じる。別に俺だってホロコーストがなかったとは微塵も思ってないが、事実と作劇は別々に考えるべきで、さもなければ劇映画にする意味なんてないんじゃないだろうか。だってこれ回顧録あるんだし…。
レイチェル・ワイズ演じるリップシュタットは気丈で美しくて勉強熱心で頭の回転が速くてユーモアセンスもあり社交的で友人も多く情に厚くかわいい犬と一緒に毎日ジョギングしている健康的な人である一方、ティモシー・スポール演じるデイヴィッド・アーヴィングはいかにも鈍重で下品で歯が汚くて不健康で一言で言えばあんまり関わりたくない人である。
あえて断言するがたぶんその通りなのであるがいやだから! 実話の映画化で事実と作劇が歩調を合わせて良いのかっていう…だってデイヴィッド・アーヴィングを演じるのが仮にコリン・ファースだったら客の印象全然違うだろ絶対。
そういうのが映画的創意だし…ホロコーストなかった論はもとより歴史修正主義とかデマとかフェイクニュースが問題だっていう意識が作り手にあるなら逆に、こんな風に客を安心させたらダメじゃんておもう。そこ、客に葛藤感じさせてもっと真剣に考えさせたら良いじゃん、こんな予定調和にしないでさぁ…。
ただ最後に少し、おっと思うところがあって。イギリスの裁判制度はまったく知らないが原告と被告で合意が取れれば陪審員じゃなくて裁判官に判決を委ねることができるとかなんかそういうのがあるらしく、この裁判も裁判官に一任されたのだが、アーヴィングの自己弁護が超あんまりなので楽勝っすわーと思ってたリップシュタット側に裁判官が冷や水を浴びせる。
リップシュタット側が突きまくったアーヴィングの著作の穴や発言の矛盾について、これを故意ではなく強固な妄想に起因する無意識の産物なんじゃないのと指摘するわけである。
※2018/1/7 追記
原作の該当部分を読んだらこれは曲解だし諸々すっ飛ばしていたので反省。『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』(ハーパーBOOKS)のp.468によれば、グレイ裁判官はまずある人物が心から反ユダヤ主義的な思想を信じて発言しているのならその人物は「純粋な反ユダヤ主義者」で「純粋な過激論者」と認めてよいのではと言い、それからリップシュタット側リーガルチームの山のようなファクトチェックの結果を踏まえ、アーヴィングが「純粋な反ユだヤ主義者」で「純粋な過激論者」であることと、リップシュタット側の主張するデータの捏造や記録の歪曲は別問題なのではないかと言ったのだった。
結果的には判決で故意のデマ認定されるがこのへんフェイクニュースとか歴史修正主義もんだいの結構重要なポイントなんではないかと思った。だけに、ユダヤ人を追放しろと叫びながら差別はしていないと本心から思っているような理屈の通じない人間をどうすべきかの難問にぶつかっていかないのはやっぱりどうなの、そこ触れないでスカっと終わっちゃっていいのっていう疑問もまた出てくるわけだが。
映画の中にこんなような台詞があった。アーヴィングはプロの研究者じゃない。裁判を使って自分の主張を認めさせたいだけだ。
証言台に立つことを望むホロコーストサバイバーに対してのこのような台詞もある。裁判では傷は癒やせない。
なんか惜しいところをかすっている気はするがそれ以上は立ち入らない。うーむ。いいのかそれで。いやリップシュタットの回顧録を基にしてるんだからアーヴィングの懐に踏み込まないのは当たり前なんですが。
アーヴィングとの討論を拒むリップシュタットにそれが民主主義かとアーヴィングは吠える。それに対するラスト近くの映画的返答の残酷さに、『十二人の怒れる男』で描かれたバカ相手の不可能な討論の治療的可能性を頭の中で対置させたりする。
だが思えば、『十二人の怒れる男』の陪審員たちもユダヤ差別に対しては厳格な無視と沈黙で応じたのだった。
ホロコーストを語り継いだり歴史修正主義との戦い方を示したりしてたいへん意義のある映画だなぁとはおもうがトランプがエルサレムをイスラエル首都認定? なんて錯乱ニュースまで加わると、ぼくはもうこの映画を否定も肯定もできずどううけとめたらいいのか皆目わからないね。
【ママー!これ買ってー!】
ニクソンめっちゃいいやつじゃんみたいな瞬間とニクソンやっぱ腹黒いじゃんな瞬間がランダムに来るのでスリリング。
こういう危うさあったらよかったとおもう。
↓その他のヤツ
!寝なかったんですね!私は前半推定15分は寝てしまいました…こういう案件にも、裁判って行われるんだなあ、って何だかすっきりしなかったな。
リップシュタットの著作の中にアーヴィングを名指しで中傷する記述があったんです。それがどういうものかと言いますと、アーヴィングは史料を改ざんしてデマを広げるヒトラー信奉者で最悪の歴史修正主義者だ、みたいな。
原作になっているリップシュタットの裁判回顧録を読むとリップシュタット本人が明確にアーヴィングの信用の失墜を狙ってそう書いたと認めていて、それでアーヴィングは半ば自著の宣伝目的で名誉毀損の訴えを起こしたんですが、まぁリップシュタット本人が前述の通り毀損の事実は認めているので法廷で勝利を勝ち取るには「ヒトラーはホロコーストを指示していない」「ガス室は存在しない」とかそういうアーヴィングの主張を覆すしかないと。
つまり、そのことを証明できればリップシュタットの表現は確かに過激だったが事実を指摘しているだけなので名誉毀損には当たらないとそういうリップシュタット側の弁護団の判断、そういう案件だったんです。
原作は結構長いんですが、これは映画より原作の方が分かりやすいですし面白いなぁと思いました。
あー、そうなのか…私は、その、裁判の準備段階をすっ飛ばしてしまったのかな。とほほ。論点を逸らさないようにする弁護団の力量が肝要ですね。詳しくありがとうございました。