《推定睡眠時間:0分》
すこしぐらいは寝たかったが最近は映画館で寝れなくなってきているのでちゃんと見てしまって困った。なんていうか、映画には合う見方と合わない見方がある。あるでしょう…?
それは確かに全編丸ごと目を皿にして微に入り細を穿って…という風に見た方がおもしろい映画もあるしまた最近の大作映画は本当に隙がなく作り込まれているからそういう見方に耐える強度もあるでしょうが…しかし世にはちょっとぐらい寝た方がおもしろくしあわせに見れる映画というのもあり、たとえば新橋文化で見た『ディヴァイド』(何度も書いているので略)何を見るかよりもどう見るか、が重要な映画もある…。
厳しい。『レディ・ガイ』は厳しかった。ハードボイルドだった。まばらな客の苦虫を噛みつぶしたような表情と、帰り際の気落ちを隠せない背中にエドワード・ホッパーの『ナイトホークス』が重なる…。
エンドロールにテーマ曲(スコア):ジョルジオ・モロダーのクレジットが出るが「おぉ!」ってなるより「あぁ…」ってなる。この厳しさはまたポール・シュレイダーの仕業かと思ったが監督ウォルター・ヒル。どっちでもいいやとしか思えないぐらいこころが乾いてた、終わった後。
男体化ミシェル・ロドリゲスがハードボイルド殺し屋。氷雨に濡れ蒸気くゆるハードボイルド街のハードボイルド的華僑安宿に泊まってたら謎組織の謀略によって拉致そして女体化。ハードボイルド復讐行脚が始まる。
このようなあらすじに偽りはないが回想ミステリーの体、無責任能力殺人のかどで病院に収容され中のレクター博士的病み闇医者シガニー・ウィーバーが俺が殺したんじゃねぇよハードボイルド殺し屋の女体化ミシェル・ロドリゲスが…と語るがそんなやついるわけねぇだろと誰も信じてくれない。
果たしておとこミシェル・ロドリゲスからおんなミシェル・ロドリゲスに変身してウィーバーを貶めたハードボイルド殺し屋など本当にいるのだろうかという話になるがそこ興味あります? 俺はなかったです…。
見せ方によっては『おれの中の殺し屋』、欲望の抑圧と倒錯した性的ファンタジーの歪み系ノワールであるからそのへん狙った気配も、ノワールジャンルのジェンダー論的解体の意図とか、あるいはまたセルフパロディの狙いも見えるがそういうところがあろうがなかろうがただもうただただ、淡泊。枯れた。面白くなかったからどうでもいいんだ…。
おとこミシェル・ロドリゲスもおんなミシェル・ロドリゲスも演じるのはミシェル・ロドリゲス。おとこミシェル・ロドリゲスのときには濃厚顎髭をたくわえている。おんなミシェル・ロドリゲスのときは髭がなくなる。おとこミシェル・ロドリゲスのときは上品な婉曲表現で言えばペニーがある。おんなミシェル・ロドリゲスのときはマニーがある。
ペニーもマニーも無修正でなにかうれしい(マニーはさすがにヘアである)。興奮とかはぜんぜんしないけどなにかうれしい。うれしい気持ちは同人じゃねぇかよの冷静にかき消される。エロ同人じゃねぇかよ、セルフパロディやってるし。
こういうのは楽しんだもん勝ちみたいなのが世の趨勢なのではないのですか。うわぁ、ミシェル・ロドリゲスにペニー生えてる! イイ顔で画面見ながら俺なんか悲しかったですよごめんやっぱノレないす。せめてポール・シュレイダーの映画だったら笑って消化できたのにな…。
おとこジャンルの80年代映画職人の現代映画、全般的に厳しい説。半隠遁状態で悠々自適にアマプロ音楽家風情のジョン・カーペンターは正しかった(でも新作見たいよたとえ厳しくても確実に厳しくても…)。
【ママー!これ買ってー!】
枯れは枯れでもケヴィン・スミスの枯れはユーモアの洗練と軌を一にしているのでまだ見れる感。最終的ジャンルは『Mr.タスク』系な変身人間ものだった『レディ・ガイ』ですが映画館で見ながら次の出勤のことを考えて黄昏れてしまうのはどっちも同じだった。なんか思考に余白を生む…。