《推定ながら見時間:45分》
先に言っておきますけど俺はこれアマプラで見たので映画館で見た人とは印象がだいぶ違うんだろうなぁと思います。かなり、ながら見してるし。
でも俺は映画館で見ても大抵の映画は何十分かは寝るのでちゃんと見ていないという意味では映画館鑑賞でもストリーミング鑑賞でもさして変わらないかもしれないが…。
シリア戦争関連映画。情勢の泥沼化に乗じてシリア北部の地方都市ラッカを占領、勝手に「イスラム国」の首都にしてしまったISとのメディア戦争に身を投じた地元青年たちの自主報道グループ「ラッカは静かに虐殺されている」(Raqqa is Being Slaughtered Silently:RBSS)の活動を追ったドキュメンタリー。
投じた、と一応過去形にしてしまったのはISがとりあえず同一組織としては再起不能な程度には崩壊してラッカも反政府軍の一派によって昨年に解放されたらしいので。
その映画がようやく日本公開されたと思ったらアメリカ主導の有志連合によるシリア空爆でまたシリア戦争が新たな局面に入ってしまうわけだから皮肉な巡り合わせっつーかなんつーか。
ある意味っていうかそのタイムラグがリアルタイムで見るのとは別の面白さを浮かび上がらせてる気がしたな。面白さっつーとあれですけど、なんか出てくる市民ジャーナリストの人たちが言うわけですよ、ISは組織じゃなくて思想だから死なない、みたいなことを。
それたぶんISがとりあえずぶっ潰れた今だから重くのしかかってくる発言なんじゃないすかね。IS潰れた! って言われるとなんか安心感出ちゃいますけど、いや安心してんじゃねぇよ何も終わってねぇよっていう。
俺なんかは映画の最初の方に出てくるISの蛮行を見て懐かしいなぁって感じになっちゃいましたからね現に。でも別に懐かしいことも過ぎ去ったこともないわけですよシリア戦争全部現在進行形なので、っていうのを逆説的に突きつけられるところがあったな。
そういう耳痛な警鐘を含有しまくってるにも関わらず、ながら見しがちな鑑賞になったのは静かな映画だったから。
麻薬カルテルの支配に反旗を翻して結成されたメキシコの自警団(と、国境の向こうで結成されたアリゾナ自警団)の活動を立ち上げから終焉までひたすら撮り続けた監督マシュー・ハイネマンの前作『カルテル・ランド』はハイネマンが直に遭遇した銃撃戦とか拷問の映像がバンバン画面に入ってくる。
あくまで俺の感覚では、と前置きした上で言えばさながらリアル『スカーフェイス』であった。
なのでシリア+IS+マシュー・ハイネマンの組み合わせから導き出される『ラッカは静かに虐殺されている』の事前脳内イメージは血みどろの戦場だったんですが、実際見てみると静かな虐殺に亡命先から静かに抵抗する人たちの生活を追った映画ということで、このへんちょっと自分の業を感じて動揺してしまった。
俺そんなに人が死ぬところを期待してたのかっていう。反省はできないからしないけどそこは自戒を込めて書き記しておきたい。
静かな映画ではあったがこっちにも銃撃とか処刑はやっぱり出てくる。ただ『カルテル・ランド』と違うのは基本的にハイネマンの直撮りじゃなくてシリア市民撮影のスマホ映像とかIS自身による見せしめ兼リクルート用のプロパガンダ映像から引用してたりするところ。
なるほどこれがメディア戦争。生の蛮行をカメラに捉えるよりIS的なプロパガンダ組織の怖さがよくわかる。言われてみればISのプロパガンダビデオなんぞマトモに見たことがなかったが、いやぁ、驚いたなぁちゃんとした映像作品じゃん。
これなんかたいへん印象的だった。なんかライフル持ったISの兵士が戦闘地帯を走ってて、サッと屈んでスコープを覗き込むとワンカットでカメラがスコープ画面に切り替わる…ってつまりFPSの実写再現。
でもこのFPSはゲームじゃないのでスコープの先に映し出されるのはどうもリアル殺害映像っぽいのだった。RBSSメンバーが映像を解説する。
「まるで『グランド・セフト・オート』。現実でグラセフができるのにわざわざゲームでやる奴なんている?」
FPS風もあればハリウッドアクション風もある。いずれにしても共通するのはリアリティの欠如と空想的ヒロイズムで、そう考えればISというのはイスラム原理主義の衣を被った純粋な宣伝集団なんだろうと思えてくる。
ISは組織じゃない、と語るメンバーの発言に膝を打つ。宣伝集団は宣伝するためにこそ集うのだから、ISの場合は途中から手段と目的が逆転してそうなったっぽいが、思想すら失った宣伝集団は自己顕示欲やルサンチマンを無尽蔵に吸収して、姿形は都度変化するとしても決して死ぬことはないだろう。
ということを強く思わせたのはドイツでシリア支援を訴えるデモを開いたシリア難民たちと移民排斥デモの排外主義者たちが衝突するというか、やや奇妙にも思えるが同じ場所に同居してしまう場面で、排外主義者にしてみれば目の前に排除すべき人々がいるはずだが、どうもあまり関心を寄せようとしない。
それはもちろん警官隊の目を気にしてというのもあるかもしれないし、カメラに写らない小競り合いはあったのかもしれないが、それにしてもシュプレヒコールとプラカードを上げることに手一杯で、まるでRBSSメンバーを含むシリア支援デモの人々など見えていないようなのだ。
ショッキングなシーンだったがたぶんそれは排外デモの暴力性ではなくて、自分たちの存在をアピールする示威行為以外にはなにも興味が無いし、その示威行為の孕む暴力性なんか考えたこともないような極度の宣伝性がショックだったんだろうと思う。
ラッカ残留組(情報を亡命組に送るため)はもとよりヨーロッパ亡命組もISから直接的な脅迫を受けることしばしばだったが、あくまでIS崩壊後の今の目線で見れば、おそろしいのはISの物理的脅迫よりも表面的には安全な排外デモの方であって、そこにはISの宣伝第一主義がそのままの形で受け継がれているように見えたんである。あるいは主義としてではなく手法としてのナチスが。
だからちょっと考えてしまったな。たぶんこの映画は、というか映画ならなんでもそうでしょうが、視聴者の散漫を許すストリーミング鑑賞だと作品と感情的に距離を取ってしまうところがある。
映画館で見るとそうじゃないわけで、途中でタブ変えたりスマホ見たりできないから映画に没頭するしかない、そういう没入的な環境だとやっぱり作品との感情的な距離は近くなる。
映画を見るにどちらが好ましいかと言われれば俺は基本的には映画館で受動的に見たい(自宅鑑賞は能動を要す)のですが、その受動性と共感で作品と結びつく鑑賞態度っていうのは宣伝を消費するときの態度と同じなんじゃねぇかと思ってて。
それがなんか難しいなぁと思いましたね。映画ではクローズアップされてなかったんですけどマシュー・ハイネマンは亡命前のRBSSとラッカで行動を共にしていたそうなので、そこをたとえばサスペンス的に盛り上げることは全然できたと思うんですよ。
でもやらなかったのはISの誇張された扇情的なプロパガンダにリアルな情報で抵抗する人々を描いてた映画なわけだから、そういう煽った作りにしちゃったらISと同じになっちゃうじゃんみたいな冷静な意図があったんじゃねぇかっていう。
『カルテル・ランド』が実にこう、不謹慎にもテンションの上がりまくる映画だったので、それはどうなんだみたいなところ作ってる本人的にもあったのかもしれないし。
で『カルテル・ランド』を超興奮して映画館で消費した俺としてもそれで良かったのかっていう、映画を楽しむことはどんな場合でも絶対に悪いことじゃないと思うんですけど、ただその受容の仕方は結局ISのプロパガンダビデオ見て興奮しちゃってIS志願する人とそんな変わらないんじゃないかっていう、でも一方で共感で距離を近づけないことにはこの人たちの頑張りとか訴えにも近づけないんじゃないかというのもあって…ちょっとなかなか考えがまとまらないんですけど、色々と考えさせられる良い映画でしたね。
出ちゃったよ、なんて言ったらいいかわからない時の逃げの締め言葉…。
【ママー!これ観てー!】
映画館で観ていればもう少しストレートに受容できたような感じはある。
↓その他のヤツ
シリア戦争の発端から全面展開に至るまでの流れがたいへんよくわかったのが『シリア・モナムール』という映画で、詩的なモノローグについつい眠くなってしまうが(寝たいんじゃないんですよどうしても我慢できなくて寝ちゃうんですよ…)もう一回観たいなぁと思ったんですが、再上映もソフトもストリーミング配信もないのでとりあえず予告編だけ貼っておく。
ジャスミン革命の流れだからシリア戦争では当初より市民ジャーナリズムが大きな役割を果たしていたんだなぁ、ということで『ラッカは静かに虐殺されている』の予習に最適だと思うんすけどねぇ。
こんばんは。ドキュメンタリーという名のフィクションに浸っている自分に、シリアの現実は遠い。それは幸せでもあるし、恥ずかしくもある。です。
何のことやらよくわかりませんが、どうせ一般人にどうにかできる次元の話じゃないので、こういうのは知っておくとか見ておくっていうだけでも充分なんじゃないですかね
いつもご返信ありがとうございます。今度見よう!と思ってる映画が、次々と貴レビューにアップされるので、読まないようにするのが大変です。
(置き手紙ですので気にしないで下さい)