頭悩ませ映画『私はあなたのニグロではない』の感想

《推定睡眠時間:0分》

良い映画だなぁと思ったので俺にしたら珍しいことなんですがパンフレットをその場で購入、開くとこれがまぁ文字文字文字、ひたすら文字で埋め尽くされた濃密ガイド。
ブラックカルチャー、サウンドトラック、引用された映画+α、作家ジェームズ・ボールドウィン、アメリカ政治と黒人受難史…とビッチビチに文字の詰まった各々角度の違う論考5本に監督ラウル・ペックによる作品解説が付くがその文字数、きっと5000字超。念のため言っておくが監督作品解説だけで。

著名人による映画と直接関係しない本多数の意識拡張系ブックガイドには絶版本もちゃんと掲載してある。もう充分だと思いますがトドメは巻末に付されたシナリオ採録、ここまでくると紙面に刻印された担当した人の熱で目が焼けそうな思いだ。目がぁ! 目がぁ! ふざけるな。

内容もそうですが部分的にpaddingゼロの独特レイアウトが視覚的にも情報密度の濃さを演出して、とにかくこれはストロングスタイル。
修飾なんていらねぇよ。陳腐なごまかしなんてまっぴらだ。剥き出しの情報だけをひたすら浴びろ! これはこれで、美麗スチルとホスト的レトリックで映画を賛美するだけの虚飾パンフ(に甘やかされた俺みたいな駄客)に対する一種のプロテストと言えるかもしれない。

と最初にパンフのことを書いたのはなんかパンフ読んでたらムカついてきちゃってですね…それ書いてるお前らだって結局は安全圏から物言ってんじゃねぇかよっていう…いやこれは順を追って説明しないと伝わらないし順を追っても伝わらない人には伝わらないと思うんですけど、なんつーんすかね、それズルくねみたいな。
その自分は絶対に汚れないポジション取り汚くねぇかっていう…なに言ってるかわかんねぇでしょうね。映画観てパンフも読んでかつ、俺と同じぐらいの社会階層で俺と同じぐらい卑屈な人じゃないとわかんないだろう。

また難しいのはこのポエムでもポリティクスでもあるような極めて洗練された知的な、直線的な歴史を描きながら多義的な映画自体に見た目とは裏腹な一筋縄にはいかない捻れたところがあるように感じ…そもそも原作のジェームズ・ボールドウィンのポジションであるとか、そのテキスト(未完の遺稿をナレーションで読み上げながら映像を重ねていく)が曖昧を宿した越境的なものと感じ…いや、だんだん何を言いたいのか自分でもわからなくなってきてしまったのですがようするにそのように思索を促す映画だったよねと言えばまぁ穏当に着地できそうなので俺も安全圏に着地しますよひとまずは…。

内容とかは別に俺が書くまでもないしこのプロフェッショナルなパンフからすると公式サイトもさぞ充実しているだろうと思われるのでアバウト『わたニグ』が知りたい人は素直にそっちを読んだらよい。
感想としてはですねまずですねかっこいい映画だったよ。まずそれだよなそれ。公民権運動の証言者であろうとしたジェームズ・ボールドウィンのテキストから現代まで連綿と続く合衆国の構造的差別を紐解こうとするスーパー社会派な批評的ドキュメンタリーって感じですけどスーパークール。

だってナレーションがサミュエル・L・ジャクソンでしょ。もうやばぇですよその時点で。オープニングタイトルはソウル・バスみたいなデザインで。章立てもスタイリッシュで。
おもに白人の作り手による黒人が出てくる映画の引用多数なんですけどそれがまたアイロニカルな使われ方でかっこええの。ネタバレかもしれませんが書いてしまいますが無論当然87年に亡くなっているボールドウィンは知るべくもないガス・ヴァン・サントの『エレファント』が引用されるところとかあれ、良いっすよね。
クールと真面目の間隙からアイロニーが飛び出してくるんです。ボールドウィンがTVショーに出たときに共演したインテリリベラルの…とかそういうのが。

このようにかっこいいおもしろい映画だったのですが俺がですね喉にずっと小骨刺さってるのはですねパンフに載ってる越智道雄さんの解説を引用させてもらいますが、こんなようなことで…。

ボールドウィンには、「黒人性」を突き詰める果てに「人間性」への大回帰を求める思いがあったことが、彼がフランスに逃れて書いた2作目の長編小説『ジョバンニの部屋』(56)の主人公がゲイの白人男性として描かれたことで窺えた(作中には黒人が登場しないのだ)。
(…)
他方、この映画では一転、「黒人性」の確立に打ち込むボールドウィン像を復元している

映画の最後でボールドウィンが言うのは「私をニガーだと思う人はニガーを必要とする人だ」っていうことなんですけど、これすげぇ色々パラフレーズできるパワーワードじゃないすか。
私をホモだと思う人はホモを必要とする人だ、私をオタクだと思う人はオタクを必要とする人だ、私をジャップだと思う人はジャップを必要とする人だ、私をバルバロイだと思う人はバルバロイを必要とする人だ、とか。

「ニガー」っていう対象じゃなくて概念を言ってるわけでしょ。俺たちと君らは違うからっていう境位をタグ付けするのが「ニガー」で、じゃあ問題はタグ付けの方にあるじゃん、「ニガー」と呼ばれなくなったら差別解消とかそんな話じゃ全然ないじゃんみたいな。
なんで『エレファント』が引用されるって黒人差別は黒人だけの問題じゃないからですよ。黒人がいなかったら別の誰かが「ニガー」になるんですよ。肌の色なんていうのはその分かりやすい指標というだけで。

だから構造的差別をどう解消するかっていうのを真面目に考えないとこれこの悲惨な状況終わらんぞアメリカっていう、『私はあなたのニグロではない』とかえらい強いタイトルですけど、これも差別の指標をどーんと打ち出すことで逆説的に構造的差別に目を向けさせようとした結果なのかなぁとも思うのですが、そういう射程の広い映画で。
またそこにはその場限りの夢想的な連帯じゃなくて、もっとラディカルな人種融和の可能性を模索するところもあったんじゃないかと思うのです、が。

あのパンフレットを通読した時にたいへん得るものも多かったわけですけれども確実に俺の喉に刺さった小骨というのは、俺たちは黒人に寄り添うぜみたいな義勇の装いの中でこの映画を咀嚼しようとする論調ばかりだったように感じたことで、要するに執筆者が自らの差別的な「白人性」を全然自覚していないか、さもなくば必死で隠そうとしているように見えたんだ俺には。まさしく劇中でボールドウィンが噛み合わない対談をしていた偽善的なリベラル白人のようにですよ。

「黒人性」への共感的眼差しは差し迫った危機に対処するには必要なものだろうと思い…しかし長い目で見れば内なる「白人性」の自覚もやはり必要なのではないかとも思っていてですね…こういう反差別の両輪は劇中ではマルコムXとキング牧師が象徴していたように思うのですが、だいたいの人間がキング牧師は無条件で讃えてもマルコムXは条件付きで自分のポジションを守りながら(かつキング牧師を補完するものとして)でしか讃えようとしないもので、ちくしょうどいつもこいつもそんなに我が身が大事かよ…と妙にささくれ立つ映画体験になったわけです。

でもささくれ立ったのは映画っていうかパンフレットを読んでからのことなのでパンフ体験と言うべきだなぁ…と結局最後は俺は映画を深く理解してますし擁護もしますよアピールだ。
このように人は保身に走るわけだ。あいつらと俺は違うと言って惨めに身を守るわけだ。俺は貧乏白人であって迫害された黒人ではないんだよ。カッコ良くて高貴な黒人でもない。君らだってどうせそうだと思うね。

※少しだけ書き直しました。

【ママー!これ買ってー!】


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