《推定睡眠時間:10分》
たぶんこれがなかったら死ぬまで映画版『タイヨウのうた』に触れることはなかったな。経緯が謎すぎるがとにかくYUIのアイドル映画的なやつがシュワの息子&ベラ・ソーンのプロモ的リメイクとしてハリウッド映画になったというので…ぶっちゃけあんま面白くなかったが観ちゃったのでせっかくだからオリジナルも観てみようとこうなる。
そしたらびっくりしたよね病気考証とかはリメイク版の方が多少しっかりしてるっぽいんですが、でも映画としてはオリジナルの方が全然面白かったし丁寧に作られた感あったんですよ。
YUIの素人演技も演じるキャラクターの特殊性と上手いこと合致しててですね…『タイヨウのうた』ですよ『タイヨウのうた』。まだスマホも出てこないゼロ年代邦画の難病純愛ものですよ。ドラマ版は山田孝之と沢尻エリカの出世作となった、あの。
そんなちゃんとした映画だと思わないじゃないすか…いや偏見あるからそこは。しかしその偏見の壁を突き破ったよ『タイヨウのうた』はいや! 『タイヨウのうた』と『ミッドナイト・サン』はと言うべきだろう。
もうこの際おもしろいおもしろくないは関係ないな。YUIと息子シュワの時空を超えたすれ違い交感とかいうゲテモノ的ミラクルには心の壁を突き破るなにかがあったのだ…。
お話。あるところにXP(色素性乾皮症→難病情報センターの解説)により日中の自室閉じこもりを余儀なくされた少女(ベラ・ソーン)がいた。
やさしい父親(ロブ・リグル)とやさしい親友(クイン・シェパード)のおかげで少女の家では毎日なにかしらのおもしろイベントがある。
それはそれで楽しい日々ではあったが、とはいえそんなものでは到底理不尽な運命の埋め合わせにはならない。日が暮れると少女はアコギ片手に駅に出向いて、誰にも届かないその悲痛な心情を歌うんであった。
窓に掛けられた紫外線フィルター越しでしか昼の世界と関わることのできない少女の憧憬は、そのうち毎日家の前をチャリで通り過ぎる息子シュワへの恋心に変わっていく。
親友の半ば強引な後押しによって息子と急接近する少女。今もさして変わらないと思うが当時は演技経験のない完全素人だったYUIのぎこちない演技よりも更にぎこちない息子シュワとXP少女はやがて歌で結ばれるのだったが。
ところでオリジナルとリメイクのストーリー上の最大の違いは何かといえばXP少女の終末期のチョイスで、逆に言えばそれ以外はかなりわりとオリジナルに忠実なリメイクだったので(どうせXP題材のティーン向け恋愛映画の企画立ち上げたら『タイヨウのうた』が同題材だと判明したから後々になって剽窃騒動からの裁判沙汰にならないよう権利買ってるだけで内容は大して関係ないだろう何がリメイクだバカつまらん宣伝しやがって)ぐらいは観た直後に思ってましたが全面的に俺が間違ってました。すいません。
そんなことはどうでもいい。XP少女の終末チョイスの話。これはたいへん文化の違いを感じるところでもあり…また死生観や人権意識の違いを感じるところでもあって…いや俺が言ってんのはどっちが良い悪いとかどっちか進歩的か守旧的かとかではなくてですね、っていうかそういう分かりやすい枠組みに落とし込んで対比できなかったから単純に見比べて面白かったということなんですけど…リメイクの方では自身の遠からぬ死(具体的には描かれないが神経症状の重症化による合併症などで)を自覚した少女が遮光カーテンも遮光服も脱ぎ捨てて、父親とか恋人とか親友と一緒にクルージングに出て全身に太陽の光を浴びるんですよ。
一種の尊厳死だよね。神経症状の重症化で今よりもっと自由が失われるんだったらその前に最大限自由を謳歌したいし、それを周りの人間も尊重するっていう。
でオリジナルはどうかっていうと、遮光服を着て恋人未満友だち以上な塚本高史のサーフィンを眺めるYUIに父親の岸谷五朗が「それ、脱いじゃいな」って言うんです。
岸谷五朗はYUIがずっと太陽の下の自由を切望していたことを知っているんで、もういいだろうと。もう見ていられないから最期ぐらい自由になりなって言うわけ。
ところがYUIはそれを退けて、私は死ぬまで生きるんだみたいな、なんかYUIっぽいことを言いながら防護服で浜辺をずるずる歩く。コケるふりをして塚本高史を慌てさせたりして笑う(神経症状が悪化すると歩行が困難になる)。
リメイクの方を先に見てる人間からしたらこれは大どんでん返しですよ。だってリメイクのチョイスの方がいかにも難病純愛映画っぽいじゃないですか。美しくて自由な死とかみんな好きでしょやっぱ。
でもオリジナルは無様で苦しい生をあえて選んでいて、いや、なんかね、そこ感慨深かったな。リメイクの改変が浅薄だとは思わないんですよ俺は。あぁいうケジメの付け方もあればこういうケジメの付け方もあるか、って感じで。
XP患者の描写としてそれが正しいかどうかはまた別の話ではありますが。そうは言っても脚色の意図としてはYUIチョイスじゃ映画盛り上がんねぇじゃん程度のものしかないだろうとは思いますが…。
ちなみにリメイクの少女チョイスが青空クルージングというのはオリジナルで息子シュワのポジションだった塚本高史がクルーザー清掃のブラックバイトでYUIのレコーディング費用を稼ぐという場面を拡大したもんだろう。
塚本高史の趣味は貧乏サーフィンだったが息子シュワはプロを狙える水泳選手の設定。成績は下から数えた方が早い公立校のバカ男子からスポーツ万能かつ成績優秀の王子様キャラに変更されているが塚本高史が息子シュワ! 改めて考えるとなんかすごい置き換えだ。
YUIとベラ・ソーンはともかくチンピラ風情の塚本高史が王子様な息子シュワになるぐらいだから映画全体がハリウッド映画的金銭感覚でアップグレードされている。
リメイク版で父親役だったロブ・リグルの初登場シーンは誕生日ケーキかなんか持ってジャジャーン! みたいな感じでしたがオリジナル版で父親役の岸谷五朗が初めて出てくる場面は足の爪を切ってるところでした。
冒頭にかまされるベラ・ソーンの状況説明モノローグで「でも私には世界一のパパがいるんだ!」とか褒めてもらえるロブ・リグルに対して岸谷五朗はYUIにそんなことは一言も言ってもらえないばかりか何ならちょっと疎まれているこのパパ格差。
オリジナルだと麻木久仁子だったYUIママはリメイクだと幼少期に死んだことになっていたのでママ格差はもっとすごいっていうかちょっとパパ持ち上げすぎじゃないすかね。
良いパパなんですよロブ・リグル。いや、それはわかるんですけど…。
あと面白かった変更点はオリジナルでYUIがストリートライブをするのは駅前広場ですけどリメイクの方だとなんか駅のホームになっていて、いやわからんでもないけどそれは無理があるだろみたいな。
なんで母親が死んだ設定というと死んだ母親が幼いベラ・ソーンにアコギをよく聴かせてくれたっていう、これはどうもベラ・ソーンがアコギに執着する動機を作るための措置っぽい。
ストリートミュージシャン出身のYUIが駅前でライブするっていうメタ物語をリメイクだと共有できないから、そのへん物語の中で設定として組み込まなければならなかったんだろうなってところで脚本家の苦労が窺えておもしろかったですね、なんか。
プロットとしては終末チョイスを除いてほぼほぼ一緒なオリジナルとリメイクですが、ゆったりとたゆたうような展開を見せていたオリジナルに比してリメイクの方はストーリーが直線的に整理され、息子シュワの肉体の如く引き締まった映画の印象。
これはこれでスッキリ爽やかでいいか。息子シュワの王子様感と肉体美(それを見せるための水泳か!)とベラ・ソーンの歌とあとクルージングエンド。そんなにおもしろいものでもないが結構楽しめましたね俺は。
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いやでもこの岸谷五朗は本当いいな。YUIも塚本高史もいいけど岸谷五朗が本当いいんですよ。『新・仁義の墓場』の冒頭で山城新伍の代わりに麻木久仁子に出逢ってたらこんなんなってたんじゃないのみたい感じで(伝わっているだろうか)
多分日本人は外国の感情的な表現とかユーモアを理解しにくいせいもあると私は思う
リメイクの方が映画としてはよくできてると思うんですが、個人的にはオリジナルの方が企まぬ面白みがあって楽しめました。