《推定睡眠時間:0分》
音楽がジョニー・グリーンウッドだそうで俺はレディオヘッドが耳にヒットしなかった人なのでグリーンウッドの音楽的背景などは知らんのですがあのラストシーン~エンドロールの流れに乗るグリーンウッドの美旋律に脳がアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(要スペルチェック)を被せて心情的フーガにしたのでそのへんルーツの一つとしてありそうな感じである。
ざっくりノイバウテンと言っても音楽性が幅広過ぎる気がするが具体的には『嘘の館』収録のノイズ組曲「Fiat Lux(光あれ)」で、曲が似ているというよりはサウンドトラックの楽曲構成に、なんなら効果音を含めた全体的な音の設計思想に類似点を検知したのですが、それにしてもこんな曲名であるから映画の原題『YOU WERE NEVER REALLY HERE』とも呼応してしまうし、ブリクサ・バーゲルトが祈るように歌い上げるその詞は殺し屋ホアキン・フェニックスと彼が救助を依頼されたエカテリーナ・サムソノフの物言わぬこころを代弁するかのようだ。
聞こえる ぼくが息をするのが
ただ何の証でもなく
ぼくの輪のただなかにいて
でもぼくはその中心でなく身じろぎもせず
待ちつづけ
待ちつづけてあなたが来るなら
光をともなって
来る かがやきながらぼくの殻をくだき
刻み目をかぞえ
ぼくを打ち割り
覆いをひらいて
ぼくを大声で読む
それでやっとぼくも
ぼくを聴ける
※国内盤CDに入っていた武村知子さんのすばらしい対訳を引用
『ロスト・ハイウェイ』の名タイトルバックの如くどこまでも続く夜闇の中で光を求める二人なのであったが『嘘の館』の前作に当たるアルバム『上向地震波上五』にはボニー・ドブソンの「Morning Dew」カバーがキラートラックとして収められており、それはそれで二人の…という感じもあるから不思議な接点(こじつけとも言うが)もあるもので、ノイバウテンといえばアメリカン・ノワール大将マイケル・マンが『ヒート』において初期の代表曲の一つ「Armenia」をサントラに加えたりもしているのだからアメリカン・ノワールの文脈からも密やかな応唱が。
というわけでフーガです。サイコジェニック・フーガ。デヴィッド・リンチが『ロスト・ハイウェイ』のキャッチフレーズ的に使用したサイコジェニック・フーガ、心因性遁走というもの。
そういう映画だと思いましたよ俺は。これはわりと言い得て妙なのではないかと自画自賛するね。俺だけだと思いますが良いんだよ俺のブログなんだから俺が気持ちよくなれれば…。
それにしてもよくわからない映画。ノワール的には『ポイント・ブランク』級のよくわからなさ。とにかく、とにかく頑なにそこ絶対大事だろ的な部分を省く。
説明をしない。何が起こったのか見せない。それだけでも充分わからないのに変なところでクロースアップを多用。ついでにサブリミナル的フラッシュバックも多用。しかしその映像が何を意味するか明確にしようとは決してしないのだ…。
とりあえずわかるのはホアキン・フェニックスはママ想いの殺し屋で、選挙を控えた政治家から家出娘エカテリーナ・サムソノフの捜索を頼まれたこと、それから彼が死と暴力に塗れた過去に関する強烈なオブセッションで半ば壊れてしまってカジュアルに逃避的自殺未遂を繰り返しているということで、この壊れがたいへんにノワールでよいかったということだ。
いつ何をしでかすかわからない危ない男の芝居がすっかり十八番になってしまったホアキン・フェニックスの狂いっぷり、そのパブリック・イメージをセルフパロディにした『容疑者、ホアキン・フェニックス』を思わせる場面まであって最高じゃないすかね。
なんかすげぇ子どもなんですよ。ナイフ手に持って『サイコ』ごっことかしたりだとか。床の水を拭くときにタオル踏んでズイズイ歩きながら拭くとか。ソファーに寝転がってジェリービーンズもぐもぐとか。「ボクは緑色のジェリービーンズが好きなんだ…」。『フォレスト・ガンプ』じゃあるまいし。
普段の振る舞いは甘えた子どもなんですけどでも殺し屋だからお気に入りのハンマーで邪魔する人間の頭蓋を躊躇なくかち割ってくっていうすごい崩壊バランス。
裸体を晒すとまたすごい、こう、乳幼児みたいな熊みたいな何とも形容しがたい異貌で…端的に言って、超キモカワイイこわい。これが、よい。
誰しも心の凶器の一本や二本は持っていると思うのですが俺はホームセンターで売ってるハンマーが心の一本なのでその点でもめっちゃ響きましたね。
でこの壊れた人がどうも腐ったオッサンらに食い物にされているらしい少女と関わる中でどう変わっていくかみたいな話では一応あるんですけど、心の交流的なやつとかはもう全然出てこない。
一部監視カメラ等の映像を除いてどこまでも壊れた殺し屋ホアキンの主観で綴られた映画であるからダイアローグとか二人の間に起きた客観的な出来事は物語の中に入ってこないし、一見単純っぽい物語の全体像がやたら見えにくいというのもそういうことなんだと思った(監視カメラの画というのは純粋な客観視点としてむしろ語り手の主観性を強調するのだ)。
でもそれはたぶん少女の方も同じで、この人はこの人で壊れてしまっているから目の前にいるホアキンが目に入らないんすよね。
お互いに主観で見つめ合うだけで共同主観みたいなものは成立しないから愛がどうとかそういう方向には行かないし行けないっていう。
原題が意味するのはそういう痛ましい二人の関係なんでしょうたぶん。
いい話だな。いや全然いい話じゃないんですけど、壊れた人に壊れた人が寄り添わずに寄り添うみたいなよくわからん風景は俺の琴線をガシガシ揺さぶるので、あの二人の冷たい関係と無常感ズッシリなラストシーンにはグっときてしまった。
俺はそこに何か前向きなものは少しも見出せなかったんですけど、前向きであることは必ずしも救いや希望を意味しないのだというわけで壊れているし後ろ向きだけどハッピーな映画、奇妙でキュートで血まみれのうつくしい映画だと思いましたね。
【ママー!これ買ってー!】
A面というか「Fiat Lux」までの流れが面白くて最初期のジャンク音素材の寄せ集めみたいなアルバムからアルバム全体で一作品としてっていう、音楽の破壊から構築への方針転換が如実なベルリンの壁崩壊直前の作。
↓原作とあと見ててなんか思い出したやつです
以前アマプラで見ましたけどJOKERの後だとまた味わい深いものがありましたねえホアキン
セットで観たい映画ですよね。どっちも母子家庭設定ですし、危ない人演技が炸裂してますし。
ホワキン・フェニックス主演なので『要はホワキン座長映画なんだろうなー』と、何となく観るのを後回しにしていたんですが観てびっくり。これ『クリーン・シェーヴン』2017”リブート版じゃないですか?タイトルに流れる曲もスロッビング・グリッスル『D.o.A.』の1曲目「AB/7A」へのオマージュみたいだし、よく聴き取れない雑踏の会話や騒音が劇伴で。
主人公のメンタルはずたずたで、爪剥いだり奥歯抜いたりの自傷行為までしてるのに、でも現実か夢想か自分でも判断出来ないけれど唯一「少女救出」を自らの使命と信じそれを支えに何とか持ち堪え生き抜いている。
ラストのコップ4つは『You are never really here』。ピーター“クリーン・シェーヴン”、ホワキン“ダーティー・ビアード”、ニコール、ニーナ、彼等のような人間を見て見ぬ振りしている事の象徴。
これが公開された後に『クリーン、シェーブン』のリバイバル上映があったので久しぶりに観たんですけど、記憶にあったよりも静かで哀しい映画で、たしかにこの『ビューティフル・デイ』と結構共通するところあったと思いますね~。あのホアキンが鏡の中の自分を見るシーンの病的な感じも『タクシードライバー』的でありつつ『クリーン、シェーブン』的でありつつという。
そういえばジョニー・グリーンウッドって『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』ではサイレン音で劇判を作ってたので、結構インダストリアル・ノイズ志向の強い人なのかもしれません。
返信頂き恐縮至極。
しかし何なんでしょうね~
この「男性による少女救出モノ」が、色々バリエーションがあるとはいえ相も変らず制作され続けるのは。まぁ要はマチズモ讃歌(意味なくホアキンはヌードを披露。しかもムチムチ・ブヨブヨで、見たくねーよ、そんなの(笑))
一種、フェミニズム台頭への嫌悪…なんでしょうけれど、韓国製作の『バレリーナ』みたいな変化球もありますし。
もはや大衆深層心理に深く根差した民話レベルですかね。
『世界昔噺』みたいな。
ホアキンのむちむちおっさんヌードは俺は観たいですけれども(笑)それはともかく、強い男がか弱い女を救出する系フィクションはほとんどハリウッド文化圏に固有の話型と思っておりまして、たとえば同様の話はハリウッド映画の影響を非常に強く受けている現在の韓国映画やインド映画でもよく見られます。逆にハリウッドの影響力の薄いフランスやドイツやイタリア、イギリスでさえこういう映画はほとんどない。だから根本的にはこういうのってアメリカの病なんだと思います。