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勝手に過去と未来を行ったり来たりするわくわくのファンタジック大冒険譚だと思っていたので(あの予告編に出てくる駅は時空の狭間のタイム・ステーションなのだとばかり…)スーパーなホームムービーっぷりに意表めった刺し。
中の上流家庭の甘やかされ四歳児くんちゃんくんのささやかな成長を狭い敷地を大活用したビフォーアフター的なデザイナーズハウス内にほぼ限定して描いた非冒険譚ということで、くんちゃんくんの前に現れる未来の妹ちゃんとか喋る擬人化ワンちゃんとかバイク乗りのひいひいじいちゃんさんとか全部くんちゃんくんがその日に目にした何かを膨らませた空想の産物なのだった。
原作と脚本も細田守。ぼくは細田守の熱心な観客というわけではないのですが『時をかける少女』を見ても『サマーウォーズ』を見ても『バケモノの子』を見てもあまりロジックの人という感じじゃないのは分かるので、これも、子供の空想ファンタジーを親目線で俯瞰的に捉えているから物語の骨子はいつになくガッシリしているわりに、ストーリー展開におけるロジックが弱いというところがある。
ロジックの代わりに奔放な空想ストーリーを繋ぎ合わせるのはくんちゃんくん家の中庭に生えた一本の木で、これが映画の冒頭にクロースアップされるのだからわかりやすい。そのまんま樹形図であり家系図であり…とつまり、家族の血の繋がりがロジックの代わりに展開に必然性を与えるわけです。
一応言っておくがこれは俺が屁理屈をこねてるんじゃないからな。本当にそのまんま「あの木は家族のデータベースなんだよ!」みたいな台詞を未来のミライちゃんがくんちゃんくんに言うんですよそのまんま。
それで『攻殻機動隊』のサイバースペースみたいになった家族の系図が画面にバーって広がってミライちゃんとくんちゃんくんそこに突っ込んでくんですよ。そしたらくんちゃんくん理解して少し成長するの、ぼくの存在は家族あってのものなんだなぁって。アガスティアの葉じゃんて感じですが。
ともかく視点が親のそれだからせっかくのファンタジー展開もファンタジックに盛り上がらないというのが俺の中ではファーストガッカリポイントで、その次に来るのは親目線で家族の素晴らしさを子供に叩き込む説教趣味だ。道徳の時間のビデオじゃあるまいし。
せっかくのアニメ映画なのにアクションより説教を優先することはないでしょうよ。よく説教監督と見なされる押井守だって最後には必ず言葉に頼らない大アクションをぶち込んでくるのにさ(『立喰師列伝』みたいな例外もあるが)
三つ目のガッカリポイント。これは俺の中ではいちばんガッカリが大きいが、装いはソフトだが非常に保守的な映画で、家族史をテーマにするのならそりゃあそうだろうという気もしないでもないが、血縁や地縁を超えてもっと抽象的な絆のかたちが映画の下地になっているように感じる。
有り体に言えばイメージの中のニッポンというもの。リアルなではなくてイメージの中の。これはたとえば自民党右派的なイデオロギーに相当接近しているのではないか。
それが映画としておもしろくないのは一点、ファンタジーが保守に寄せてくるなよっていうそこに尽きる。想像力を解放するジャンルで想像力を抑圧するな。前作の『バケモノの子』なんて妄想爆発で面白かったのになんで急にこうなった。
というわけでそのへん実にうーんと思ったので、以下、適宜ストーリーに触れながらそこに現れるいくつかの表象について、それがどのように保守的な意味を帯びているか考えてみることにする。
ジェンダーロール:男の子と女の子
くんちゃんくんの家に生まれたてほやほやの妹ミライちゃんがやってきた。最初は歓迎するくんちゃんくんだったが今まで独占してきた両親の愛情がごっそり妹ちゃんに奪われたので怒り心頭。プラレールの電車でつい殴ったりする(あぶない)
そんなくんちゃんくんに未来のミライちゃんのイメージを与えたのは保育園の帰りに見たイケメン男子高生の後ろについてキャッキャと騒ぐモブ女子高生軍団であった。その日だか次の日だかあたりにくんちゃんくんは空想の女子高生ミライちゃんと遭遇するわけである。
女子高生ミライちゃんに全身をツンツンされてプレ精通してしまうくんちゃんくんに細田守の真骨頂を見る。そんな細田守が俺は好きだった…。
イケメンを追いかける女子高生というのが未来のミライちゃんの基調だがー、それに付随して表れるのはミライちゃんの結婚願望であった。突然現れてくんちゃんくんに何を言うかと思えばひな祭りで出したそのままになっていたひな人形をしまってほしいとのこと。
そんな言い伝えがあるのかどうか知らないがひな人形はひな祭りを過ぎても出しっぱにしておくと一日ごとに一年、婚期が遅くなるそうであるから、早く結婚したいミライちゃんとしてはなんとしてもひな人形をしまう必要があったのだ。
くんちゃんくんの空想上のミライちゃんがひな人形のことを言い出すのはそれ以前にくんちゃんくん家を訪れた祖父母がくんちゃんくんの前でその話をしていたからだが、このときに祖父母がやたらと台詞で強調するのが「女の子らしさ」と「男の子らしさ」。この場面以外では取り立ててそんな台詞はないので印象がつよい。
これ自体は単に親夫妻の会話と世代間ギャップのリアルな描写でしかないのだと思われるが、重要なのはいっぺん最後まで見てからストーリー全体の中にこのエピソードを再配置してみると、男とはこういうもの、女とはこういうもの、とのジェンダー観念が世代を超えて受け継がれたというエピソードになるわけである。
家庭内分業:育児と仕事
くんちゃんくん家は共働きなのだが、くんちゃんくんの育児の際はお母さんが育休を取ってお父さんはお外でお仕事をしていた。
というわけで今回は逆パターン。お母さんが働きに出てお父さんはフリーランスになったので家で建築設計のお仕事をしながら育児もする(たいへんだ)
前述のいやに古風なジェンダーロールと対比させる意図があったのかもしれない。親目線のくんちゃんくん視点というややこしい作りなので映画では直接描かれることはないが、やんわりと伝統を押しつけようとする祖父母(夫婦どっちのかは知らない)への反発というのは舞台裏でありそうな感じではある。
どうかと思うのはその記号性で、なんというかあまりに図式的に過ぎる働くお母さん像ではないかこれは。だってお父さんの仕事内容は具体的に描写されますが、お母さんがお外でどんなお仕事をしているのかは台詞にはちょいと出てきたような気もするが映像に出てくることはないわけだから
俺にはそれがえらく空々しく感じられた。育児パパのたいへんさは確かにわかる。でも働くママが具体的にどんな感じでどうたいへんなのかはよくわからない。なんなら家にお母さんがいないシチュエーションを作るためだけに要請された設定にさえ思える。
このざっくりと想像力の偏った出産後の職場復帰の様相から俺が思い浮かべたのは「女性が輝く社会」とかいう例の空疎なスローガンだった。
中の上流家庭:デザイナーズハウス
夫が建築家であるからくんちゃんくん家はシャレオツ(階段に洋書とか置いてインテリアにしてたりする)なビフォアフハウスになっており、絶賛公開中のびんぼう家族映画『万引き家族』との見た目の所得格差が凄まじいが、『万引き家族』みたいな汚ハウスはメジャー配給の和製家族映画としてはかなり例外的で、メジャー家族映画の家は基本的に中の上流家庭の小綺麗ハウスなんである。
この傾向は特に地域の理想化と客の願望の一体化を目論む(そうでなければ宣伝にならないので)少女漫画原作の地方系ティーン映画で顕著になるわけで、小手先のリアリティなんかどうでもいいからキラキラの素敵家族と素敵ハウスを映画に出せば地域のアピールにもなるし見ている方もキュンキュンするしウィンウィンじゃんみたいな身も蓋もない打算がこういう映画には見られる。
具体的にそれがどういうものか知りたい人はひとまず『兄友』とか『ママレードボーイ』とか『となりの怪物くん』とか『君の膵臓を食べたい』とか見てみればよろしい。『未成年だけどコドモじゃない』とかはまた別次元なので参考にならないと思うが、ともかく食うに事欠く貧乏家庭とかは基本的に出てこないし、それティーン映画の場合じゃんと思われるかもしれないがティーン映画では家族が悩める子供たちのデウス・エクス・マキナかあるいは見えざる神のポジションに収まるのがベターなんである(家や地元を出る展開にはまずならない。家族と地元は離れる必要のない素晴らしい完璧なものだから。こういう映画においては)
『未来のミライ』に話を戻せばそのことが重要な意味を帯びるのは、映画冒頭にその素晴らしいデザイナーズハウスの俯瞰ショットがくんちゃんくん出産時とミライちゃん出産時の二度挿入されるからで、時代が変わっても町が変わっても前述のアガスティアの木を中心に据えたこの家は本質的に変わらない、と暗示する。
細田守の映画がだいたいいつもそうであるように部外者はそのプライベートな領域では変化をもたらす望まれざる客になる。地方系ティーン映画が同様の家・家族イメージを持ちつつも学校と地域という家族とは別の場や社会を物語に編み込むのに対し、『未来のミライ』では社会との回路がほとんど描かれずに家族が家に引きこもっているような印象を与える。
具体的な社会を欠いた理想的な家の中で戦後から現在まで連綿と続く家族の血の繋がりを描く閉鎖的な血統主義の視野狭窄は、俺にはたいへん危ういものに思えるのですが、どうでしょうか。
乗り物趣味:クールジャパン
ところでくんちゃんくんは大の電車マニアでいつもプラレールを散らかしてお母さんに怒られている。男の子はみんな電車が好き、かどうかは知らないが、これは血縁的な伏線(因果と言うべきか? 橋本忍的な…)でくんちゃんくんが映画の最後らへんで出会うひいひいじいちゃんに当たる特攻くずれの人が馬→バイク乗りだったのだ。
敗戦後の精神的復興をバイクに託すイメージときたらそれはもう本田宗一郎が念頭に置かれているのだろうと思うが、映画はそこから飛躍して乗り物への憧憬をくんちゃんくんの大好きな新幹線に繋いでいく。ひいひいじいちゃんとの邂逅の後、くんちゃんは想像上の超巨大スーパー東京駅の新幹線ホームに迷い込むのだ。もう面倒くさくなったからここからは普通にくんちゃんでいきます。
それにしてもバイクから新幹線か。思えば新幹線というのは本田宗一郎が象徴するような旧・モノづくり大国としての日本が今でも誇れる数少ない技術の結晶だ。よく知りませんが去年インドに売れたそうじゃないですか、新幹線。
原発はダメだった、車ももう売れなくなった、ウォークマンなんて懐かしい響き、家電で生き残っているところはどこだろう。でも新幹線だけは未だクリーンなイメージのまま。未来の語を託せそうなのはそのへんぐらいじゃないですかね、モノ系だと。実際にそうかどうかは別にして。
新幹線推しに加えて東京駅推しもある。背景のデジタルサイネージに花火大会の広告が流れるのが露骨だが、昨年満を持してだだっ広いなにもない駅前広場が完成した東京駅を宣伝する意図を感じないでいることは難しい。わざわざそこからくんちゃんとミライちゃんが飛び出して八重洲・丸の内の美ビル景を見せるほどだ。それはまぁ俺もあの景色は大好きではありますが…新幹線に乗るといつだってわくわくしますがさぁ…。
いや、俺が言ってるのはそこに細田さんの意向がどの程度はたらいてるのかってことじゃないですから。そんなんじゃなくて、誰の意向が働こうがそんなこととは無関係にストーリーの中でバイクと新幹線・東京駅がクールジャパン的なイメージで接合されてると言いたいわけです。
かつ、それがあまりに露骨で、あまりに抽象的で、その具体性のなさが子供の想像という設定の中で正当化されてしまっているのがプロパガンダ的で好きくない。
アイデンティティ:血縁
ミライちゃんとの仲が険悪になるにつれ、くんちゃんはお父さんにもお母さんにも嫌い嫌いするようになる。事あるごとに空想世界に逃避していたくんちゃんが最終的に訪れるのが例のスーパー東京駅だ。
迷子になってしまったくんちゃんはロボット遺失物係に自分を届け出る。「遺失物の名前は?」「くんちゃん」「じゃあお母さんの名前は?」「お、お母さんの名前…?」「お母さんの名前が言えないと(遺失物に)登録できません」
登録できない子供はどうなるかというと、「ひとりぼっち地獄」(的なやつ)行きの秘密新幹線に乗せられる。言えなかったくんちゃんもそこに送られそうになって、このままじゃ一人になっちゃう! …とそこで自分をミライちゃんの兄であると言明してセーフ、ひとりぼっち地獄行きを免れるのであった。
個人的にはどんな酷い映画もまぁ(制作過程で)人とか殺してなければあっていいと思うが酷いものは酷いと言うべきだと思っていて、ガイガーカウンター型の俺モラルセンサーはこのシーンでブブブと不穏な音を立てまくった。
そんなそんな、あんまりじゃないですかそんな。それじゃあ家族のいない子供はどうなるんです。自分の存在を規定するのは血の繋がった家族だけですか。友達とか好きな人とかだといかんの? だいたいひとりぼっちは地獄かね。たとえ地獄だとしても人から咎められなければいけないものなのかね。これはひどい。
子供の頃に見せられた創価学会の布教アニメを思い出した。細かな内容は覚えていないが、なんか友達に嘘をついたり悪いことをしたっぽい子供たちがジェットコースターに乗る。
そのジェットコースターは地獄行きで、安いが当時の水準だったらまぁこんなものかみたいなCG地獄(溶岩がぐつぐついってる)が画面いっぱいに広がる。おびえる子供たち。そして改心する子供たち。
それ以外覚えていないということは子供心に退屈だったんだろうと思われる。あたりまえだそんな説教臭いの。
未来:プロパガンダ
以上もろもろを総合するとまるで官製プロパガンダ映画のようだという感じになる。固定されたジェンダーロールの世代間伝播、社会の実相を無視した経済的な豊かさ、その指標として、またそれを可能にする家の閉鎖性、血縁関係を通してのみ語られる排他的な歴史認識、「前を見ろ」の台詞と新幹線・東京駅が象徴するモノづくりの称揚・宣伝、血の繋がった家族によってのみ存在の場を与えられる子供、という発想の圧倒的想像力の不足。
そういう思想傾向の政治家の人とかが書いた素人シナリオならまぁええかもしれないよ。おもしろくないけど書くのは自由だしね。でもファンタジー映画の作り手がこれでいいのだろうか。
いやいいもわるいもありませんが他人のことですから…でもガッカリした。それぐらい言ってもいいだろ。ガッカリした!
ガッカリしたからタイトル変えるよ勝手に。『日本のミライ』。これだな。こっちの方が俺にはしっくりくる。プロパガンダ映画はいつだって未来を語りたがるものだからだ。
プロパガンダ映画としては、誠によくできていたんじゃないですか。以上。
※後から多少書き足してます。
※2018/7/24再追記:
ふと思うたのはここに出てくるお父さんを細田守と同一視することはできないが、そこに作家の抱えたものの発露を見ようとするならば、あのお父さんがお母さんに言われる「あなたは子供に興味がない」みたいな台詞は結構映画の核心を突くところなのかもしれず、そうしてみるとこのほのぼのと退屈な教育的ホームビデオの裏側には『バケモノの子』とも共通する細田守の孤独とオブセッションが感じ取れないこともない。
家や家系への執着もその観点から理解することができるのではないだろうか。あのお父さんは家系を書割にした家の舞台の上でのみお父さんであることができるし、そこで与えられる役割を甘受し、また強いることでしかくんちゃんと関わることができない。
4歳児の眺める世界は決して「家」の中で完結するほど秩序立ったものではないと思うが、それが物語に反映されないのはそうであっては困るわけである。誰が困るってお父さんが困る。息子の世界に家に属さない他者が入ってきてしまったらお父さんはもうお父さんでいられないし、そうなったら息子と関わることができない。それ以外の関わり方を彼は知らない。
細田守の映画の中心にはいつもそのようなさびしさがあるように思う。帰るべき家を失った寄る辺ない子どもの魂がある。
『バケモノの子』は子どもの魂を持ったまま大人になってしまった孤独な妖怪が人間の養子を受け入れることで大人になっていく話だったが、より現実的な『未来のミライ』はあたかもその苦痛を息子に背負わせることで、お父さんの役割の中ではさらけ出すことのできない孤独の叫びをスクリーンの内外に向けて表現しようとしているようにも見える。
愛していると囁きながら子どもを殴りつけるDV親の如しであるが、細田守がそのことにどの程度意識的なのかはよくわからない。
個人的にはそのダークサイドこそ細田守の才能の源泉ではないのと思っているのでこんな広告屋の言うことに唯々諾々と従ったようなつまらないファミリー映画じゃなくてダークサイドを全開にした細田流サイコホラーとか見てみたいとおもう。『影の車』のアニメリメイクとか(絶対に大傑作になると確信している)
【ママー!これ買ってー!】
庭から過去に行く展開も乳幼児の妹に嫉妬している問題児の兄というキャラ設定も家族愛を前面に打ち出しているところも同じなのにどうしてここまで差がつくのか。
先日観ましたがどうも似たような感想で細田監督には失望したという感じでした。
ストーリーは支離滅裂だったけど『バケモノの子』の方は割と笑えるクソ映画って感じだったんですけどね。なんか今作は嫌悪感が先に来て駄目でした。
面倒くさいし酔っぱらってるので凄くざっくりとした感じで言いますが記事内でも触れられてるクライマックスで迷子になって地獄行きみたいな新幹線に乗せられそうになるところは、多分他者(この作品においては妹のミライちゃん)を受け入れられない新幹線オタクのくんちゃんは他者との関係を断って自分が大好きな新幹線の世界の中に閉じこもればいい、だけどそれでは幸せにはなれないよという何か歪んだ価値観を押し付けられてるような気がしました。他人と関われないアニメオタクは一生一人でアニメだけ見てろよ、映画オタクは映画だけ見てろよ、みたいな。
まぁ自分の世界にだけ耽溺して象牙の塔にこもるのは必ずしも良いことではないと思いますけど、その善し悪しは他人に定義づけられるようなものではないはずだと俺は思うのです。だからあの展開で締めるのはキツかったな。記事内にある自己を承認できる他者は家族だけであるというような表現も控えめに言って最低だったと思います。なんでこんなに窮屈で息苦しい物語になったのか分かりませんがとにかく残念です。
どうせなら未来から妹が来るんじゃなくて進路のこととかで親と揉めている自分自身がやってきて二人のくんちゃんが触れ合う中で家族との関係を再構築していくという感じの方がベタで良かったのではとも思いますが、まぁ女子高生が出てくるという方が何かといいのかな。どうかな。まぁ女子高生嫌いじゃないですけど。
ちなみに同日に『セラヴィ!』も観ました。素晴らしかった。割と対極にある映画な感じがしましたね。まぁこんな感じでいいんじゃないの別にそうじゃなくてもいいけどっていう『セラヴィ!』と、こういう風にしなきゃダメですよ!ていうのがプンプンしてくる『未来のミライ』とで。アヴィシャイ・コーエンの音楽は本当に素晴らしかったです。ご存知かもしれませんがああいう感じの音楽がお好きならシャイ・マエストロ・バンドというjazzトリオもおすすめです。アヴィシャイと同じくイスラエルのミュージシャンです。
記事の内容と関係ない話になってきたのでそろそろ寝ます。それでは。
確かに、なんでこんな窮屈な話になったんすかね。バケモノとかは破綻してるとは思いますけど物語にイマジネーション豊かな広がりがあったので…。
想像ですけれど、なんか大作の罠にハマって身動き取れなくなっちゃったとかじゃないすかね。ネクスト宮崎駿みたいな感じで担がれて、大きな関連イベントの開催とか過去作のテレビ放送とか各種タイアップも事前に決まっていて、その枠組みの中で関係各位に配慮しつつとにかく企画をポシャらせないように腐心した結果がこれかもなぁと思いました。
シャイ・マエストロ・バンド、覚えておきます。
訂正です。シャイ・マエストロ・バンドではなくシャイ・マエストロ・トリオでした。
ながい。まとめろ。
細田守は宮崎駿や押井守ではなく、
今敏や庵野秀明(エヴァ以外)ですらなく、
イデオロギー的なものを深く考えて作る人じゃないと思うよ。
単に自分の育児体験にフォーカスし過ぎたり、脚本を他人に頼らなかった結果、
過去作はカバー出来ていた脚本構成力の無さが露呈した結果に見える。
現に演出力はいつも通りで、4歳の男の子のうざったらしさは良く表現出来ていたし、『なんとなくエモい』細田作品の良さは出ていたと思う。
一読すると左巻きの方なんだろうけど、どうも『語り』を越えて『論評』したがる筋の方は、合わないとか嫌いとかつまんないとか素直に言えずに複雑な社会構造と結び付けたがるけど、駿翁の次作で存分に語れるんじゃないだろうか。
細田守は脚本で誰か入ってもらうといいんじゃないかな。
俺も細田守はあまり思想で作品を組み立てる人ではないと思ってますよ。こうやって長々と感想を書いているのは俺の感性には合わなかったこの映画が、どうして合わなかったのか単に自分で考えてみたかったからで、こういう思想を持っているからダメだとか良いとかそういう話ではないです(細田守は無意識的に相当保守的な人だとは思ってますが、だからダメなのではなく、だから俺にはめちゃくちゃ合わなかったということ)
脚本に関しては俺はわりとよくまとまっていると思っていて、結構大きなプロジェクトなので各種タイアップとか考慮に入れて協賛企業からクレームとか付かないように無難に仕上げようとした結果がこれなんじゃないかなぁと。
たぶん本文にも書いてますけど俺は『バケモノの子』みたいに迸るエモが論理をぶっ壊すシナリオが細田守の真骨頂だと思ってるので、逆に首尾一貫した巧いシナリオみたいのは目指さない方が映画として面白くなるんじゃないかなぁって感じです。っていうかそういう細田守映画が観たいんですよ、こういう守りに入ったやつじゃなくて。
なるほど。
ご返信ありがとうございます。
個人的にポスト宮崎を探し回ってる広告屋さんの作る流れは、必ずしも良い流れにはならないこともあると思います。
何にせよ細田さんの次作には期待したいですね。
吾朗さんとか米林さんとかもそうですが、ポスト宮崎駿の十字架を若いクリエイターに背負わせるのは才能を潰す行為だと思っているので、細田さんはそのへん上手く立ち回れている分だけ十字架から逃れられなくて気の毒な感じはします。