《推定睡眠時間:0分》
少年たちがキャッチボールをしながら住宅街をダラ歩きしているとふとしたはずみでボールが幽霊屋敷のような門構えのご立派な邸宅にインしてしまう児童漫画的展開に。
少年の一人が勇敢にも正々堂々不法侵入、ボールを取り戻そうと不気味な邸宅のお庭に踏み出すが、そこで彼を待ち受けていたのは生気のない花々のトンネルアーチ。
訝りながらトンネルを進んでいくと遊具の散らばった裏庭に出る。まるでさっきまで誰かが遊んでいたかのような散らばり具合、でも誰もまだ触れていないかのようにピッカピカの遊具。まもなく沈もうとしている夕陽が幻想的な色彩をその場に与える。
少年はそこに、リクライニング車椅子で眠っている、眠っているように見える、生きている、生きているように見える少女の姿を認める。これはいったい…。
いやこれ素晴らしい導入じゃないすかね。ビジュアリスト堤幸彦の本領発揮。こーの短いシークエンスで何のお話かっていう情報を画面に目一杯詰め込んで、ながら、見てるやつを異世界に連れてくからね。
映画はそこから回想シーン…というかまだ少女・瑞穂が生きていた頃に時間が一気に移動するのですが、そのことを示す説明テロップも出ない唐突な場面転換の後はその家、播磨家の長男・生人くんが例のお庭で飛行機遊びをしているところから始まる手持ちカメラの長回し。
ふらふらぐるぐる動き回る生人くんの後を追ってカメラ、家の中へ。ダイニングで慌ただしく外出の準備をしている播磨薫子(篠原涼子)や瑞穂なんかを視野に入れながら今度は薫子を追って隣の部屋へ。
薫子と瑞穂の会話。後ろにチラ見えするうるさい生人。その部屋は、その後、瑞穂の眠るドールハウスになる。
カット変わって家の外。薫子の母親・千鶴子(松坂慶子)と瑞穂がプールにお出かけするところ。冒頭に出てきた少年には幽霊屋敷に見えたあの門の前。
ちょっとしたやりとりがあって、それからカメラはふわりと浮き上がり家を鳥瞰。嘘っぽい、現実感のない、ハリボテのような家を背に、タイトル。『人魚の眠る家』。
ぶっちゃけ特にストーリーに新味があるとか意外性があるとか(あるけどそれは伏線の薄さに起因するもので…)そういうわけでもなければ俳優の演技がやべぇわけでもないと思うのですがアバンタイトルでこれだけやられたらもう面白いが確定だ。
ついでに申せばこの複雑な構成のアバンタイトルはエピローグに繋がっていて、とにかく、画で見せる。実写SF映画不毛地帯の邦画界に一輪のケバケバしい花が咲いたなという感じで面白いし面白い以上に、うれしかったなこれは。
以上の絶賛は完全にツツミストの偏愛と色眼鏡なのでここから先も完全に目が曇っているが読む人はそのへん分かった上で読んでもらいたい。
楽じゃないんですよツツミストは。こういうちゃんとした映画も撮るのに『真田十勇士』みたいな爆発的な廃棄物も普通にぶん投げてきますからね堤幸彦。
それ受け取るまでわからないから。だから時に血を吐きながら堤映画を見てるんですよ我々ツツミストは! 誰に向かって何のために言っているのかわかりませんが…。
一応ストーリーおさらい。事故で脳死状態になった瑞穂少女。脳死だから自力での呼吸不可、今は身体が生きているがやがてはそれも死んでしまう。
そこまでは良かったが(よくないが)、臓器提供を許可する場合はそれに際して脳死判定が行われるとの医師の説明を聞いて母親の薫子は困惑する。
え、生きてるんですか? いや、脳死状態ですが臓器提供に際しては更に脳死判定というものが必要で…。じゃ脳死じゃないんですか? いえ、脳死状態なんですが…。
法整備の遅れと二重基準に翻弄される個人の図。それだけでもマインド整理が付かないのに、まだ身体には血が巡っていて温かいものだから薫子にはとても娘が死んだとは思えない。
地獄への道は善意で舗装されている。別居中の夫(西島秀俊)が代表を務める先端医療機器メーカーの若手研究員(坂口健太郎)がちょうどその時、身体障害補助デバイスの臨床実験中。
その男・星野の提案でまず横隔膜ペースメーカーが瑞穂少女に入れられる。これで呼吸は問題なし。外からは健康体に見える。
それから例の身体障害補助デバイスを導入。こういうのって脳からの信号を読み取って動かなくなった部位を動かすとかじゃないんすか? の質問に星野は明確なノーを叩きつける。脳は必要ありません。外部から信号を作り出してやればいいんです。
非常に言い方は悪いがその補助デバイスの作動風景、見た感じ『死霊のえじき』でフランケン博士がゾンビの死体を動かしてる場面みたいであった。
最初は可哀想なお母さんの話と思うたがそういう次第で段々、おぞましい感じになってくる。
愛しさと切なさとおぞましさと…いやそんなこと言っていられるようなふざけた映画じゃないかったすねすいません。
脳死なんてなかった。サイボーグ化した瑞穂少女はもう完全に眠っているだけに見える。少なくとも薫子にはそう見えた。
だから生きている子供にするようにおめかしして七五三を祝うし、子供行事的なやつには全力で参加する。
瑞穂少女の眠る部屋はドールハウスのようにゴテゴテと飾り付けられる。あぁお客さんだ、出迎えなきゃね。だって生きているんだから。
眠っている瑞穂少女に可愛い服を着せて、モジュールシンセ的なビジュアルがカッコイイ星野デバイスのツマミを薫子が嬉々としてちょいといじると、瑞穂少女は眠ったままウェルカムのポーズを取る…。
うーん、こわい。ある意味で流行りの毒親概念を煮詰めたような社会派親怪談だ。この光景には既視感がある、と思って記憶をまさぐるとそういえば俺の父親は酒に酔って溺死しているのだが、それから母親が喪失感の埋め合わせかヌイグルミを大量に集め始めたことを思い出してしまった…。
いるんですよそういう人。いるんです。その生々しさにいま研究開発競争がアツイ感じの先端医療デバイスを接続するもんだから他人事じゃない感高し。良いっすねこういう地に足のついたSF映画は。
あとやっぱり映像のテンションが高くて良かったなぁ。結構ざっくりしたシナリオだから冷めるっていうかなにそれってなる部分とかあるんですけど、アバンタイトルの時点で映像テクニック試せるだけ試しとけみたいな感じだったから、統一感とかは全然ないんですけどドライブ感はすごかった。
それで結構騙されちゃうんですよ、ディテールの甘さとかご都合主義とか。キャラクターが感情揺らしまくってるところの無言の表情をズームに寄せて意図的に手ブレとノイズを強調したクロースアップで切り取るとか、J.J.エイブラムスもびっくりのハレーションと逆光の超多用で画面を塗りつぶすとか、なんかちょっとスティーブン・ソダーバーグの映画みたいな即興的実験風映像手法。
色彩も結構強烈で色彩っていうか、照明とかプロダクションデザインも込みでなんですけどなんだかマニエリスム的な過剰さ。
例の庭のガーデニングとかはルドンの花絵みたいだし、もうぐっちゃぐちゃですよ、色も物も。画面に余白が一切ないんです。全部なにかで埋め尽くしてしまう。
そういう過剰な装飾性やひけらかし的な映像テクニックがあったかと思えば介護風景は急にディテールに凝ったドキュメンタリールック、とかまぁそういう感じなわけです。ドライブ感あるでしょ。
こうやって書いてるとなんか支離滅裂な映画みたいですけど題材に対する距離の取り方はかなり冷静で、脳死状態と脳死の狭間でぶっ壊れていく薫子のグロテスクはグロテスクとして画面に収めつつ、そのグロテスクを生んだ状況のグロテスクとか、それに対する様々な視座とか、悲劇の諸相をフラットに満遍なく提示してくる。
こうして破綻すれすれになった展開をオープニングが予示していた寓話の装いで強引に納得させるとそういう構造の映画だったので…いや、これは面白かったし真面目によく出来てると思ったなぁ。
【ママー!これ買ってー!】
こういうシリアスな映画の関連作としてウェス・クレイヴンのスプラッターを置くのはどうかと思うが観てたらなんか思い出しちゃったから…。
↓原作