《推定睡眠時間:15分》
フィルモグラフィーを見ると意外とそうでもなかったので俺の偏見なのだが、なんとなくロック系パンク系の映画によく出る人、のイメージがあるエル・ファニングがメアリー・シェリー役なものだからバンド映画・バンギャ映画に見えてしまった。
ダグラス・ブース演じる夫のパーシー・シェリーがまたいかにもなバンド系ダメンズ加減で…作りは飛び道具なしの王道コスチューム・プレイなんですけど漂う濃厚なUKロック臭っていう、そこちょっと面白かったですね。エル・ファニングが詩を読むところなんて伴奏がないだけであれはロックです。
そんなとこなの的な微妙すぎる良かったポイントを文頭に置いておく筆運びからなんとなく言わんとすることを察してほしい。これを読んでいる人が仮に日本の人ならこういう時こそ日本人の忖度力を発揮してもらいたい。
いや別につまんなくはなかったんですよ、とくに面白くもなかったってだけで。だからもうバンド映画っぽかったなぁっていう以外の感想もあんまりないっすよね…俺にとってはそういう映画で、『メアリーの総て』。
でも見ながら一応考えてたんですよ、なんで俺この映画そんなにノれないんだろうなって。その当座の答え、主人公エル・ファニングだったからじゃないすかね。
いや、前言を早くも撤回しますけれども感想あったわ。エル・ファニングは独特の雰囲気を纏った良い女優さんだと思いますけど俺この映画のエル・ファニングに関しては見てて口がへの字になったな。
まずあざとい。エル・ファニングがっていうか映画としてっていうことですけどメアリー・シェリー、よく知らんけれども『フランケンシュタイン』書いたんだからゴシック小説と今日的なSFホラーを繋ぐパイオニア的な重要人物なわけじゃないすか。でもそのわりにどんな人生を送った人なのか一般的に知られてないわけじゃないですか。いやこれは完全に俺の私見ですけど。
それでその重要人物の半生と『フランケンシュタイン』誕生の謎に迫るといって…一応の伝記映画としてここで描かれたものがどの程度メアリー・シェリーの個人史に忠実なのかっていうのはとりあえず脇に置いておくとして、それを演じるのがミステリアスな佇まいと強靱な意志の同居するエル・ファニングっていうのが超安直に感じられたし、ジャンルとしての文芸映画的な風格を気取りながらコマーシャリズム丸出しじゃねぇかみたいになったんですよ、俺は。
だってそんなの見たくなっちゃうもの。でも意外性がなさすぎて全然おもしろくないんだもの。このアンビバレンス。
たとえばの話ですけど『ボヘミアン・ラプソディ』でラミ・マレックがフレディ(のイメージ)になりきったりするのとはまるで違うじゃないですか、こういうのは。
ハナから売れてて主演でキャスティングすれば絶対客入るってわかってるスタァをそのパブリックイメージとなんとなく合致する実在人物役で呼ぶんですよ。これはあざといよ。
今でも依然としてその傾向は強いクリエイター=男な世界に敢然と立ち向かうメアリー・シェリーをエル・ファニングが演じたらそりゃ格好いいしね。
あざといけどこれがエンパワーメントってもんじゃないですか。いろいろと勇気づけられる人は多いんじゃないすかねエル・ファニングのメアリー・シェリー見て。
おれ嫌なんだよこういうやり方が…NASAの黒人女性技師を描いた実録映画『ドリーム』を見た時も散々それで文句言いましたけど、あれだって勇気づけられる人は沢山いるだろうから正面から悪く言いにくいところがあるじゃないすか
でも『ドリーム』のシナリオは大部の原作ノンフィクションからほんの僅かな物語に都合の良いエピソードを拾っただけのほぼほぼ創作で、俺はそんなことをしたらあの原作の持っていた確実に時代を動かしたけれども大文字の歴史に埋もれて忘れ去られた名も無き黒人女性技師たちに光を当てるっていう意義が致命的に損なわれてしまうと思うんですけど、エンパワーメントになるならそこは犠牲にしてもいいじゃんっていう本末転倒な無神経があるんですよ映画版の『ドリーム』には。
『メアリーの総て』もそのへん計算ずくで作ってるように感じられたし、そうだそれに付随してここは超々納得がいかなかったんですけどエル・ファニングが最後までずっと綺麗でフランス人形みたいで…。
知的エリートの上流家庭に育ったメアリー・シェリーは何一つ不自由のないはずのその環境に自分でもうまく表現できない窮屈さを感じていて、心の中で燃えさかる表現欲求には戸惑いを、それを理解しない家族には苛立ちを覚えていた。
そこに自由主義の詩人パーシー・シェリーが現れる。自分の表現欲求を彼こそは解放すると見たメアリー・シェリーは召使いで友人のクレア(ベル・パウリー)を連れて駆け落ちするが、詩人の生活は楽ではなくセレブ生活から一転して借金取りに追われる貧乏生活に。
…みたいな展開じゃないすか『メアリーの総て』。それでパーシー・シェリーの方は金がないからどんどんやつれて見た目も人間性も汚くなってくんですけど、エル・ファニングのメアリー・シェリーは最初から最後までずっと身も心も綺麗なままってそりゃおかしいだろう。
エル・ファニングは強烈な存在感はあってもあんまり繊細な感情表現を得意とするタイプの俳優じゃないから、こういう演出上の問題もあってお人形感を超絶醸す。
そうしたことの総てが映画に及ぼす効果を考えてみるに、『フランケンシュタイン』という物語の持つおぞましさと高貴なもの、科学的なものと神秘的なものの混淆が、聖女エル・ファニングとそれ以外の全ての下らないものって風に遠心分離機の中で単純化されて、『フランケンシュタイン』の誕生を描いた映画なのに『フランケンシュタイン』自体はその遠くへ遠くへと追いやってしまっている、ように思う。そりゃダメだろう名作誕生もの映画として。
でも、たぶん、そういうことじゃないのか。エル・ファニングのファッションと立ち振る舞いを素直に楽しめばいいのか。カッコいいなって思いながら。ロック映画だし。
良かったところ、そういえばバンド映画っぽさとUKロック臭以外にもあった。エル・ファニングの引き立て役として汚れ役を担う人たちはみんな見事な落ちぶれっぷりだったのですが、特にベル・パウリーのうねうねと動き回る品のない皺が不気味に素敵で、なんか、こういうところじゃんみたいな。
こういうところにドラマは宿るものだし、『フランケンシュタイン』的な醜悪なものの中の高貴な美もあの皺の動きにこそ見出されるような気がし…ベル・パウリーはすげぇ良かったですね。
【ママー!これ買ってー!】
さも読んだことがあるかのように感想を書いているが実は読んだことないのでこの冬の課題図書にしようと思いますが読んだことがないくせにこれだけ悪く言える自分に自分でドン引く。
今更ながら観たのですが、あぁ確かに言われてみれば追っかけやってる10代のアホなバンギャの映画にも思えますね。というかそう言われたらそのようにしか見えなくなってしまう(笑)。
個人的には信じた男に付いていったけど裏切られて、今更やり直すことは出来なくてその情念の籠った魂を作品として叩きつけるっていう感じが演歌的だなと思ったんですけど、バンギャが我に返って金と時間をつぎ込みまくった自分と向き合う映画だと思えばまた違った視点を与えられたようでもあります。
まぁ別にその違った視点で観直そうとは思わないですけど…。
しかし同日に『ビサイド・ボウイ』も観たけれど期せずしてUKロック繫がりの映画だったのか!いやボウイもミックもパーシーのようなダメンズではないと思うが。『メアリーの総て』とは関係ないけどミックのいい人オーラには癒されました。
演歌的だったかもしれません。確かに。これ難しいんですよね、詳しい伝記は読んだこともがないんですが、実際のメアリー・シェリーは同時代の文学的な素養があってどうもそこまで落ちぶれていた感じではないっぽくて…だからフランケンシュタインも魂の一作っていうよりはアマプロ的な人の技巧を凝らした趣味的な作品なんだと(紀行文的なパートは当時のメアリー・シェリーの旅行体験が反映されているんだとか)思うんですが、まぁでもそうすると盛り上がらないっすからね…やっぱり人は演歌的なものが好きなんだなぁみたいな身も蓋もない感想も抱きます。
ミック・ロンソンは「十番街の殺人」が商業的に失敗した後に出たトーク番組で嫌な顔ひとつせず失敗の原因を語っていたので、あれを見て絶対良い人だと確信しましたね。グラム期のボウイとアンジーの横にずっと居てサポートするとかそりゃ良い人じゃないと出来ないですよ。