《推定睡眠時間:0分》
さっさと別れりゃいいのに、と、歌手夫婦アリー&ジャクソン(レディー・ガガとブラッドリー・クーパー)のロマンティックな悲恋を冷めた目で眺めながら思ってしまうが、こういうのは俺の実質ゼロな恋愛経験に起因する可能性が濃厚である。
なんか色々あるんでしょうね男女間。性愛? 情愛? っていうんですか? 俺の目にはただ暇があればヤってるだけにしか見えませんでしたけれども、あのヤってるだけの関係の中には抜いても抜けないし入れても入らない、みたいな奥の深い感情のヒダヒダがあるんだろう。
実際、しかし二人はヤってるだけなのだった。『アリー/スター誕生』という映画は徹頭徹尾フィジカルな映画で、精神的なものの全ては人間の内面に引っ込まないで行為として表面に現れる。
ムカついたら殴る。感情が昂ぶれば歌う。愛したければヤる。あるいは逆もまた然りだ。表面こそが人間の全て。
下積み時代のアリーがドラァグクイーンに混ざってナイトクラブで歌っているというのも故なきことではないだろう。
「歌は良いけど鼻が…」という、アリーの歌手としての才能を(少なくとも表面的には)認めながらも協力は拒むレコード会社の人間の台詞は、そのまま映画全体を貫く原理になっているわけだ。
そのことはまた、この物語が進行性の難聴を抱えたジャクソンのためにあることを教えてくれる。
ジャクソンと世界を隔てる音の壁をアリーは裸体を晒しその肌に触れることで突き破る。それこそジャクソンが求めたものだ。
ジャクソンが惚れたのはアリーの歌声なんかではなかったのだ。アリーの目、眉、そして鼻なんである(だって歌なんてよく聞こえないんだから)
そうしてみるとこれはどうも男ファンタジー入りすぎなんじゃないかと思うのですがどうなんでしょうか…いや良い悪いとかじゃなくてメチャクチャ男目線でナルシスティックな映画だなぁっていうか…。
要するにお前はずっと俺の可愛い人形でいてくれよ的な話じゃないすか、不器用な西部男の。
アリーは歌で自分を表現したいのだけれどもその素晴らしい歌声は一番近いはずのジャクソンにこそ届かなくて、でもジャクソンの方は別にそれでも構わない。
だから、ジャクソンの手を離れて自分の足でスター街道を歩み始めたアリーにジャクソンが抱く感情は歌手としての嫉妬なんかではないわけだ。
その肌に直に触れる機会が減ったこと、その顔を間近で眺めることが困難になったこと(アリーの顔をスタジオで遠くから眺めるジャクソンの表情を思い出してほしい)、それがジャクソンからアリーの存在を引き離す。
あの音の壁が再び二人の間に打ち建てられた。とすれば、それからジャクソンが取った行為の表面的な(映画的なと言ってもいい)気高さの裏側に、男の身勝手な願望が透けて見えないでもない。
ようするに歌うな、というわけである。もっとも、その禁止の声をアリーが歌で乗り越えるところにこの映画の感動があるのだけれど。
アップの画が多い。スナップショット的なシーンも多数。アリーとジャクソンの会話はオフショットのように親密だ。全体的に主観的。被写体とカメラの距離が近い。
これも表面志向の表れか、という気もするが単にアマチュアイズムなのかもしれない。なかなかプロっぽくない妙なリズムを刻む編集が施されていたりもした。
直情的なというか詩的なというか。まだろくに自己紹介も済ませてないのにドラァグ化粧を施したアリーを見るや「君の素顔が見たい…」とのたまうジャクソン=ブラッドリー・クーパーが製作・監督兼任。
台詞そのままに作られたものよりもありのままのものを欲するわけであるこの人は(ところでぼくはそのへん詳しくないが、アメリカ人にとっての自然はどういうわけか沈黙と結びつきやすい)
面白かったところといえばそういうところで、アリー=レディー・ガガの歌やっぱ圧巻なんですけど意外なほどそこに力点が置かれない作りになっているのは、作り手が歌の物語だったりガガの物語としてこの映画を撮る気がなかったからだろうと思ったりする。
で、それがストレートに出てるから映像にシンプルな力強さがあったし、上に挙げたような意味でかなり古色蒼然としたストーリーなのだけれども(リメイクだし)、その古さへの意志というのが逆にちょっと琴線に触れてしまったりもする。
静のブラッドリー・クーパーと動のレディー・ガガの演技合戦もよかった。俺ガガみたいな主張の激しい芝居とか基本好きじゃないんですけど、これ横に置物的なクーパーがいるから中和されてちょうど良い感じで見れた気がしますね。
つまらないところ…つまらないところといえばレディー・ガガはもとよりブラッドリー・クーパーも立派に歌えるのに映画の基調は歌否定っていう不協和。
いやつまらないっていうかその独特の捻れが映画として面白かったりはしたんですけど、やっぱ『ボヘミアン・ラプソディ』みたいにバンバン歌聴かせて欲しかったなぁもったいないなぁ、みたいなところはありましたね。そういう感じ、です。
※2018/12/26 追記:
ジャクソンにとっての音楽とは聴覚的なものではなく触覚的なもので、そのことはジャクソンがアリーに話す父親のレコードプレーヤーに頭を突っ込んだ(的な)エピソードからも窺える。
生音とステージ演奏に固執したり、補聴器の装着を頑なに拒んでいた理由もそのへんにあるんじゃなかろうか。スタジオと補聴器はジャクソンに明瞭な音を与えるが、空気を漂う音との直接の触れ合いは妨げるのである(と、おそらくジャクソンは考えている)
アリーの歌はジャクソンにとって、共にステージに立っている時だけ価値を持つのだ。
【ママー!これ買ってー!】
レディー・ガガとマリリン・マンソン(素顔)って顔面の系統似てませんか。リンクは特に映画と関係ありませんが好きなアルバムなので…。