《推定睡眠時間:0分》
たぶんシリーズ1作目の『アンブレイカブル』と2作目の『スプリット』を観てる人ならこのオチはオチでもなんでもない完璧に予想できる範囲のもの(というか…)だと思うがシャマランと言えばビックリオチ的なパブリックイメージが未だ根強い我が国シャマラン事情であるから一応、オチは伏せつつ、途中からちゃんとここからネタバレ入りますの一文を置いた上でネタバレあり感想に入る。
どうだ優しいでしょう。シャマラない人にもちゃんと配慮しますからね。俺は優しいですけどでもシャマランは他人に優しくないから1作目と2作目を観てないとハァ? ってなること必至。
ストーリーはまぁ難しくないので観てればわかる。でもぶっちゃけ何が面白いんだって感じだろう。1作目と2作目っていうか、シャマラン作品全般観てないと。
その意味ではめちゃくちゃファンアイテムで、ファンの人にはシャマラないがファンでない人にはなんだかシャマラない映画と映るんではなかろうか。
ちなみに俺はそんな別にファンじゃないんですけどそこそこシャマラン映画観てるのでわりと付いて行けた感じ。
最後とかよかったですよね、いや大丈夫まだネタバレには入りません、入りませんが印象だけ言いますが、シャマラン見ず知らずの他人には優しくないけど自分と身内には優しいからこれも前作『スプリット』同様、いやそれを言うなら前々作『アンブレイカブル』とも同様の馬鹿馬鹿しい愛に溢れていて。
正直に言えばしょうもねぇなっていう気もしたよ。しましたけどね、そのしょうもなさを最後までやり遂げる姿勢に癒やされるんですよシャマラン映画は…。
ふわふわした印象論ばかり書いていても仕方がない。ストーリー。自称スーパーヒーローの3人が超人症候群を研究する精神科医に捕獲された。
鉄を曲げる怪力男(ブルース・ウィリス)、特定人格になると驚異的な身体能力を発揮する多重人格男(ジェームズ・マカヴォイ)、そしてガラスのように骨が脆いが超脳力を持つ男(サミュエル・L・ジャクソン)。
果たして3人は本当にスーパーヒーローなんであろうか。それとも単なる誇大妄想狂なのだろうか。マッド博士の危険な実験が幕を開ける…。
129分とか上映時間があるのですが基本的にこれだけの話。でも気付いてたら終わってたからやっぱシャマラン見せ方巧いんです。
一応言っておきますがサスペンス的な興趣とかは基本的にない。今回のシャマラン映画そういう面白みで勝負してんじゃなくて、3人のヒーロー願望がどのように形成されていったかっていう内面のドラマすかね、面白さの大部分。
だから微妙にコメディとアクションとSF要素の入ったヒューマンドラマといった方がジャンル的には近いかもしれない。『K-PAX 光の旅人』とかね。
スイッチひとつでパチパチ変わるジェームズ・マカヴォイの多重人格変化っぷりは笑えたし、『スプリット』から続投のウェスト・ディラン・ソードソンによる神経症的な音楽も不穏でよかった。
はいじゃあもうそろそろ我慢できなくなってきたのでネタバレ入りまーす。
だからこんなのネタバレじゃねぇっていうかむしろ逆でシャマランは基本的に予定調和の人なんですが、その予定調和って神学的な意味での予定調和で、人智を超えたものが人の運命を決定するっていうことだからそれを人間スケールで眺めるとどんでん返しとかびっくりオチに映る。
『シックスセンス』も『レディ・イン・ザ・ウォーター』も『ハプニング』も全部そうですから。一般受けを狙った『ヴィジット』とかはちょっと例外ですけど基本的にはそういう神秘主義がシャマランの思想で。
なのでですね、3人やっぱ科学では説明できないスーパーヒーローなんですよ。でマッド博士はスーパーヒーローたちを理性と合理性と精神医学でもってその存在を消す組織の人だった。もしスーパーヒーローの存在が公になってしまったら現代の秩序がぐちゃぐちゃになるから、スーパーヒーローを見つけたらまずあなたは精神病ですと言って、それが通じなかったら葬ったりする。
ミスター・ガラスはそのことに1人気付いていて、どうしてもスーパーヒーローの存在を世の中に認めさせたいこの人はそのために捕らえられたよう装って、マッド博士の実験を逆に利用してたわけです。結果、3人ともくたばってしまったがスーパーヒーローの存在を示す証拠動画が世界中に拡散。かくして救いはもたらされた。
ようするに信ずる者は救われる的な篤信と救済の説話なわけですが、この映画が独特なのはその信仰対象がイエスとかじゃなくてアメコミっていう。
これ泣けるよなぁ。『アンブレイカブル』で既に明示されていたことではありますが、ミスター・ガラスは体が超弱いからコミックのスーパーヒーローにずっと憧れていた。
コミックこそミスター・ガラスのバイブル。こんな人たちは本当にいるんだ、本当にいるんだって終生思い続けてついに本物のスーパーヒーローたちを発見、世界にその存在を知らしめるという…革命じゃないですかこんなの! シャマレボリューションですよ!
こんな大の大人なら思い付いても思い留まることを本気でやるシャマランすげぇ。ミスター・ガラスもすげぇ。でも死に際の捨て台詞は笑ったけどな。「ぐはあぁぁぁ…な、なんて古典的な死に様…!」
そこはちょっとパロディ的な趣を感じさせるところで、そもそもサミュエル・L・ジャクソンといえば『スターウォーズ』プリクエル3部作や『ジャンパー』でスーパー能力を持った人間を取り締まる側だった。
それが今度はスーパーヒーローを解放する側に回るんだからわかるやつだけ分かっとけや的なシャマランの映画ジョークでしょね。糞真面目に見えて意外と余裕のある作りになってたりするわけです。
あとね、3人がスーパーヒーローになるきっかけっていうのがちょっとイイ話でした。ミスター・ガラスがヒーローに執着するようになったのはコミックのせいですが、これミスター・ガラスのお母さんが少しでも肉体の苦痛を忘れてもらおうと思ってプレゼントしてたんですよね。
で、スプリットさんの“ビースト”と呼ばれるスーパーヒーロー(というかヴィラン)人格が生まれたのは虐待で苦しむ主人格ケヴィンを守るためだった。怪力男のデヴィッド・ダンは息子が強い父親を望んだからヒーローになろうとして実際になってしまった。
みんな誰かのためにヒーローになろうとしたり、誰かからヒーローの概念を与えられて、それを祈るように信じ続けてきたわけです。
だからラストに訪れる救済というのは人間性と人間への信頼の回復と言い換えることができるのかもしれない。
カルトといえばカルト、幼稚といえば幼稚、そう言われたら一言もないのですが、まあでもシャマラン本気だから、本気の映画にはカルトでも幼稚でも心を打つところがあるんだよ。
ちなみにダンさんの息子役のスペンサー・トリート・クラーク、回想シーンで入ってくる『アンブレイカブル』の子役と顔超似てるなぁと思ったらそのまま本人起用でした。
なおアニヤ・テイラー=ジョイも『スプリット』からそのまま続投。クラークもテイラー=ジョイもそれほど大きな役ではないのですが、代役ではなく本人をの拘りに、登場ヒーローたちの衣装への儀式的執着と似たものを感じる。
『ミスター・ガラス』という映画自体がシャマランにとっては、自らが信ずるものの価値を確かめるための典礼だったんではないかと思う。
※2019/1/20追記
なかなか後から沁みてくる系の映画なので今日もまたこの映画のことをボヤボヤ考えていて、それで俺この映画の贖罪と聖痕のモチーフの重要性に気付けてなかったなぁと思ったりした。
痛みの体験の中にだけ聖なるものの顕現がある。シャマランは痛みを否定して癒やすんではなくて痛みに意味を与えて肯定するんですよね。
だから『アンブレイカブル』で狂った爆弾テロリストだったミスター・ガラスが『ミスター・ガラス』では贖罪の死を引き受けるコミックのキリストになる。
『スプリット』では狂った連続監禁殺人鬼が同じ痛みをもつ少女の救世主になる。そういう狂気と接する奇跡的な転換がシャマラン的ユニバースでは起きる。
あぶないなぁシャマラン。そのなんていうか紙一重のところでギリギリ俗世に留まってるあたり、シャマランの映画作家としての巧さと胆力を感じますね。
【ママー!これ買ってー!】
シリーズ化してほしいくらい面白かったがAmazonレビューで星2つでした。
↓前作と前々作
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