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イーストウッド映画の「映画らしさ」がなんでこんなに有り難がられているんだろうと思ってしまうのはたぶん世代差で、結局その映画らしさというのは映画史における特定の時期の特定の地域の特定のジャンルの映画らしさでしかないわけで、ごく一般的にそのような時間的にも空間的にも限定されたもの、歴史を通り過ぎていったものに感じる曰く言い難い感慨を我々はノスタルジーと呼ぶのだろうが、ようするに俺は世代じゃないのでそこらへんがハートにヒットしない。
個人的には、イーストウッドという映画監督は伊達に何十年もの間に何十本もの映画を撮っていないのでそのような客の勘所がよくわかっていて、また自分をどう見せるかとか、客や評論家からどう見られているかとか、超ベテラン俳優として身に染みて知っているはずなのだから、作家云々というよりはその眼差しを正確にキャッチして客や評論家が欲しがる「イーストウッド映画」を作る職人なんだと思っている。
ぼくはセガール映画をよく観ますがあんなもん全部ファンアイテムでファン以外にはゴミっていうのと同じで…とまで喩えのレベルを下げるわけにはいかないが、いやでもそういう感じは確かにありましたよ『運び屋』。
あーファンをくすぐりにかかってきてるなーみたいな。もう歳なんだから好き勝手に創作者の欲望を垂れ流しためちゃくちゃなもんでも撮ればいいのにね。でも最後までイーストウッドは人々の望むイーストウッドであろうとしてるんだろう。映画監督である以前にこの人は芯からプロのジャンル俳優なんだなぁと改めて思わされるところだ。
その内容。園芸界ではそれなりに名の知れた退役軍人のイーストウッドに特大ピンチ。園芸に熱中しすぎて品評会と同日の娘の結婚式をすっぽかしてしまった。娘激おこ。以来ほとんど口を利いてもらえなくなり、園芸の方もネット販売の波に押されて廃業を余儀なくされてしまう。
これは困った、というところに孫の恋人の友人だかなんだかを名乗る怪しいメキシコ系っぽい人登場。そいつの話によると車でちょっと走るだけで大金が手に入る仕事があるという。イーストウッドは無事故無違反の元長距離ドライバーでもあるからメキシコっぽい人の目に留まったのだった。
そんなうまい話があるのかねと思ってか思わずかは知らないが、とりあえず指定された車庫に行ってみるイーストウッド。金さえあれば園芸も再開できるかもしれない。半絶縁状態の家族とも仲直りできるかもしれない。
だが車庫の中に待ち受けていたのは銃を手にしたタトゥーマシマシのメキシコ人たち。どう考えても明らかにやばい仕事であった。どうなるイーストウッド!
だが心配するだけ無駄であった。歌なんかゴキゲンに歌いながらたまにモーテルで女買ったりなんかしちゃいながら緊張感と罪悪感ゼロで飄々とカルテルのシロモノを全米に蔓延させていく鬼畜爺イーストウッド。
誠にズコーって感じである。そりゃ家族も愛想尽かすわなって感じでもある。端から見ている分には楽しいが絶対こいつ身内にいたら面倒くせぇ。少なくとも一緒に暮らしたくはない。
題材のダーティ具合に反して基本的にはそういう脱力コメディ(「そういう」の内実を全然書いてませんが…)だったのですが、これが結構琴線に触れてしまうのはなんというか取り戻せないものは取り戻せないと、過ぎ去った時間は元に戻らないと、イーストウッドの空元気の端々から滲み出てしまうからだった。
それはイーストウッド映画のノスタルジーをユーモアと表裏一体の切なさから浮かび上がらせるもので、まるでイーストウッドがイーストウッドというキャラクターを半ばパロディ的に演じることで遠からぬ自らの死を予告しているかのように俺には思えたのだ。
カルテルの下っ端に銃を突きつけられたイーストウッドは言う。俺は朝鮮戦争に行ったんだ、撃ってみな、お前なんざ怖くねぇ。
これはきっと虚勢でもなければ肝が据わっているわけでもないんだろう。なぜならこの時のイーストウッドは園芸も家族も退役軍人会の友人も全て失った状態にあったから。死んでも良かったんである。殺すのならさっさと殺して欲しかったんである。
だから彼は、ある場面では大胆にもブツを積んだトランクをわざわざ警官の前で開けてさえ見せるのだ。
末端の運び屋をやりながら上の命令に従わずカルテルの下っ端を怒らせるイーストウッドの自由さは、鈍感さや楽天性や独立独歩の精神に裏打ちされた古き良き大らかなアメリカ魂の表現や称揚なんかでは決してない(と俺は思う)。
道中で出会う黒人夫婦とのやりとりやカルテルの下っ端と共に訪れる外人お断りのレストランが仄めかすのはむしろその終わりなんである。
ブツを運んで得た金でイーストウッドは園芸農家を買い戻す。解散状態にあった退役軍人会に多額の寄付をしてちょっとした催しをやる。別れたのか別居しているだけなのかは知らないが、ともかく長い間一緒には暮らしていない妻とヨリを戻そうとする。
けれどもそれらはもう昔の形に戻ることはない。イーストウッドはその切なさを誰に打ち明けることもできずにたった一人で噛み締める。映画の最後の台詞はだから、イーストウッド自身の口から言われる必要があったんだろう。
おネットの感想をちょっと観ると『運び屋』は『グラン・トリノ』とよく比較されてるっぽいが、それは『グラン・トリノ』が死に場所を求める男の話だったのと同じように、底抜けに陽気に見える『運び屋』もまた失われたアメリカの中で死を求めて彷徨する男の話だったからなんじゃないかと思ったりする。
ブラッドリー・クーパー&マイケル・ペーニャのDEAコンビの麻薬捜査パートやカルテルの内部抗争パートが極めて淡泊で物語上の必要最低限しか描かれないのはイーストウッド映画の定番演出かもしれないが、もうそんなものには興味が持てないよと言外に言っているようでもあった。俺はもう長くないから、そういうのはどうでもいいんだよ。
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捨て鉢になったイーストウッドがアメリカ中を走り回ってカルテルに貢献しているその頃、ベニチオ・デル・トロは寿命を課金して国境でカルテルと死闘を繰り広げていた。どこかの名画座で二本立て希望。
↓その他のヤツ
俺もイーストウッドは全然世代じゃないというか、むしろ祖父と孫くらいの年齢差なんだけどそこを意識するようになってからはなんかハートにヒットするようになりましたね。
最初に観たのが『許されざる者』で当時中学生だった俺はぶっちゃけ良く分からなかったしタイトルだけは知っていたダーティーハリーも面白いけど普通の刑事ものじゃん、むしろ古臭い刑事ものじゃん、くらいの認識で…古臭いのは当然だろ! てとこなんですがなにぶんガキだったので…。
でも20代後半くらいになってからかな、イーストウッド映画はなんだか親父の説教なんだと思うようになってからその世代間のギャップみたいなのは埋まったというか、受け入れられるようになった感がしますね。若い頃はうざいと思ってただけの親父の説教が歳を食ってからは結構いいこと言ってたな…と思えるような感じでしょうか。しかもそこら辺のおっさんのつまんねぇ説教とは違って映画としては面白いしイーストウッドは見た目も格好いいし。
>映画監督である以前にこの人は芯からプロのジャンル俳優なんだなぁと改めて思わされるところだ。
ここは本当にイーストウッドは良くも悪くもイーストウッドを演じてるんだなと思いますね。クリント・イーストウッドという名にどんな幻想を重ねられているのかを熟知していてそこからは絶対にぶれないもんね。そこら辺の作り手と受け手の関係とかは今やってる『サッドヒルを掘り返せ』でも主要なテーマに
なっていて面白かったですよ、とダイマしておく。
『運び屋』の話としては『グラントリノ』のように死に場所を求める話ではあるし、絶対に死から逃れることは出来ないという無常なテーマもあると思うんだけど『グラントリノ』よりもさらに達観してるというか軽妙になってる感じはしますね。死に場所を求めるっていうかもう死んでるようなもんだからいつどこでくたばってもいいよ、って感じで。実際棺桶に半分くらい入ってるジジイにそう言われると何も言い返せないのでズルイ気もしますが。
あ、あと劇場で一度見ただけで若干あやふやな記憶なのですが強面のメキシコマフィアが乗ってる車がほとんど日本車で、このジジイ…!と思いましたね。いやまぁきっと偶然だろう。そうに違いない。
俺もセガール映画はセガールの説教を聞くために観ているようなところがありますからやっぱりこう、アクションスターの映画っていうのは大なり小なりそういうものなんでしょうね。
車のことは全然なので日本車がどうこうは分からないのですが、確か『グラン・トリノ』には息子一家の車が日本車で「そんなもん乗りやがって…」ってイーストウッドが毒づくシーンがありましたね。
だから『運び屋』で最初に持ってる車をあっさり手放すところはちょっと笑いましたよ。そここだわらないんだっていう。それも、死を意識しての達観なのかなって感じもありますね。