アメリカンな映画『ビリーブ 未来への大逆転』感想文

《推定睡眠時間:0分》

映画の主な舞台は1972年のアメリカだったのですがその頃を描いた大好きな映画に1975年のロバート・アルトマンの大作群像劇『ナッシュビル』というのがあって、ベトナム戦争があり、ヒッピー・ムーブメントがあり、ウォーターゲート事件があって政治不信が噴出した、公民権運動は一定の成果をもたらしたけれども黒人差別の問題は依然としてくすぶっていた、そんな時代の混乱を南部テネシー州の州都ナッシュビルのカントリーフェスを通して描破したのが『ナッシュビル』だったのですが、混乱が頂点に達したラストシーンに無名のエキストラ女性警官が出てくる。

その瞬間が実に感動的だった。古い映画とはいえまだ観てない人のために一応ストーリーの核心部分のネタバレは回避しておきますが、まぁとにかく大きな事件が起きてカントリーフェスが象徴するアメリカがバラバラになりそうになる、でその分断の危機はなんとか治まるのですが、治まったところでカメラが何気なく群衆にそのレンズを向けると人々の間を例の名も無き女性警官が歩いてる。次いでカメラは群衆の中の子供達の姿を切り取っていく。

意図するところは明白ですよね。これからのアメリカを背負っていくのはあなたたちだからっていう、時代の変化と未来への微かな希望を現す場面。
アルトマンはアメリカン・ニューシネマの異端児とか言われたりする人だけれども元々は空軍にいた人で、いわゆるニューシネマの人っぽい経歴じゃないというか、その初期作を見てもカウンターカルチャー的なニュアンスはない。どちらかといえばむしろ愛国的な色がある。

そういう人が混乱の70年代に女性警官を撮る。俺にはそこにアメリカ映画とアメリカという国の美点や強さが凝縮されてように思えた。
どんなに最悪に思える状況でも必ずなんとかなるという根拠のない楽観性。時代のムードが変わればそれに合わせて国の形を変えていける柔軟性。どのような職業であってもどのような人種であってもまたどのような性別であってもアメリカ国民としてアメリカ国民のために行動するのなら優劣は付けない軍隊式の平等主義。

まぁ最後のやつは色々問題を孕んだものだとは思うが、ただでさえ『ビリーブ』の話から逸れているのでそれはひとまず置いといて、こういうのを見ると俺は素朴にアメリカって良い国だなぁと思ってしまう。
『ビリーブ』はまさにそんなアメリカの良さが詰まった映画だった。どうしようもない時代があってどうしようもない奴らもいるが、明日からとはいかなくとも少しずつ必ず良い方向に変えていくことはできる(かもしれない)

理想的な絵空事だと言われれば諸手を挙げて賛成するが(「実話を基にした」というのはアメリカ映画では昔昔あるところに…ぐらいの意味しかないので)、映画なんだからまぁそれでいいじゃないですか。それに理想なくして未来を予測はできるとしても方向付けることはできない。
むしろ理想の喪失こそが消極的な現実逃避なのだと思えば、こんな絵空事の方が現実に近いことだってあるんである。

それでその絵空事の内容なのですが絵空事のくせに法律に関する結構専門的な映画なので正直に言うと詳しいことはよくわからん。もっと正直に言うとむしろ全然わからん。台詞は法律関係の専門用語が飛び交い特に説明とかはしてくれないし、シーンの場所を表す説明テロップなんかも出ないので注意深く画面を見ていないとすぐ迷子。出てくる人間が多いわりにはその関係とか肩書きが一瞬で通り過ぎてしまう。

ということで後でパンフレット買ってわからなかったところを補完しようと思うのですが、こんな理解に努力を要する難しめの脚本(ちょっとソダーバーグ映画っぽい感じである)をアメリカ映画としか言いようがない軽快なテンポと明快な演出で誰にでもわかる面白いイイ話として描き切る。
これはすごいことだと思ったな。監督ミミ・レダー、俺の認識では先例主義により『アルマゲドン』の二番煎じみたいな隕石映画を撮った人でしかなかったが、これからは『ビリーブ』を撮った人ということにしよう。ミミ・レダーは隕石ではなく『ビリーブ』を撮った人です。隕石も撮りましたが。

細かいことはわからないのでざっくりしたところで言うと主人公はルース・ベイダー・ギンズバーグという現・最高裁女性判事で、映画はその若かりし頃を描いたものらしい(この人はアメリカでは超有名っぽい)。
ハーバードのロースクールに入るも時は1956年。成績的にはめっちゃ優秀だったが所詮女でしょ的な感じで露骨に邪魔者扱いされたうえ、卒業後(途中からコロンビア大学に編入)は女はお茶くみでもやってろよみたいな感じで法律事務所の就職先が見つからない。

このまま引き下がれるかよってんで、子育てをしつつロースクールで教鞭を執っていた1972年、母親の在宅介護に伴う税金控除が女性でないからという理由で受けられない独身男のケースに電撃遭遇すると、これは失った夢を取り戻すチャンスとばかりに法律上の性差別を撤廃すべく動き始めるのであった。

何が良いってまずオープニングからして快調快調。ハーバードのロースクールの入学式、学舎に向かって男たちが軍隊式に行進しているの図。その中にポツンと一人だけ女の人がいて、それが主人公ギンズバーグ。このわかりやすさですよアメリカ映画。オープニングを見れば何についての映画か半分ぐらいわかってしまうみたいな。

人物に目を向ければ老ガンマンの如し孤高の武闘派法律家キャシー・ベイツの格好良さ、助っ人ジャスティン・セローの淡い恋心のような屈折したなにか(なにか)、サラっと憎々しいハーバード・ロースクール学部長サム・ウォーターストンの天晴れな悪役感、そして常にファイティングポーズを崩さないギンズバーグ/フェリシティ・ジョーンズの凜とした佇まい、家事育児は任せろの献身的な夫アーミー・ハマー!(それはさすがに絵空事が過ぎるだろ)

どうですかこれは。西部劇みたいな映画じゃないですか。この竹を割ったような世界観。何があろうとぐだぐだ説明したりうじうじ引き延ばしたりしないあっけらかんとした編集。青をキーカラーにした明瞭な色彩設計。正義を訴えたくば正々堂々法廷で闘えのピューリタン精神。いやもちろん現実では必ずしもそうではないのだけれども映画だからさ…アメリカ映画だからいいじゃないすか…それはさておき!

1956年のシーンでは画面の中の黒人が給仕しかいない。ハーバード・ロースクールの新入学生に黒人ゼロ。一方1972年のシーンではロースクールの学生に普通にヒップな感じの黒人女性が混ざってる。カメラはそれを特にクローズアップしたりしない。
実に心憎い演出っぷりだと思う。流行りの映画みたいに時代の変化をこれ見よがしに出してこようとしない。あざとさがねぇっつーか。あざとくはないんだけれどもしかしちゃんと画面を見ていれば、その背景には主題とはまた別の問題や別の歴史が確かに流れていることがわかる仕組みになってるわけだ。

今日的な観点からすれば進歩的な女性権利運動家の枠に入るギンズバーグ/フェリシティ・ジョーンズも1972年にはヒッピー・ムーブメントに浸かって育った娘から保守的で体制順応的なダメママ扱いされる。
『アラバマ物語』における正義の在り方について法律家の観点とヒッピー系活動家の観点から議論を戦わせる場面は短いながらも映画の白眉、親子の断絶と時代の変化が一点に凝縮された場面で、ここからギンズバーグ/フェリシティ・ジョーンズは性差別撤廃のために立ち上がる。

アメリカ映画はいつも私的な事柄のために世界と戦う。それはたとえばマイケル・マンのハードボイルド映画に見られるようなものであるし、サム・ペキンパーのバイオレンス西部劇に見られるようなものでもあるし、フランク・キャプラの『スミス都へ行く』が提示するようなアメリカ的公共性だ。
映画の冒頭に付されたテロップが裁判の先例主義を説明するが、それは単なるイントロダクションではなくこれから始まるものが公的なものと私的なものの対決の物語であること、そして私的なものの積み重ねが公的なものであり、アメリカであることを仄めかしていたように思う。

俺はこういうアメリカが! こういうアメリカ映画が好きなんですよ…!

【ママー!これ買ってー!】


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ラストシーンが『スミス都へ行く』とよく似ていたように思うが、最初の方にはハーバード・ロースクールの講義中に発言したギンズバーグ/フェリシティ・ジョーンズが「それは説明か? それともフィリバスター(議事妨害)か?」とか言われていたので、田舎議員スミスさんのフィリバスターが映画のクライマックスになる『スミス都へ行く』は結構意識してるんじゃないだろうか。

↓伝記絵本だそうです


大統領を動かした女性 ルース・ギンズバーグ―男女差別とたたかう最高裁判事

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