北野武は暴力映画の天才ではないんだ論
北野武は暴力映画の天才なのか。いやそうではないんじゃないか。少なくとも北野映画の本質は暴力ではないんじゃないだろうか。勢いで書いた7000字です。
アンチ・シネフィルなゆるふわ系にわか映画ブログ。
北野武は暴力映画の天才なのか。いやそうではないんじゃないか。少なくとも北野映画の本質は暴力ではないんじゃないだろうか。勢いで書いた7000字です。
いつかはまとまったシャマラン論を(誰も書いてくれないので)俺が書かねばなるまいなと謎の使命感もあるのだが今日のところはひとまずそのための眠い頭での地ならしというか脳みそ整理。
最近の映画はなんだかニューエイジばかりだなぁ!と思ったのでそもそもニューエイジとはなんぞやを俺なりに整理してみた。
『エターナルズ』の多様性がどうこうの話があまりにアホらしかったのでその愚痴。
世の中が正しい映画を求めすぎているので愚痴。
なんか最近の映画は男の方が暴力を使いこなせてないよなぁ…などと考えていたら思考バブルが爆発したのでメモ的に映画の中の暴力を大☆妄☆想。とくに論としては出来ていないのであくまで飲み屋のヨタ話として暇な人だけお付き合いください。
身も蓋もないがゆえに単なる職人のB級映画として観ることができるのがカーペンター映画なら、そこからいくらでも意味を汲み出せるのもまたカーペンター映画。というわけで俺がカーペンター映画を観て考えたことを作品分類をしつつ大☆開☆陳!
忘れられたわけでは決してないが少なくとも日本では正当に評価されたわけでも決してないルチオ・フルチを今、再評価する時が来たんじゃないだろうか。
「種の保存」というのは要するにフルチの『荒野の処刑』のことですという怪説。
名画座に通ってたらなんかムカついてきた。